第13話 空に舞う竜の鳴き声

 まぶたを通して感じた強い光がおさまり、そっと目を開くと、竜はまたあの巨大な姿に変わっていた。

『吾の背に乗るが良い』

 竜が前足を伸ばす。

 正直に言えば、ちび竜やさっきまでの大型犬くらいの大きさならともかく、この竜はこわい。

 頭だけでも翔太三人分の高さはある。そこからつづく体は、半分透けて見えるけど山を一周できるんじゃないかと思うほど長い。

 金色の目。銀色の角。青いうろこの体。

 人の思いが水から竜を形作ったなんて言ってたけど、なんでもっとカワイイ姿にしなかったんだ。

 翔太は口をひきつらせて昔の人をうらんだ。しかしそう思うのは翔太だけだったようだ。

「オレも? オレも乗っていい?」

 トオルがヘンな歓声をあげた。

「あたしも!」

 二人の手が翔太を引っぱる。

「で、でもさ。半分すき通ってるのに上に乗れるの?」

 翔太はせめてもの抵抗に聞いた。

 竜は答えの代わりに前足を差し出した。触ってみると確かな手ごたえがある。

 もうイヤだとは言えなかった。後ろからトオルが尻を押してきて「ひゃあああ」と情けない悲鳴を上げながらよじ登る。

 首の後ろにまたがると、目の下に夜の山が広がっていた。町へと下る道の途中、ぽつんと一つ明かりがあるのがおじいちゃんの家だ。

 翔太はその明かりからそっと目をそむけた。

 今は父親のことを考えたくなかった。

 それに青木部長がいくら口がうまいからと言っても、さすがにもう翔太たちがいないことはバレているだろう。今頃は大騒ぎになっていてもおかしくはない。

 もしかしたら警察を呼んでいるかもしれない。

「大丈夫」

 翔太の心配を察したようにすぐ後ろから村井の声がした。

「怒られるときは一緒だし」

 自分の背中に村井がはりつくように乗っていた。

 後ろをふり返る余裕はないけど、どうやらその後ろにトオルもいるらしい。ヒャッホーと変な歓声が聞こえたから。

 どこか甘いシャンプーと汗のにおいがするのは、気のせいだろうか。

 でも二人がそばにいると思った瞬間ホッとして、翔太は竜のたてがみをしっかりと握りなおした。

 目をこらして見ると、大きな体の大部分は透けているのに、三人が触れたところはちゃんと実体がある。

 こんな非科学的なことあるかと文句を言いたいけれど、誰に言っていいのかわからない。

 風が髪をなぶるように吹いていた。黒々とした折り重なる山の向こうには、漆黒の空を背景にした息を飲むような星空。

 ながめているうちに怖さが遠のいていく。ただ興奮だけが心に残った。

『子らよ、見せてやろう。オノダが笛をふくところを』

 竜の声が響いて、星空がスッと消えた。


 気がつくとおじいちゃんの家の縁側に立っていた。

 いや、立っていたんじゃない。だって足の裏が縁側の板に触れていない。浮かんでいたというのが正解だろう。

 つい先ほどまでむんむんと蒸し暑い中、庭でアイスを食べたりバーベキューをしていた家は、今はひんやりと冷たい空気が縁側から庭を満たしていた。池の周りの草は茶色に枯れ、家を取り囲む斜面の木々も葉を落としている。

 冬枯れの景色だった。その中に、おじいちゃんが立っていた。

 寒いだろうに、裸足にサンダルばきで、薄いカーディガンをはおっただけだった。

 怖いような顔で鈍い灰色の空を見上げていた。

 思わず「おじいちゃん」と声をかけようとして、翔太はすんでのところで声を飲み込む。

 おじいちゃんが笛を構えたのだ。

 ピョーと高く澄んだ音が鳴る。細いケヤキのこずえが、風もないのに震えた。

 大きな竜が現れて、庭ではとても収まらない体をくねらせる。

 同時に翔太の中におじいちゃんの言葉にならない思いがあふれてきた。

 ――息子夫婦は離婚して、孫の翔太は嫁が育てているが。おれが死ぬ前にあいつの顔を見ることはないだろう。

 ――次に発作を起こしたらもうダメだろう。

 ――翔太にこの笛を渡してやればよかったか。せめて武史に……いや、あいつはダメだ。武史に竜の宿る笛を渡したら、きっととんでもない騒ぎを引き起こす。

 ――それとも路子のダンナにわけを話して渡すか。元々は成瀬のものだ。

 思いは行ったり来たりしていた。

 そうか、これは一度目に倒れた後なのか、と翔太は胸が痛くなった。

 二度目の発作で施設に入り、三度目では助からなかった。それなのに、ぼくは会いにもいかなかったんだ。おじいちゃんのことなんて忘れていた。自分のことで精一杯だったから。

 おじいちゃんの心は、笛の音と共に緩やかに浮いたり沈んだりしていた。

その調べに乗って竜もまた舞い踊っていた。透きとおった雄大な竜がらせん階段のような水色の渦を巻き起こしながら宙を舞っている。しかし。

 祖父の目はしっかりと閉じられていた。意識は自分のいなくなった後のことに向けられていた。

 ――竜は人の祈りが作り出したものだ。そもそも水は万物の源。なくてはならぬものだが

 ――だがいつまでも祈るばかりでいいのか? 流れゆくべき水に形を与えて縛ることと、人の手で山の姿すら変えることと、いったいどちらが傲慢なのか。

 ――おれはこの山の川筋を変え、水質を変え、その仕事に一生を費やした。

 ――しかし笛を残せば、担うものはやはり悩むだろう。それでいいのか。

 笛の音が一段と高くなる。調べが雲を突き抜け天を舞う。

 ――翔太は……あの子はこの笛の音を喜んでいたな。ただ笛の音として純粋に。

 ――やはり笛を翔太に渡すか。しかしこの重荷まで渡すことはなかろう。数百年の祈りなどあの子には不要だろう。

 おじいちゃんの心には迷いの雨が降っていた。


 大人でも、こんな風に悩むのか。どうして良いかわからずに、決められずに悩み迷うものなのかと翔太は思わずため息をついた。

 笛の音がやんだ。

 目を見開いたおじいちゃんは、今度は竜の姿をまっすぐにとらえた。

「竜よ。おれのすることは間違っているか? あなたがこの世界に生まれて数百年。人はその恩恵を受けながらも、なにもあなたに返すことはなかったろう。それなのに元々の姿に還れというのは、あなたにとって腹立たしいことか?」

 大きな竜は大きな口をカッと開いた。

『吾には怒りも悲しみもない。喜びもなければ存在すること以上の目的もない。それらは常に人のものじゃよ』

「そうか……では、この笛の音が響くこともこれが最後になるが、かまわないのか」

 竜は答えなかった。

 おじいちゃんはまた笛に唇をあてて吹きはじめる。

 ――翔太はこの先の未来を生きる。会うことはなくとも、それはおれにとっても慰めだ。竜に祈るより人として自分たちの力で世界を変えていく一人になるだろう。

 おじいちゃんが思い浮かべている翔太は、今よりもずっと幼い翔太だ。それでも間違いなく自分のことだった。

 元気に、幸せに生きてくれと、言葉にならない思いが翔太を包み込む。

 自分のことを忘れてしまってもいい。笛と竜のことなど知らなくてもいい、と。

 ただ当たり前に、泣いたり笑ったりしながら育ってくれればいい、と。

 翔太は、視線を祖父から竜にうつした。実体のない体は半ば向こうが透けていて、まるで周囲の山ごと飲み込んだように見えた。

 その竜と視線が合った。過去のことなのに何故と思うより先に翔太は叫んだ。

「おじいちゃんに伝えて! 笛、くださいって! それからぼくは元気にしてるよって! 全部わかったからって! 笛を残してくれてありがとうって!」

 もっと会いに行けばよかったという後悔が、水のように言葉になってあふれた。

 おじいちゃんから直接聞きたかった。笛のこと。竜のこと。成瀬さんのことも。

 でもそれは、もうかなわない。

 すると、笛を吹くおじいちゃんの向こう側にいた竜の金の目が、ゆっくりと閉じられて、また開かれた。両目だったけど、まるでウィンクしているみたいに。

 次の瞬間、翔太はまた夜空の中にいた。トオルも村井も一緒だ。

『おまえの願いは聞き届けたぞ』

 竜が言った。

 翔太はびっくりして竜を見つめる。じゃあ、おじいちゃんは、いずれぼくが笛を手にすることを知っていたんだろうか。

 だから手紙を残したんだろうか。

 聞くと、竜は頭を少しだけ下げて見せた。そうだとうなずくように。


『さて。吾には人のような望みも祈りもないが』

 そう言って言葉を切った竜の体が脈を打つようにうねった。流れているのはぼくらのような血液じゃなくて水なんだろうけど。

 確かに脈を打っていた。

『それでも人と過ごした時をたどってみるのもおもしろかろう。

もう少しつきあってもらおうか。これが吾の最後の飛翔になろうから』

 サアッと景色が流れる。時間が巻き戻る。

 今度は洞穴の前にいた。

 二人の青年が向き合って立っていた。ほおのやせた青年が笛を吹いている。どこかで聞いたことのあるような、ゆったりとした調べに、村井が耳元でささやいた。

「これ、相夫恋じゃないかな」

 翔太はすこしだけふりかえって、そっと人差し指を唇にあてた。

 ――数百年、我が家の先祖たちは代々この笛を受け継いできた。竜に祈りをささげてきた。

 それは成瀬さんの思いだった。

 ――だがぼくはその務めを果たせないだろう。弟はまだ幼い。竜のことを知ったら有頂天になってしゃべるだろうな。竜王役を当てられて喜んでいるくらいの子どもだ。

 弟というのが、成瀬のおじさんのお父さんだろう。さっき電話で話していたおじいさんだ。

 成瀬さんもまた、自分の命が長くないと知っていたのだ。

 ――小野田ならば、この笛をたくしてもいいだろうか。しかし小野田はダム整備に熱心にかかわっている。祈りが竜を呼ぶなどと神楽の伝説そのままの話を信じるだろうか。

 成瀬さんもまた迷って悩んでいた。

 手帳には、おじいちゃんが初めて竜に会ったときのことが記されていた。多分、おじいちゃんは信じなかったんだ。だって驚いていたもの。

 それでも成瀬さんから渡された笛をおじいちゃんは大事にしてきたんだろう。

 もう竜に頼らないと決めたあの日までは。

 おじいちゃんはぼくのために結論を出したのだと、翔太は手に持っていた笛を握りしめた。

 また景色が変わる。時間をさかのぼる。

 様々な人が笛を吹いていた。大人もいれば。子どももいた。男も、女も、老人も、少年もいた。

 着ているものが洋服から着物になり、翔太にはもうどのくらいの時間をさかのぼったのはわからない。

 やがて竜は、一人の女の子の前に静かに浮かんだ。

 白い着物を着て、髪を丸く結い上げた少女は、翔太よりも小さい。今ならば小学校四年生くらいだろうか。

 手に、あの笛を持っていた。祈りの言葉が聞こえる。

 ――どうか、この水をきれいにしてください。

 ――のんでも病気にならないものにかえてください。

 ああ、これがおじさんの話していた伝説なんだと気がついた。神楽では白太郎と呼ばれる男の子ということになていたけれど。

 笛を持つ手は小さく、真っ赤に荒れていた。それでも女の子は一心に笛を吹いている。

 翔太たちを乗せた竜は、少女のすぐそばにいるのに、気がついていないようだった。

『それはそうだ。お前たちはこの場をのぞいているだけだからな。この場に存在しないものが人の目に映る道理はないじゃろう』

 竜が説明してくれる。

「あなたが水をきれいにしたの?」

『あの娘は毎日毎日、それこそ三年もの間、ここにやってきては笛を吹いて祈った。その祈りのこもった息吹が、巡る水から吾を分かち、この形を取らせたのじゃ。そして地の底の流れがわずかに変わった』

 少女の吹く笛の音は、成瀬の調べのように洗練されてはいなかった。曲ともいえない。

 ただ高くなったり低くなったり。それはまるで水の流れそのもののように形を変えた。

「きれいだね」

 ぽつんと村井が言った。

「うん」

 トオルもめずらしく黙って耳を傾けている。

 激しく降る雨のように。

 しんと音もなく舞い落ちる雪のように。

 夏の日の陽炎のように。

 秋の空の高い雲のように。

 そしてまた、洞穴から流れ出る清らかな小川のように。

 竜の話が本当ならば、彼は――彼と言って良いのかわからないけど――水そのものなのだ。宇宙から飛来して水と同化したなにか。人の為に竜の姿を取っているだけで、本当は竜ではなく、神様でもないのだ。

 洞窟から流れ出ている水は白く濁っていた。かすかに湯気が昇っている。

 それが突然水色の光に包まれた。

 少女がびっくりしたのかしりもちをついているのが見えた。手に笛を握りしめたまま。 

『吾に意思はない。意思を与えたのは人。言葉も調べも祈りも人のものじゃ。だがその時も終わる』

 少女の姿が水に溶けるようににじんで消えた。

 あわてて瞬きをすると、そこはもう夜の空の中ではなく、洞穴の前だった。両足がしっかりと地面についている。

 竜はまた犬のような大きさになって川の中にいた。

 翔太は何度もまばたきをくり返した。竜の背に乗って空を飛んだのは夢だったんだろうか。おじいちゃんの心をのぞいたのも、

 それからきつく唇をかんだ。

 もうこの竜とは会えなくなるのだろうか。あのちび竜とも。

 それはひどく心残りな気がした。

 笛が手元に来てから、自分は少しだけ変わった気がしていたのだ。

 ほんのちょっぴりだけ、自分が思っていることをちゃんと言葉にしようと思った。

 できることはチャレンジしてみようと思った。

 わがままだっていいじゃないかって。そう思ったんだ。

 「どうせ」とか「別に」とかで自分をごまかしてあとで文句を言わないようにって。

 そうだ、お父さんにだって。

「あの……ぼくが、ずっとこの笛を吹いたとしても、あなたは消えちゃうんですか? 消えて欲しくないんだけど」

『それがおまえの望みか?』

 笑わないという竜が笑ったように言って、突然大きくふくらんだ。ちび竜じゃなくて、再びあの大きな竜に変わる。

『笛をふけ』

 太く豊かな声がうながす。

 翔太はあわてて笛を口に当てた。もちろん壊れた笛からは息が抜けるだけだ。

 それでも耳の中にはまだ、おじいちゃんの、成瀬さんの、昔のたくさんの人の、そしてあの祈っていた少女の笛の音が響いている。

 竜はそのまぼろしの音に合わせるように、上へ下へ、宙を舞う。

 と、翔太の胸に残る笛の音よりもずっと深く豊かな声が空いっぱいに鳴り渡った。

「竜が、歌ってる!」

 村井が言うとおり。それは竜の歌声。

 天と地を繋ぎ、時を超えて星を巡る水の化身が、身をくねらせて舞い、歌う。

 天をふるわせ、地をとどろかせ、竜の歌声がどこまでも響いていく。

 舞い踊る体からは鱗粉をまき散らすように金銀の光が広がった。

 暗い夜空を背景に輝く竜は、涙がでるほどにきれいだった。

 そして。

 ひときわ高く鳴いて、竜は消えた。

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