第6話 雨のちくもり、やがて晴れ
帰ると、母がいた。きょうは休みだったっけと思い出した翔太は、表情を取りつくろった。
「ただいま」
おかえりと声をかけた母は、台所で鍋をかきまぜていた。匂いからするとカレーだ。母の作るカレーは、市販のルーを使っているのにとてもおいしい。タマネギを徹底的に炒めるのがコツよと、作る度に母は得意そうに言う。
だが、いまの翔太はカレーの匂いにも心が浮き立たない。もう食べ物一つで喜ぶほど子どもじゃない。
それでも笑顔を作ると、母はお玉を持った手を止めて、翔太をまじまじと見つめた。
「野崎くんのお家に行ったんでしょ。ケンカでもしたの?」
翔太は慌て気味に顔を背けた。なんでお母さんにはわかるんだろう。
「別に」
「そう? あら、その袋は?」
翔太は、笛の袋を体の後ろにかくして、しまったと思った。これでは見られたくないものを持っているってバレバレじゃないか。
「なんでもないよ。手を洗ってくる。お腹空いちゃった」
動揺をかくして、自分の部屋に行き、笛を机の引き出しにしまうと、手と顔を洗った。
笛のことを話すとなると、父のことから話さなくてはならない。いまの翔太にはそれがめんどくさい。
三回、深呼吸をして、さりげなく台所に行くと、母はお皿にご飯を盛りつけているところだった。黙って皿を受け取り、鍋の中のカレーをすくって上にかける。底の方に転がっているスジ肉もちゃんと自分と母の皿に入れた。
「おいしいよ」
なにか話さなくては、と、向かい合ってカレーを口に入れながら声をかけると、母はふっと口元をゆるめた。
「なぁに。めずらしいわね」
翔太は、またしまったと思う。
誰になにをどれだけ話せばいいのか、いつもわからない。話しすぎてもダメだし、黙っていてもダメ。
相手に煙たがられたり、心配をかけたり。
トオルも村井も、そういうのはうまくやっているように見えた。クラスのみんなもだ。
自分だけが、いつも迷って、困って、失敗ばかりしている。そんな気がした。
「ねえ、翔太」
母は、福神漬けを小鉢から取りながら、目を伏せて言った。
「言いたいことがあるんじゃないの?」
ドキッとする。
「なんで?」
母は、カレーに目を落としたままぽつんと言う。
「私が、我慢させちゃってるんじゃないかなって思ったの。あんたは優しすぎるから」
違う、と思う。優しいんじゃないんだ、と。
急にカレーの味がぼやけた。柔らかいはずの肉が、噛んでも噛んでも飲み込めない。
優しいんじゃないと、心の中で繰り返す。ただ、いつも正しく選べないだけなんだ。なにが正しいのかわからないから。
「なにを聞いても、別にって言うようになったのはいつごろからだったかしらねえ。言いたいことは言わないでずっとためていたら、そのうちお腹がはじけちゃうわよ」
黙っている翔太を励ますように、母は少しだけ声のトーンを変えた。
「お父さんに会ったとき、どんな話をしたの?」
翔太はスプーンを皿に放るように置いた。ガチャンと耳障りな音が響く。
「お父さんの話なんて、聞きたくないんじゃないの?」
「そうね。前はそうだった」
「いまは違うの?」
母の目が一瞬宙をさまよってから翔太に向けられた。
「もう、あの人のこと怒ってないから。今は、翔太のお父さんだって思ってるわ」
翔太の手が、のろのろとスプーンをつかんで、残りのカレーを機械的に口の中にかきいれた。
なんでそんな風に割り切れるんだろう。大人になったら、そうなるんだろうか?
翔太は、両親に離婚すると告げられた日のことを思い返した。
まだこのアパートに移り住む前。小学校四年生だった。
自分と、父親と母親が、まるで正三角形のように距離をとって座っていた。
明日、お母さんも、お父さんも、この家から出て行く。この家は売ってしまわなければならなくなったのだと。
「お父さんとお母さん、どちらと一緒にいたい?」
翔太は、なにが起こっているのかよくわからずに、二人を順々に見つめた。まるでどちらかの顔に正しい答えが書いてあるんじゃないかというように。
お母さんは怖い顔をしていた。
お父さんは困った顔をしていた。
どっちか選ばなきゃいけないの? ぼくが選ぶの? 二人とも一緒にいるわけにはいかないの?
本当はそう聞きたかった。
泣いて駄々をこねて、わがままに言ってみればよかったと思いついたのは、引っ越しがすっかり済んで、新しい学校に通い始めてからだった。
ぼんやりと二人を見比べるばかりでなにも言わない翔太は、次の日、母に手を引かれて家を出たのだ。
大人は勝手だなんて言えない。一応選択する権利はあったのだし、なしくずしに母と一緒にいることになったのも、ふらふらとしてばかりの父のことを思えば、結局これでよかったのだと思うしかない。
「お父さんのことで言いたいことなんてないよ。でも」
翔太はゆっくりと話し出した。
「おじいちゃんが亡くなる前に、もう一度会いに行ければよかったなあって思って」
ああ、と母はため息をついた。
「そうね。あのころはお母さんもバタバタしていて。ごめんね。そっか、おじいちゃんか。お父さんがあんたに会いたいって言ってきたとき、はじめておじいちゃんのこと聞いたの。家を整理したら渡したいものが出てきたって。なんだったの?」
「うん……こわれた笛」
「笛?」
母は少しだけ視線を天井に向けた。なにかを思い出そうとするときのくせだ。
「ねえ、おじいちゃんってどんな人だった? お母さんは覚えてる?」
「ウーン。私もそんなに度々会う機会はなかったんだけど。優しい人だったって思い出はあるかなあ。おばあちゃんが先に亡くなって、お葬式でうかがったとき、おじいちゃんはずいぶんあんたを可愛がってくれたのよね」
あ、と思う。おじいちゃんが笛を吹いていたのは、おばあちゃんのお葬式のときなのかもしれない。
「そうだ。そのとき、笛を吹いていらしたわね。横笛だったわ。昔の人みたいな」
手を顔の横に持ってきて笛を吹く真似をしてみせる母からは、もう心配そうな影はぬぐわれていて、翔太もほっとする。
「うん、その笛だよ。おじいちゃんの家を取り壊す前に、荷物の整理をしていたら見つけたんだって」
「でも、どうして翔太に渡したのかしら?」
「ぼくあての手紙があったんだ」
「そうだったの」
母の目がもの言いたげにゆれたけど、その前に翔太は食卓を立った。
「宿題、やらなきゃ」
トオルは、一人でぐるぐる考えたあげくに、なにも言わないと怒っていたけど、それでも翔太は一人でじっくり考えたかった。
翌日から、学校へ行ってもなんとなくゆううつな気分だった。雨が続いているせいじゃない。
トオルはいつも通りにふざけてからんでくれるけど、あれから笛や竜ついては一言も口にしない。
村井はときどき何か言いたそうな顔をしていたが、こちらは翔太のほうが無視をしていた。
もやもやしたまま家に帰り、宿題の英語のノートを開いてみたが、全然集中できない。
明日は部活があるのにと、翔太は舌打ちを一つして、笛を取り出した。
大事なときになにも言えずに、後になってクヨクヨする性格をなんとかしたい。
でもその瞬間、瞬間に、自分の意見なんてまとまってないんだからしかたないじゃないかと、自己弁護して、笛を口に当てた。
村井が書いていたメモを思い出す。
あえて、ちび竜のことは考えずに、昔おじいちゃんのひざの中で聞いた笛の音を思い出そうとした。
雨が降っていた。ひさしから落ちる雨だれの音。蛙の鳴き声。
お葬式だったのなら、おじいちゃんは悲しんでいたんだろうか。
ふぅ、ふぅと息を送り込む。
さわさわと庭のはんの木の葉っぱがゆれる。遠くで人の声も聞こえただろうか。
ふぅ、ふぅ、ふぅ。
「きゅるる」
やがて、小さな鳴き声が笛の先からした。つむっていた目をあけると、ちび竜が這い出てくるところだった。
ふぅぅ、ふぅ、ふぅぅ。
「ピーキュルキュル。ポー、プー」
ちび竜は、トオルの部屋にいたときよりもくつろいだ様子で、くるんと空中で一回転して、そのままふわふわと鳴きながら舞った。
青い、小さな竜の子。
翔太が笛から口を離すと、ちび竜も舞うのをやめて、机の上に降りる。
広げた英語のノートを、首を傾げて見てから、翔太を見上げた。
「おまえ、英語わかるの?」
聞いてみたけど答えはない。
「ねえ、ぼくのおじいちゃん、知ってる? この笛が壊れる前、おじいちゃんが吹いてくれたんだけど。おまえはそのときもいたの?」
手を近づけると、ちび竜はぴょこんと飛び乗って、手のひらに顔をすり寄せると、しっぽを抱えるように寝転がった。
重さはほとんど感じない。
笛を吹いてないと鳴けないのだろうか。笛がこわれたからちび竜になって現れたのか、こわれる前もいたのか。
思いついて、翔太はそっと立ち上がり、部屋の隅のカラーボックスの前に膝をついた。
そこには『たつのこたろう』の文庫本があるのだ。たしか表紙に竜の絵が描いてあったはず。
左手で奥の方に押し込んであった本を探り出し、ちび竜に見せてやる。
その表紙の竜は、こんな親指サイズじゃない。なにしろ太郎が背に乗っているのだから。それに色も緑色だった。
でも顔の感じは、ちび竜にもよく似ていた。
「おまえも、こんなに大きくなるの? それとも笛の中に住んでいるから、ずっとちびのまま?」
問われたちび竜は、首だけ持ち上げて『たつのこたろう』の絵をじっと見つめたまま答えない。
でも笛の中に戻る気配がないので、翔太はまた机にもどり、『たつのこたろう』の本の隣にハンカチをしいて、手のひらからちび竜をそっと移した。それから笛とおじいちゃんの手紙も並べる。
苦手な英語の宿題に取り組む間も、気になってちらちらと見たけれど、ちび竜はハンカチの上ですっかり眠ってしまったように見えた。
ささくれだっていた気持ちが、平らになっていく。
笛のこともちび竜のことも、わからないことだらけ。自分にはできないことだらけだけど。でも明日はトオルと村井にちゃんと相談してみよう、と思った。もう「どうせ」なんて言わないぞ、と。
朝、目が覚めると、ハンカチの上は空っぽだった。ちょっぴりがっかりしたけど、きっとまた出てきてくれる気がした。
早番の母のために、久しぶりにみそ汁も作った。母はびっくりしたが、すぐに笑ってシャケを焼いてくれた。それだけでなんか気分のいい朝だ。
でも空は土砂降りで、学校に着いたときには靴も靴下もびしょぬれだった。
教室に入るとすぐにトオルをつかまえた。
この前のことなんか忘れたみたいにへらっとしてくれるのがありがたい。
「おは。なんかスッキリした顔しちゃって」
「うん。あのちび竜。また出た」
「へえ?」
トオルは、イスを揺らしながら腕を組んだ。
「雨も降ってたし、おじいちゃんのこと思い出しながら吹いたし。どれがよかったのかわかんないけどさ。その、これから笛のこととか竜のこととか、もう少し真剣に調べてみようかなって思って」
「で? それはおれへの協力依頼か?」
翔太はカバンから四つに折りたたんだ手紙を取り出した。
「一緒に調べてくれない?」
ゆらゆら動いていたトオルのイスがぴたっと絶妙なバランスをとってとまった。次の瞬間、ガタンと床を打つ。
「いいよ。あんな怪異現象見ちゃったら、もう関わるなって言われてもこっちは収まりがつかないしな」
「それならこの前は、なんであんな言い方……」
「そりゃあ、おまえから協力して欲しいってはっきり言われないと、どこまで踏み込んだらいいかわかんねえだろ。こうかな、ああかな、なんてやってられねえよ」
母も父もそうなのだろうか。自分がぐずぐずと自分の気持ちを表さないから、そっと推し量ってみたり、勝手に押しつけてきたりするんだろうか。
また考え込んだ翔太のおでこに、トオルのこぶしがゴツンと落ちた。
「バーカ」
「なんでっ?」
「馬鹿だからバーカって言ってんだろ。少しはうれしそうな顔しろ、バーカ」
翔太は赤くなったおでこを押さえ、へらっと笑って見せた。ついさっきトオルがしてくれたみたいに。
それだけで、肩が軽くなった気がした。
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