第4話 タツノオトシゴ…?
帰ってからまずしたのは、顔を洗うことだった。それから冷蔵庫を開けて麦茶を一気飲み。
母はまだ帰ってこない。きょうは遅くなるって言って出たから、まだ数時間は一人きりだ。
ようやく身体から力が抜けた。すると、先ほどまでの自分がいかにも子どもっぽかった気がして落ち込む。
村井は、笛と手紙が自分の所にちゃんと来てよかったと言ってくれた。でも本当は、自分だっておじいちゃんのことなんかすっかり忘れていたのだ。
見舞いにだって「行きたい」、「行こう!」とせがんだら、父親はもちろん、もう関係のなくなった母だって連れていってくれただろう。一人でだって、切符さえ買えたら行けたかもしれない。
そうしなかったのは自分だ。父親のせいばかりじゃない。
おじいちゃんはどう思っていただろう。
路子おばさんの所にはまだ子どもがいないから、翔太はただ一人の孫だったのだ。
さびしいって思ってただろうか。
考えてもしかたのないことをグダグダ考えて、そのくせ人に向かってはなにも言わないのが自分のダメなところだと思う。
部屋で、もう一度笛を取り出してみた。
赤い漆は、吹き口のところはほとんどはげてしまっている。
試しに、村井が持っていたマンガの絵や、里神楽の笛の人をまねて吹き口から息を吹き込んでみたけれど、後ろの割れ目からスース―と空気が漏れてしまって、音らしきものも出なかった。
切れてほどけかかった紐が手に痛い。
それでも何度も何度も、ふぅっ、ふぅっと息を吹き込んだ。
なんでおじいちゃんは、自分にこんな笛を残したんだろうと考える。
先日の里神楽を見たときに、ふわっと浮かびそうだった記憶を一生懸命につかまえようとしたけれど、また泡のように浮かんで、消えた。
なにかあったような気がする。おじいちゃんと、自分と、笛を結ぶものが。覚えてないけれど、この笛の音をきいたことがあったのかな。
どのくらい吹いていただろうか。
――キュッ。
変な音がした。
びっくりして笛から口を離し周りを見渡すけれど、なにもない。
「今、音が鳴った?」
誰もいない部屋でつぶやいてから、もう一度、背中を伸ばして、深く息を吸い込んでからふぅぅぅっと吹き込む。
――キュウウウ。キ、チュ。
また音が聞こえた。でも笛の音じゃない、動物の鳴き声みたいな音。
笛を口に当てたまま目だけを左右に動かすけれどなにもいない。気のせいかと思った瞬間、笛を持っていた右手になにかが触った。
「うわっ!」
思わず笛をベッドの上に放り出す。
最初は虫かと思った。だって壊れてから長いこと誰も触っていなかったはずだから。もしかしたら虫が入り込んでいるのかもと。
でも違った。いや、違うのかどうか。
布団の上に転がった笛から青いものが見えた。ちょうど笛の先の穴から、顔がのぞいていた。
「えっ? えっ? なに、これっ?」
長い鼻先、二つの小さな目。それがピタリと翔太の方を見た。
「キュッ? キュウウ?」
それは小さく鳴きながら笛から出てくる。そして、ふわりと飛んだ。
全体を見ると、まるでタツノオトシゴのようだった。
「なんだよ、こいつ」
あの喫茶店で見たときも、ついさっき机に出したときも。穴の中をのぞいてみたりはしなかったけれど。こんな生き物がいたような感触はしなかった。それなのに。
「グキュウ。ギッギッ」
胸をドキドキさせながら観察する。
顔は確かにタツノオトシゴだ。でもタツノオトシゴのように腹がぽってりとふくらんでいるのではなく、そのまま細長くつづいて、尻尾の先だけくるんとしている。長さは翔太の中指くらいか。
うろこが青く光っていて、短い前足と後ろ足がついていた。
そもそもタツノオトシゴって海の生き物のはず。つまりは魚だ。
でもこいつは空中を飛んでいる。羽もないのに。
それはふわふわと物珍しそうに翔太の顔の周りを泳ぐように飛んだかと思うと、翔太の鼻先に浮かんでとまった。
「キュルル。キュッ、キュッ、キュル?」
翔太は首をかしげた。
タツノオトシゴも首をかしげる。
なにか話しかけられているみたいだけど、当然わからない。
よくよく見ると、頭の後ろから背中にかけて生えているヒレのようなものが、せわしく動いていた。
おそるおそる手を伸ばして、尻尾に触れてみた。もしかしたら夢でも見てるんじゃないかと思ったのだ。
それは確かにそこにいた。見た目ほどごつごつしていなくて、冷たいかと思ったら温かい。
「おまえ、ナニモノ?」
「ギョキャ?」
言葉は通じない。当たり前だ。
タツノオトシゴもどきはくるんと空中で一回転して、翔太の親指に頭をこすりつけ、それからまたふわふわと飛んで笛の前に着地する。
「ちょっと待って! そこはダメだよ」
あわてて笛を取り上げたが、それはもう中に消えていた。
翔太はゆらさないように慎重に持ち上げて、笛の中をのぞいてみたが、なにもいない。
あれ? と穴から指をつっこんでみたり、割れ目からノートの切れ端を差し込んでみたりしたけど、あのふわふわと飛ぶものはどこにもいなかった。
翔太は学習机のいすをくるくると回しながら考えた。
まず、本物のタツノオトシゴじゃない。
それから、笛の中に住んでいる。
この二つは間違いない。
「あれ、そもそも生き物なのかなあ」
触ったときは生き物だと思ったけれど、生きているものは姿を消したりしない。
それにあの飛び方も変だ。小さなヒレみたいなものは動かしていたけれど、羽はなかった。でも蝶々みたいにふわりふわり飛んだり、トンボみたいにホバリングしてみせたのだ。
もう一度笛の中をのぞき込んで言ってみる。
「おぉい。出てこないと燃やしちゃうぞ」
返事があるとは期待してなかったが、なにもない空間から鳴き声が聞こえた。
「ギギギギギ!」
なにを言ってるかわからないけど、抗議されたのはわかる。つまりあいつはこっちの言葉か、少なくとも意図は理解できるのだ。
「嫌ならもう一度出てこいよ」
今度は何の反応もなかった。笛はしんと静まったままだ。
「なんだよ、これ」
とほうにくれた翔太に応える声はなかった。
一人で冷蔵庫にあったハヤシライスを食べ、他にもなにをする気にもならずにぼんやりとベッドに転がっていると、母が帰ってくる音がした。時計を見るとちょうど九時。
翔太はのろのろと体をおこして、ドアを小さく開けた。
「おかえりなさい」
洗面所で手を洗っていた母は、すぐにリビングに戻ると、にっこり笑った。
「家の中が真っ暗だったから、まだ帰ってないのかと思ったら、ハヤシライス食べた後があったから。寝ちゃってたのね。お皿、洗っといてくれてありがとう」
「別に」
それだけ言って引っ込もうとする翔太に、母は一瞬だけもの言いたげな顔をみせた。が、すぐにうつむいて、台所に向かう。これから夕食を食べるのだ。
翔太も、父のこと、おじいちゃんのこと、それから不思議な壊れた笛のことを報告しようと思ったのに、口をつぐんだ。
母に向かって父を悪し様に言うのはなぜか気が引けた。離婚する前から、母が父親に対して文句を言うところは見てきたが、翔太に向かっては一言も悪口を言わなかった。
だから翔太も言いたくない。
でもなにか話したら全部が悪口になってしまいそうだ。
ドアをパタンと閉めて、はぁと息をつく。
きょうはとても疲れる日だったのだ。
月曜日。梅雨が戻ってきた。
ズボンのポケットの中には、村井が貸してくれたハンカチが入っていた。
朝になって気がついて、母に見つからないように洗面台で手洗いして、制服のシャツにアイロンかけるふりをしてこっそり乾かしてきたけれど。
ちゃんと洗えてないかもとか、生乾きかもとか思うと、ポケットのあたりがムズムズする。
ハンカチのことを考えると、同時に泣いてしまった自分の情けなさも思い出されて、うわあああっ! と叫びたい欲求がむくむくとわく。
平常心、平常心と自分に言い聞かせる。
「いつも通りにシケた顔。おすおす」
翔太の紺の傘に黒い傘がぶつかってきた。
「おはー。トオルは朝から元気だね」
「おうさ! 朝飯にラーメン食べてきた」
朝からラーメンなんて、生まれてから一度も食べたことない。
「で? そのシケた顔の理由はなに?」
トオルはいつもストレートだ。
「言いたくない」
「なんでよ? おれとおまえの仲じゃんか」
どんな仲だよと思ったが、このストレートさは、うらやましくもありがたくも感じる。
「言いたくないっていうより、言いにくい、かな」
「ふぅん」
トオルの目がすがめられる。
「じゃあさ。昼休み。うーんと、雨だから外は無理だし、教室はうるせえし。あ、部室だ。文芸部行こうぜ」
「昼休み、勝手に入れるの?」
「入れる、入れる。問題ねえよ」
ひらひらと手をふりながらトオルが請け合った。
一晩たつと、父親への憤激よりもあの笛からでてきたへんなモノの方が気になった。
でも騒がしくて誰が聞いているかわからない教室では、うまく説明できる自信はない。夢じゃないかと自分でも思うくらいなんだ。
「じゃあ昼休みに。その……サンクス」
トオルはベェと変顔を作って答えた。
三月までやっていた人気アニメのテーマソングが終わると、放送部員の妙にかしこまった声が昼休みを告げた。その落差に、教室にくすくす笑いが広がる。
トオルは頼んでもいないのに翔太の分まで給食のトレーを片づけると、先に立って廊下にでた。
まだどのクラスもざわざわしていて、廊下には人気がない。
「三年に見つかるとめんどくせえから、ちゃっと行こうぜ」
文芸部の部室といっても、本当は図書室の中の図書準備室のことだ。傷んだ本を修理したり、図書目録を作ったりする小部屋を、文芸部の生徒が勝手に使っているだけだった。
特別教室の集まっている西階段を一つ登り、三階に出ると、廊下でおしゃべりをしている三年女子たちの声が聞こえた。
トオルは、そちらには目を向けないで、いかにも用がありますという顔で図書室の戸を引いた。
「早く入ろ」
翔太がうなずいたとたん、振り向いたトオルがげっと声をもらす。
「ねえ、なにこそこそやってるの?」
村井が腕組みして立っていた。
「いかにも隠し事がありますって感じで出ていくから、後つけてみた」
「部活だよ、部活。部外者は出ていってくださぁい」
「何言ってんの? あたしも文芸部員じゃん。だいたい昼休みに図書室に来てなにが悪いのよ」
「あ……うん。その……」
翔太はうろたえた。朝から村井にハンカチを返そう、返そうと思っても機会が見つからずにそのままだ。後ろめたさが、いつもよりもうろたえた態度をとらせた。
「うるせえ。男同士の話に女は首をつっこむなっつーの。きみは平家物語でも読んでお目めをウルウルさせてろよ」
「はあっ? なんで野崎ごときにそんなこと言われなきゃならないのさ! ケンカ売るってんなら買うよ!」
村井が顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「そもそも! あたしの敦盛をバカにするなっ!」
「アタシの、だって。ヒューヒュー」
「野崎っ!」
翔太がそっと廊下をうかがうと、三年生がこちらをチラホラ見ている。
「ねえ、これじゃあ目立つだけだよ、トオル。村井にも話があるから一緒でいい?」
トオルは思いっきり口を横に引いてグルルルとうなって見せたが、すぐに肩をあげると、すたすたと図書準備室のドアを開けた。
「むしろオレが邪魔?」
「違うよ」
翔太は首を振った。
「きのう、お父さんに会ったんだ。そのとき村井もいたから」
ドアを締め切ると廊下の騒がしさがぴたりとやんだ。
エアコンのない図書準備室はムッとした湿気がこもっていて、トオルは顔をしかめながら窓を開けた。
外は細かい雨がレースのカーテンのように降っていた。
「おまえんち、離婚してたんだっけ。で、何かあったの? 親父さんに会ったときに」
トオルが窓に寄りかかり、村井は黙ってイスに座った。
翔太は二人の前にぽつんと立って、たどたどしく昨日村井に会ったところから説明し始めた。
笛を渡されたこと。そしてその笛の中からおかしなものが出てきたことまで。
もちろん泣いたことは省略だ。
「タツノオトシゴ?」
「そうなんだ。本物のタツノオトシゴじゃないのはわかっているけど。だって宙に浮かんだんだもん」
「それってオモチャじゃなくて?」
「生きてた、と思う。少なくとも鳴いたし」
うつむいて自信のなさそうな翔太に、トオルと村井はちらっと目を合わせた。
「頭がおかしいって思ってる?」
「んー、話だけじゃなあ。実際に見ないとさ」
机にメモ帳とりだして村井が聞いた。
「笛を吹いたら現れたってことかなあ」
「でもこわれているから音は鳴らなかったんだよ」
うむむと、三人がそれぞれ考え込んだ。
「あれは? ほら、おじいちゃんからの手紙、もらっていたじゃない。ちゃんと読んでみた?」
あ、と声をあげて翔太は村井をぽかんと見た。タツノオトシゴで頭がいっぱいで忘れていたのだ。
「なにか大事なことが書いてあるかもしれないよ? タツノオトシゴもどきのこととか、笛の由来とか。どうして松本に渡したかったのかとか」
「そ、そうか。そうだね。でも、読めるかなあ。筆書きだったし」
あの手紙は財布にしまったままだ。どうして忘れていたんだろう。
するとトオルが、窓をすっと閉めて鍵をかちゃりと落とした。同時にスピーカーからチャイムが響く。次のチャイムが鳴ったら掃除の時間だ。サボるわけにもいかない。
「なあ、翔太。その笛、うちのじいちゃんに見せないか? 笛は専門じゃないけど、オレらよりかは知ってるだろ」
「タツノオトシゴが出てくるんですって言うの? 普通、信じないでしょ、そんなこと」
「ん、いや。それは言わなくたっていいだろ。どんな笛なのか知りたいって聞けばいいじゃん。直せるのかどうかとか。それに手紙だって読めるかもよ? なにしろ、年寄りなんだからさ」
このまま三人でうなっていても、なにもわからないままだろう。
翔太はうん、と頼りなくうなずいた。
「よし、決まり。あさっての放課後な。里神楽の練習日だからじいちゃん午後から家にいるし」
トオルが早口で話をまとめる。
「あたしも行っていい?」
トオルはちょっとびっくりした顔をしたが、へらっと笑ってうなずいた。
三人でバタバタと図書室を出た。後に続いた村井を、翔太はちょっとと呼び止める。
「これ、ありがとう」
ポケットの中のひよこのハンカチは、はしっこがすこし折れ曲がっていた。
「明日でもよかったのに」
村井は、いたずらっぽく笑った。
「お父さんのことは、もういいの?」
「いいんだ、それは」
階段からトオルが、なにやってんだよと叫んいた。
翔太は村井の脇をすり抜けるように、階段を駆け下りた。
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