第11話 突然の嵐、そして洞穴へ

 八時を過ぎて、肉も野菜もきれいになくなった。路子おばさんに指示されながら、全員でゴミの始末や洗い物をしていると車の近づく音が聞こえた。

「あら、まあ、お兄ちゃん」

 レンタカーの運転席から降りてきたのは翔太の父で、出迎えた路子おばさんが、戸惑った声をあげた。なにより助手席に母も乗っていたのが戸惑いを大きくする。

「早苗さんまで。なにごとなの?」

 翔太は、ふきんを手にしたまま棒立ちになった。

 父と母が並んでいる姿を見たのは、久しぶりのことだった。離婚を告げられた夜以来だ。

「ごめんなさいね、路子さん。この人が翔太と会いたいっていきなり押しかけてきたものだから。私は部活の合宿だからやめてって言ったのに。急に海外に行っちゃって何年かは戻らないからどうしてもって、しつこくて」

「はあ? 聞いてないわよ兄さん。まあ! それで早苗さんも引っ張って来られちゃったの? 本当に相変わらず他人の都合を考えないよね、兄さんって」

 路子はあからさまに非難の目を向けたが、父親はかまわずに車からカバンをおろした。

「いいだろ。ここはぼくの実家なんだし、翔太はぼくの息子じゃないか。離婚したって親は親だし、子どもは子どもだろう」

 先生も部員たちも、なんとも言えない顔で翔太の両親を見比べている。

 翔太は、大人たちの会話を聞くなり、縁側から奥座敷へと駆け込んだ。どうしても親の顔を見たくなかった。

 自分の両親が離婚していることなんて、村井とトオルにしか言ってない。先生は知っているだろうけどあえて口にしないでくれてたのに。

 部活の合宿に、自分たちのごたごたを持ち込むなんて。信じられなかった。

 大人の話は大人だけで片づけて欲しい。もう自分には関係ない。

 笛を入れた自分のリュックをひっつかむと、奥の間から台所を通って裏口から外に出る。

 おじいちゃんのこと。笛のこと。ちび竜のことも。頭から消し飛んでいた。

 今、父親と面と向かったら、泣き出すか、なぐりかかるか、とにかく平常心でいる自信はなかった。

 恥ずかしかった。みっともないと思った。

 玄関の方で、自分を呼ぶ父の声がした。争うような先生と母の声もする。

 翔太は、大人たちに見つからないように、暗がりの中を、家を囲む板塀に体を押しつけるように移動した。確か、小さな戸口があったはずだ。

 古くそそけだった板塀を手探りしていると、かんぬきが当たる。

 翔太は頭を下げて戸口をくぐると、裏から家の前の道に出て、走り出した。



 街灯のない道は、予想していたよりも暗かった。舗装道路まではともかく、道が石ころだらけになると、もう走れない。

 足の裏の感覚が鋭くなったのか、昼間は気づかなかったのに、道は微妙に川にむかって傾斜しているのがわかった。闇に目をこらして歩いていても、うっかりするとズルズルと道からはずれて川に落ちてしまうような気がした。

 耳をすませると、川の流れる音に混じって、草むらからガサゴソと何かが動く気配がした。道の両側に立つ木のこずえがサワサワとゆれる。

 月は見えなかった。

 翔太は立ち止まって来た道を振り返った。お父さんが追いかけてきたらどうしようかと思った。どうしてあんな風に飛び出してしまったのか、自分でもわからない。

 腹が立ったなら、そう言えばよかった。言って、怒って、帰ってもらえばよかったのだ。たとえどれほどみっともなくても、みんなが見ていたとしても、そうするべきだったとわかっている。

 でも、戻る気にはならなかった。

 どうせぼくはヘタレなんだよという投げやりな気持ちでいっぱいになる。

 言いたいことが言えずに、黙って流されて、そのくせ文句だけは胸にため込むような人間なのだ。

 前を向いて、もう一度トボトボと歩き出す。水の音が高くなった。

 十五分の道のりが、昼間よりもずっと遠く感じられた。


 ゆるやかなカーブを過ぎて、洞穴のある斜面までたどり着いたそのとき、後ろから走ってくる足音がした。

 心臓が、ビクンとはね上がる。

 木立の葉をすかして懐中電灯の明かりがちらちら見えた。

「村井、もう少し急げねえの。青木先輩、今ごろ言い訳の種も尽きたんじゃね?」

「部長は……はぁはぁ……大丈夫、口がうまい……から」

 村井の息切れした声に、翔太はほうっと肩の力を抜いた。

「お、いたいた。おーい」

 トオルの懐中電灯がまっすぐこちらに向いて、翔太はまぶしさに腕で顔を隠した。

「あ、おまえがいねえってわかった瞬間、ここに来てると思ったぜ」

「懐中電灯くらいは持って行きなさいよ。真っ暗じゃ、危ないでしょ?」

 二人から口々に言われ、翔太は顔を下に向けたままトオルに聞いた。

「お父さんは?」

「まだいるよ。お母さんも。そんで、おまえを探したらどこにもいなくてさ。リュックもないし。もう、大騒ぎ」

「ごめん」

「大丈夫。部長に頼んできたから。口先八丁で言いくるめて大人たちを足止めしておいてってね。あたしたち、コンビニに買い物に行ったとか、なんとか」

 翔太は口をひきつらせた。

「一番近くのコンビニって多分、三キロメートルは先だよ」

「わかってるよ。でもまさか竜の出る洞穴に行ったなんて言えないじゃない」

「おじさんやお父さんが車でコンビニに行ったら、すぐバレるのに」

「そのときはそのときよ。だって、松本は今、ここに来たかったんでしょう? 素直に話してもダメって言われるだけだと思うし、だいたいあんた、お父さんと話たくなくて、逃げちゃったんでしょう?」

 翔太は、今が暗闇でよかったと心底思った。

 今、自分はどんな顔をしてるんだろうか? 怒った顔? それともすねたような顔?

「まあまあ、涙ふけよ」

「バカ。泣いてなんかいねえよ」

 翔太は、あやうくこみ上げそうになった熱い固まりを無理やり飲み下した。同時に下げていた顔をあげてトオルをにらみ返す。

「あら、そう? 泣いてもハンカチ貸さねえよ?」

 ニヤニヤするトオルに腹は立ったけど、同時にほっと肩の力が抜けた。

 そうだ。逃げ出しちゃったのはもう変えられないけど、せっかくここまで来たら、やりたかったことをやっていいんじゃないか?

 ちゃんと笛を持って出たのは大正解だった。

「戻ったらお父さんとはちゃんと……ちゃんと話すよ。でも、今抜け出さないと、もう夜中に来るのは無理だよね」

「だな。まあ、怒られんのはおまえ一人じゃねえし。アツいユウジョーに感謝しろ」

「はいはい、ありがとうございます」

 ちょっとだけ頭を下げて、翔太はリュックから笛を取り出した。

「チャンスだから。今ここで吹いてみるよ。なにも起きないかもしれないけど、ちび竜に洞穴を見せてやりたいんだ」

「おう」

「うん」

 二人の返事を待たずに、翔太は流れのすぐ際まで行って、笛を構えた。水の音が静かに聞こえた。

 すぅと息を腹にため、それからゆっくりと押し出すように息を吹き込む。割れたすき間から息が漏れた。それでも、ただただ、おじいちゃんのことを思い浮かべて吹く。

 雨の降る日。雨だれの音に混じって、ふわりと天に舞い上がるような気持ちがしたあの日の音はどんなだっただろう。

 ぼんやりとしか思い出せない。

 ナルセさんが吹いたのは、どんな音だったんだろう。

 神楽でも笛を吹いていたなら、おじいちゃんの笛よりもずっとうまかったに違いない。

 ナルセさんが亡くなった後、一人でこの洞穴の前で笛を吹いたおじいちゃんは、なにを考えていたんだろう。

 どうして、なにもわからない自分に、この笛を残したんだろう。

 笛を吹くというだけなら、成瀬のおじさんの方がずっとよかったはずだ。元の持ち主と血がつながっている上に、ちゃんと笛の吹き方だって知っている。

 お父さんだってよかった……かもしれない。おじいちゃんとお父さんの仲が良かったのかどうかは知らないけど。

 でも少なくとも年に一度会うかどうかの、しかも息子夫婦が離婚してからはずっと音沙汰もない孫の自分よりも、他に笛を譲るにふさわしい人はいたんじゃないだろうか。

 それでもおじいちゃんは、震える手で手紙に書いてくれたのだ。『しょうたへ』と。

 目をつむってとりとめもなく考えていたら、すぐ近くで息を飲む音がした。

 ちび竜の鳴き声も聞こえないのにと目を開けて、翔太は思わず笛から口を離してしまった。


 あたり一面が青に染まっていた。

 川の水が、地面から天に昇ったように見えた。

「えっ……これ……」

「竜だ。タツノオトシゴもどきじゃない。本物の竜だ!」

 トオルが叫んだ。

 そこに、竜がいた。

 二人で腕を回しても届かないんじゃないかと思うくらいの太い胴。ウロコが淡い銀色に光っている。周りの木よりも高く空に浮かんだその竜の顔は、逆立ちするように下を向いて、翔太たちのすぐ目の前にあった。

 思わず、二歩、三歩と後ろに下がると、どすんとトオルにぶつかり、トオルも村井にぶつかった。

「ちょっと!」

「ご、ごめん!」

「悪ぃ」

 もう少しで川の中に足をつっこむところだった村井に、二人は口々に謝ったけれど、目は竜から離せないでいた。

 よく見ると、竜の体が透けて、ぼんやりと向こう側の木立が見える。それはまるで、銀色の水が集まって竜を形作っているようだった。

 が、それが作り物ではないことも同時に見て取れた。

 竜の体は一瞬たりとも休むことなくうねうねと動いた。

 出来のいいCGでもない。この山奥にそんなものを持ってくるヤツなんかいるはずない。

 第一、竜の口からは霧のようなミストが吹き出ている。冷たい風をほおに感じた。作り物じゃない。

「本物?」

 おそるおそる翔太がささやいた。

 すると竜はますます頭を下げて、三人をじっと見つめた。金色の瞳がぎょろりと動いて、翔太はぶるっと身震いする。

 あの小さくてユーモラスなちび竜はどこに行ってしまったんだろう?

 目の前のこれは、あのちび竜のお母さんとかなんだろうか。

『おまえは何者ぞ?』

 不意に竜の声が頭に響いた。

 耳で聞いたのではないから、声というのは少しおかしいかもしれない。でもそうとしか表現のしようがない。

「聞こえた?」

 翔太は竜に視線をとどめたまま後ろのトオルにたずねた。トオルがこくこくとうなずく気配がして、村井のささやき声が返ってきた。

「聞こえたよ。ってことは、これまぼろしとかじゃないんだよね」

『おまえは笛の担い手か?』

 もう一度、竜の声がした。太くしわがれた声だった。

「笛ってこれですか?」

 翔太は手に持った笛を掲げてみせた。

『そうじゃ。それは吾を呼び出すが為に作られしもの。おまえが担い手なのか?』

「担い手って……この笛は、おじいちゃんが残したんです。おじいちゃんは成瀬さんから多分あずかって。ええっと、竜を呼び出す笛なんですか?」

『そうじゃ。古来からここの水脈は濁りやすい。水を必要としたいにしえの者が、吾を呼び覚ますがために、それを作り、吹き鳴らし、吾を形作った。吾はそれに応えて人間たちに清水を与えたのだ』

 竜の胴がますます太くなり、輝きが増した。まぶしくて目を半分閉じてしまう。

これでは、おじいちゃんの家からも、いや、もっとふもとの駅前の集落からも見えてしまうんじゃないかと心配になる。 

「ねえ、すみません。もう少し小さくなれないんですか? ほら、笛からぴょこって出てきた子みたいに。ちょっと大きすぎるんです」

 村井がトオルの背中から顔だけのぞかせ手をあげた。

 竜の金色の目が、ギロリと動く。

『いたしかたないな、子どもらよ』

 怒ったかとドキドキしたが、竜は別に気を悪くしたのでもなさそうで、いきなり水色の光が弾けたかと思うと、あれほど巨大だって竜は、大きめの犬くらいになって、川の中にとぐろを巻いた。

「すげえ」

 トオルがヒューと口笛を吹いた。また竜の目が動く。

『笛にもぐるほど小さくなると人の言葉を話せぬのでな。これくらいならば良いかな』

「ってことは、やっぱりあのちび竜が……ええっと、あなたなんですか?」

 村井はあいかわらずトオルの後ろから話しかけている。

『いかにも』

 竜は重々しくうなずいた。

 しかしあのいたずら好きの子猫のようなちび竜と目の前の竜が結びつかない。

 村井がまた手をあげる。

「あの、じゃあちょっとだけちび竜になって見せてもらえませんか」

 なんて大胆なやつ……! 

 今度こそ怒るかと思ったら、竜はまたぱっと水色の軌跡を残してあのちび竜に変身した。

『きゅう、きゅううう』

 ちび竜がくるくる舞いながらかん高い声で鳴いた。

 でも本人(本竜?)が言うように人の言葉はしゃべれないらしい。それでは困る。

 村井は歓声をあげたけれど、翔太は頭をさげてぜひ中くらいになってくださいと頼むはめになった。

 竜はあっという間に姿を変えてくれた。

 あのちび竜の姿では話ができないというのなら、この方がずっといい。見上げて首も痛くならないし、光もいくぶんかは抑えられている。

『で。吾を呼び出したのはいかなる理由ぞ? 吾を解放する決心がついたか』

 竜は、尊大に言った。

 ずいぶんいばっているように感じたけど、いや、竜って偉いんだよね、神様みたいなものなんだよねと、翔太はゴクリと唾を飲み込む。

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