第7話 文芸部での収穫
放課後。部活のために図書室に行くと、先に来ていた村井は二年の女子とおしゃべりに花を咲かせていた。
文芸部は男子が四人、女子が五人と、女子のほうが多い。
三年生の青木部長と二年の副部長福原は、二人ともSF好きのオタク男子で、翔太にはちんぷんかんぷんな難しい話をよくしていた。
女子もそれぞれ好きな作家がいるらしく、本が好きということ以外はあまり共通点もなければ、先輩後輩の縛りもゆるい。週に一度だけの地味な文化部だ。
特に好きな小説も作家もない翔太とトオルは、どちらかといえば浮いた存在のはずだが、それもあまり気にされない気楽な部活だった。
翔太とトオルがやってくると、村井は手にしていたクリアファイルを振ってみせた。
「ねえねえ、あれからインターネットで笛と竜についての伝説を調べてみたんだけどね。そのものズバリのものってなかなか見つからなかったんだけど」
村井の表情にはなんのわだかまりも見えない。しかも頼んでもいないのに調べ物をしてくれたらしい。
おせっかいなヤツだなという気持ちと、うれしい気持ちが混ざり合って胸を満たす。
渡されたファイルにはプリントアウトされた紙が数枚入っていたが、ほとんどは竜笛そのものの吹き方の解説だった。
「野崎のおじいさんが言っていたとおり、竜笛の音は舞い立ち昇る竜の鳴き声って言われてるんだけど。それでね、雅楽の笛には他に二種類あって、ほらこれ」
村井の取り出した紙には、縦にいくつもの管を束ねたようなものと、竜笛よりも短そうな横笛のイラストがあった。
「こっちの変わった形のは笙の笛。ハーモニカみたいに和音が吹けるみたい。この短い笛はひちりき。竜笛より高い音が出るんだって」
村井は、声は低くしていたが、興奮しているのかほおが赤い。
「でね、笙の笛は天から射し込む光。ひちりきは地を行く人の声って言われるらしいの。つまり、竜笛は、天と地の間を自在に舞ってその二つを結びつける竜の鳴き声ってわけ」
天と地。どこかで聞いたようなようなと思って、翔太はあっと大きな声を出した。
ちらっと他の部員が迷惑そうな顔をあげたが、かまわない。
「天と地っておじいちゃんの手紙にも書いてあるって……」
「そう! それそれ。あたしもそれを思い出した」
「じゃあ、あの手紙は、その雅楽ってのに使われてる笛のことを解説しただけのものってことかね?」
トオルが口をへの字に曲げて言った。
「それはわかんないよ。というか、それなら別に松本あてに書く必要なんてないし」
村井はあっけらかんと言ってファイルを取り戻す。
「情報が足りないんだよね。笛や竜のことだけじゃなくて。松本のおじいさんのことも知らないとダメなのかも」
おじいちゃんのことか、と翔太は顔をしかめた。
お母さんはあまり知らないと言っていた。父親の父親なんだから、お父さんならなにかヒントを出してくれるかもしれないけど、そのためだけに連絡を取るのもうれしくはない。
どうしようかと考え込んだところに再び図書室の戸が開いて、顧問の須田先生が大きな体を揺らすように入ってきた。
社会科教師のくせになぜかアウトドア大好きらしい。授業を進めずに休みの日に登った山の話を延々とするんだと、青木部長がぼやいていた。
国語の教師じゃないのに、なぜ文芸部の顧問をしているのかは謎だ。でも好きで手を挙げたのだとは二年の福原先輩から聞いた。
黙々と本を読んでいた青木部長が、メガネを押し上げながら部員に声をかけた。
「さあ、みんなそろったみたいだし。部活、始めるよ。きょうの議題は夏休みの合宿について」
部員ががたがたと机を丸く並べ直すのに合わせて、翔太たちもひとかたまりになって座る。
文芸部の夏合宿は、部員それぞれがこれ! という本を持ち寄って、紹介文を書いたポップを披露しあうのがメインになっている。
そして夏休みの間に、合宿で推薦された本二冊を読んで感想文を提出。九月の文化祭ではポップをつけた本と感想文を展示するのだ。
地味な文化部が存在をアピールできる唯一の場である。
翔太とトオルがほっとしたことに、推薦図書はマンガでもよしとされているらしい。そのためもあってか、文化祭でもそこそこ人気があると聞いている。
「オレ、家にあるマンガにしようかなあ。考えるのめんどくせえ」
トオルが小さくささやいた。
「ぼくはどうしようかな。図書館の本になっちゃうけど、いいのかな」
「せっかくだからさ。竜とか笛とか。なにかそんなものが出てくるのにしろよ。それ、オレが後で借りるからさ、簡単なヤツな。おまえにはオレのマンガ貸してやる」
ズルしている気もするが、ありがたい申し出だ。それで感想文の一冊は確保できる。
頭をくっつけるようにこそこそ話していたのに、静かな部室では筒抜けで、でも誰もなにも言わない。良くも悪くもそれぞれが好きなようにやるのが文芸部の伝統だ。
「合宿は費用がかかるから、みんな事前に家族の了解とっておいて。場所に希望はありますか?」
青木の声に、翔太は顔をくもらせた。
いくらくらいかかるんだろう。お母さんは、合宿代ならと出してくれるだろうけれど、少し気が重い。
「だれか、別荘とか持ってないのかなかあ」
丸顔の福原がぼそっと言った。
「別荘じゃなくてもさ。おじいちゃん、おばあちゃんの家とかで、ぼくら全員が泊まれる古民家とか」
そんな都合のいい話なんてと、いっせいにおしゃべりが始まる。
「別荘持っているようなお金持ちなんて、ねえ」
クスクス笑っているのは二年女子の三人組だ。
だが翔太は、おじいちゃんの家というフレーズに、はっと思いついた。
今、おじいちゃんの家は無人だ。秋には取り壊してしまうと、父親は言っていたが、夏休みならば利用できないだろうか?
自炊になるけど、一晩くらいならカレーでもなんでもいいだろうし、それならば交通費と食事の材料費だけですむかもしれない。
こわされてしまう前に、もう一度、あの家に行きたかった。笛と竜についての手がかりが残っているかもしれないのだ。
お母さんにはますます言い出しづらいけれど、部活の合宿に使いたいと言えば、あまり嫌な気持ちにならないかもしれない。昨日だってもう怒ってないって言っていたし。
それに言ってみてダメなら素直に謝ればいい。そのほうがきっとスッキリする。
「あの」
肩まで小さく手を挙げた。
「もしかしたら、ぼくのおじいちゃんの家が使えるかも。誰も住んでいないし、古い普通の家だけど。もし、夕飯と朝食を自分たちで作るなら」
めったに発言しない翔太の提案に、みんながいったん静かになった。
「誰も住んでないって。おじいさんの家じゃないのか?」
「あ……だいぶ前に亡くなって」
「それだと電気や水道やガスが使えるのかどうか、だね」
青木の指摘に、翔太は首をかしげた。
「おばさんに聞いてみてもいいですか? 近くに住んでるので」
部長は、どうしましょう? という目を須田先生に向けた。先生は組んでいた腕をほどいてトサカのような髪をがりっとかく。
「そうだなあ。松本、じゃあ、おばさんに聞いてみてくれるか? さすがに風呂も入れないんじゃ困るからな。自炊は、まあ一つの経験だからいいと思うが、みんなはそれでもいいのか?」
村井がすかさず手を上げる。
「キャンプみたいだし、いいと思います! 田舎のお家なら騒いでも怒られないし」
「庭で花火もできるしな」
トオルも加勢した。二人とも、翔太の気持ちに気づいたのだろう。二人ともあの不思議なちび竜を目撃したのだ。考えたら気にならないわけがない。謎を解きたいのは翔太と同じなのだ。
あまりに熱心な一年生からの発言に、戸惑ったような空気が流れる。
「それなら松本のおばさんの返事待ちってことで。もしダメなら合宿先はおれが決める。それでいいな」
須田先生は強引に話を締めくくって、部活の終わりを告げた。
「松本はちょっと残れ。おじいさんの家についてもう少し情報もらえるか」
生徒たちが帰り支度をする中、須田先生は翔太の両肩にがっちりと手を置いて引き留めた。
口は笑っているが目がなんだか真剣で、翔太は目でトオルに助けを求める。当然のような顔で村井も戻ってきて、結局三人でまた座り直すはめとなった。
部長も、少し迷ってから先生の隣に腰をおろした。まるで面談をするみたいな雰囲気に、ますます緊張する。
「で?」
「でって、先生。あの、まずおばさんに聞かないと……」
「そうじゃないよ」
須田先生は大きな口をにやりとさせた。
「一年生がなにを企んでいるのか、聞かせてもらおうか」
「は? 別に何も企んでなんか」
言いかけたトオルをぎろりとにらんで、先生は翔太を見下ろした。
「別にとか言うなよ。教師生活二〇年をなめるな。日ごろはだんまりの松本が、積極的におじいさんの家を持ち出してきたのは理由があるだろう? 困りごとがあるなら相談しろ」
三人は顔を見合わせた。先生に相談するような困りごとはないのだが、まさかこわれた笛からタツノオトシゴもどきのちび竜が現れるんですと言っても、信じてもらえそうもない。
「あ、ええっと。そういえば須田先生って社会科ですよね」
村井が、何か思いついたようにぴょんと手を上げた。
「おう」
「もしかして、昔の文章……ええっと、古文書とかって読んだりできるんですか?」
「日本史専攻だったからな。大学じゃ、やっていたが。急になんだ?」
須田先生は、いかつい顔のまま困ったように首をかしげた。
村井は期待をこめた目で翔太をふり向いた。
「ほら、松本。あれ、読んでもらったら?」
「あっ、そうか」
あわてて財布からおじいちゃんの手紙を引っ張り出し、翔太は先生の前に置いた。
「あの、困りごとじゃないんですけど。これ、ぼくのおじいさんが書いたものなんですが。誰も読めなくて」
もごもごと説明すると、先生はどれと手紙を手にとって顔に近づけた。黙って見ていた青木部長も首を伸ばす。
「最初は『しょうたへ』だな」
しばらくしてから須田先生はおもむろに口を開いた。
「だが、次からは松本への手紙という感じじゃないんだが。『竜は天と地を繋ぐ者。すなわち水の化身なり。水は万物を溶かし、姿を変じ、時を超越して星を巡る。故に水を縛ること能わず。祈りに応えし竜もいずれは水に還すべきものなり』という風に読めるな」
図書室がしんとした。
一年生三人組が、言葉の意味を理解しようと首をひねっているのを見て、青木部長が声をあげる。
「話が今一つ見えないまま言うけど。古めかしい言葉遣いだけど、最初の部分は水の性質について述べているんですよね。水はいろんなものを溶かす性質がある。水から水蒸気になって雲を作ったり、雨になって海に注いだりして地球をまわる」
ああ、と一年三人の口からため息が漏れる。さすがは理科好きな三年生だ。
後輩から尊敬の目を向けられて青木は眼鏡を押し上げた。
「ええっと。その上でだ。竜を水に戻せってところが、まあメッセージなのかな。いきなり竜って言われてもなんのことかわからないけどね」
「メッセージってぼくへの?」
「最初に『しょうたへ』ってあるなら、松本にあてたメッセージと考えるのが妥当じゃないのか?」
翔太はまた黙り込んだ。
竜を水に返せというのは、あのちび竜のことだろうか。そういえば、最初に現れたとき、燃やしちゃうぞと言ったら、抗議の鳴き声を上げていた。水につけるぞと言ったら喜んだんだろうか。
「松本」
ふいに須田先生の手が両肩に乗った。
「顔色が悪いぞ? やっぱりおじいさんの家を借りる話はなしにしておくか?」
そんなに心配されるような顔をしていただろうかと翔太は瞬きを繰り返してから、はぁと長く息を吐いた。
こういう時にちゃんと思っていることを言わなくちゃと顔を上げると、トオルがヘンな顔をしてみせた。励ましてるつもりか。
「いえ……。おばさんがオッケーしてくれたら。ぜひ使って欲しいです」
「そうか?」
「はい。この手紙はおじいちゃんの遺品の中にあったんです。ぼくあてなのはわかっていましたけど、その先がわからなくて。だからもう一度おじいちゃんの家に行ってみたかったんです。でも」
両親が離婚しているから言い出しにくかったという前に、須田先生は「そうか」とうなずいた。
「まあ、そういうことなら協力するのもやぶさかではない。ただし、ちゃんとお母さんとおばさんに話すんだぞ。大丈夫か」
首をたてにふる翔太の背中を押すように、村井がぴょんと手をあげた。
「うん、行こうよ、みんなでさ。花火もやろう。いっぱい持ってくよ」
「その前に飯作るんだぞ。村井は料理なんかできるのか?」
「できますよ。小学校にだって調理実習の時間があったんですからね。かきたま汁とか粉ふきイモとか」
小学校の調理実習かと、青木部長がひきつった顔でため息をついた。
「塾の時間もあるので、そろそろ終わりにしていいですか? 松本は家の人に聞いたらすぐ須田先生とぼくにおしえてくれよな」
全員が立ち上がって帰りじたくをする。
「青木先輩は、というか三年生は夏合宿が終わったら部活引退なんですよね?」
須田先生と図書室で別れ歩き出すと、西日の当たる廊下の窓から光がさし込んで、教室側の壁にお化けのような影を作っていた。
「うん。夏合宿で次の部長、副部長を決めて、二学期には新体制で部誌の作成と文化祭の準備をしてもらうことになるね。三年生は受験勉強まっしぐらだよ」
青木はすこし憂鬱そうに答えた。いかにも優等生っぽい外見のとおり、青木部長は学年でもトップの成績だと評判だ。それでも受験となると大変なんだろうか。
「夏休みも合宿をのぞいたら塾通いだ」
「それじゃあ本なんて読んでるヒマないっすね。感想文はどうするんですか?」
トオルの問いに青木はメガネを光らせながらニヤッと笑う。
「読むさ。それくらいの時間はとれる」
「部長ってマンガも読むんですか? あとゲームしたりとかは?」
「読むよ。ゲームは最近やらないけど。野田は合宿にマンガを持ってくるつもりなんだろう?」
へへへとトオルが変な声で答えた。
「あたしもマンガでいいですか?」
村井が目を輝かせて聞く。
「平家物語じゃねえんだ?」
「違うよ! でも紹介したいマンガもたくさんあるから、どれにしようかなあ」
三人の楽しげな声を耳にしているうちに、課題図書のポップの作成も、感想文も、面倒だなと思っていた気持ちが薄らいで、夏合宿を楽しみに思う気持ちに置き換わっていくのが不思議だ。
玄関で靴をはきかえて外に出ると、久しぶりの晴れた空は、オレンジ色に染まっていた。空気まで色がついたようだ。
夏合宿には行きたいし、おじいちゃんの家にも行きたい。
その二つをかなえるためなら、お父さんに頭を下げても、お母さんを困らせても、いいやと思った。
夜、焼いたアジの骨と格闘しながら、翔太は夏合宿の話を切りだした。
やりたいことや言いたいことがあるなら、まずはきちんと話してみて、あきらめるのはその後でいいと自分に言い聞かせる。
「文芸部の夏合宿なんだけど。安く泊まれる場所を探しているんだって。それで、おじいちゃんの家、取りこわす前に使えないかなって思うんだけど」
母は、きれいに箸を使いながら、目をちらっとあげた。
「それは路子おばさんに聞かないと、お母さんにはわからないな。聞いてみたら? 電話番号はわかるわよ」
「……その、お父さんには相談しなくてもいいかな」
「いいんじゃない? 管理してるのは路子さんところだろうし。自分で電話できる?」
父親の妹である路子おばさんに会ったのは、最後におじいちゃんのお見舞いに行ったときだから、もう五年くらい前になる。翔太は気後れする心を、なんとか奮い立たせて笑ってみせた。
ぐちゃぐちゃになってしまったアジの身から、丁寧に小骨を取り除くと、まとめてご飯の上にのせてぱくっと食べる。塩のきいたうまみのある身が、ご飯にぴったりだ。
焼き魚を食べるのは苦手だけど、時間をかければちゃんとおいしく食べられる。
いままで、なにかする前からしりごみしていたことも、やればなんてことはないのかもしれない。
食べ終わって、母に教えてもらった番号に電話をかけると、路子おばさんは思いがけずに喜んでくれた。
「あらあらまあまあ。久しぶりねえ。もう中学生? あらまあ、想像もつかないわねえ。そうそう、兄さんにね、父さん……翔太くんのおじいちゃんの笛をあずけたのよ。もうもらった? あれ壊れていたけど、ちゃんと翔太くんへってお手紙もついていたものねえ」
どこで口をはさめばいいかわからず、はい、はいと合いの手をいれていると、おばさんのおしゃべりは際限なく続きそうだった。
「父さんのね、お葬式も本当は来てもらいたかったのよ。早苗さんだってきっと心よく送り出してくれるって言ったんだけどねえ。兄さんったら早苗さんには言いにくいからって。ごめんなさいねえ。びっくりしたわよねえ、一年も経ってからじゃねえ。お母さんには謝っておいてねえ」
「あ、はい。あの、それで。ちょっとお願いが」
ようやく息継ぎの瞬間に用件を切り出す。
「ぼく、中学で文芸部に入っているんですが。それで、ええっと、夏休みに一泊で合宿をすることになっていて。で、おじいちゃんの家が空いているなら使わせてもらえないかと思って。それで電話を」
「まあ、あの家を? そうねえ。私が時々は行って風は入れているからそう傷んではいないよ。お布団は、しばらく使ってないから干して、数が足りなかったらうちから持っていってもいいけどねえ。でも庭の手入れまではしてないから、草がぼうぼうに生えてるわね。それでもいいの? 中学生ならおしゃれなところに行きたいんじゃない?」
「そんなでもないです」
頭に村井の顔が浮かんだ。あいつならおしゃれな宿よりも、古い民家を喜びそうだ。
「でも、電気とかガスとか、そういうの使えますか?」
「ああ、それは大丈夫よ。取りこわすっていうのも兄さんが勝手に言ってるだけだもの。まだなんにも決めてないの。おそうじもしておくね。あら、いいのよ。子どもは遠慮しないのよ」
路子おばさんはひとしきりまくしたて、文芸部一行を歓迎すると断言して電話を切った。バーベキューセットも用意してくれると言う。バーベキューなら切るだけだし、みんなで自炊でもなんとかなりそうだ。
受話器を戻す手に汗をかいていることに気づいて、翔太は手をズボンにこすりつけた。
「路子おばさん、喜んでくれたでしょう?」
どうだという顔の母に翔太はうなずく。
「うん。思い切って聞いてみてよかったよ」
「そう、よかったわね」
それだけ言うと台所に向かう。翔太も風呂を洗いながら、少し自分の殻が破れたようで気分がよかった。
お湯をためる設定をして部屋に戻ると、さっそく笛を取り出す。必死になって吹かなくても、ちび竜は出てくるような気がした。
二度、三度と息を吹き入れると、キュルルという鳴き声とともにちび竜が顔をのぞかせる。
「おいで」
笛の先に手のひらを近づける。が、ちび竜はそのまま宙をくるりと舞って降りてこない。本棚のあたりを飛んでいたかと思うと、天井の照明にぶつかってあわてて窓枠に止まったりする。
気ままな小さな竜は、幼い子どもか猫のようだ。
翔太は、机に地図帳を広げた。おじいちゃんの家のあたりを指でたどる。だんだんと小さいころの記憶がよみがえる。
駅前から川沿いに車でいき、確か橋を渡ったはずだ。そして、そのまま小さな支流に沿うように山の中に入っていくのだ。
記憶をたどると胸がちくりと痛んだ。三人で電車に乗って行った幼い日。父親と母親にはさまれて両手をつなぎ、面白がってぶら下がっては、しかられた。
――お母さんの手がちぎれちゃうわ。
――重くなったからなあ。
古い家から出てきたおじいちゃんは、抱っこをしては、重い重いと盛大にぼやいていた。
祖母の葬式のために行ったはずなのに、翔太の記憶の中では、みんなが笑っていた。
翔太は地図をにらむように見つめた。
おじいちゃんの家は、他の家からポツンと離れた山の中にある。近所の家なんか一軒もない。ほとんどの人は駅の周辺に住んでいるのだ。おばさんの家がそうであるように。
山の中での祖母と二人の暮らしは、さびしくなかったのだろうか。
「ちび、おいで」
もう一度強く言うと、ちび竜はふわりと飛んで地図の上に着地した。
「夏休みにここに行くんだ。おじいちゃんの家だよ。おまえ、ここにいたんだろう?」
地図をとんとんと指で示したが、ちび竜はわかっているのかどうか。首をかしげて尻尾をゆらすばかりだ。
「ねえ、おじいちゃんの家は覚えてる?」
ちび竜は、くるんと飛び上がると、笛の先に止まってから、穴の中に姿を消した。
おじいちゃんが笛を吹いていたとき、こんなヘンテコなものがいた記憶はない。
幼児だったのだ。もしちび竜を見たなら大喜びで追いかけ回しただろう。そうしたらさすがに覚えているはずだ。
おじいちゃんと笛の竜の秘密は家に行ったら解けるだろうか。
そう思うと夏合宿が楽しみでたまらない気がした。
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