第2話 里神楽がやってきた

 ちくっと肩の後ろをつつかれて、翔太は、イタッと小さく声をあげた。

 担任で数学担当の前島先生が「松本、どうした?」という顔でにらみつけたが、すぐに下を向いてやり過ごす。

 つついてきたのは後ろの席の野崎トオルだ。シャーペンの先ならまだしも、腹の立つことにコンパスの針でつつきやがった。

 危ないだろ、穴が開いたらどうしてくれるんだ。

 翔太は、前島先生が黒板の図形に補助線を引きはじめるのを確認してから、小さく肩ごしにふりかえった。

「なに?」

「ショータ、寝てただろ? 起こしてやったんだから感謝しろよ」

 トオルはにやにやしながら、手の中のコンパスをぐるりと回した。

「寝てないよ」

「寝るなら次の時間がいいぞ? 地域学習だからな」

 翔太は、思いっきりしかめ面をしてから、前に向き直った。苦手な図形の問題なのに、先生ににらまれて指名でもされたら目も当てられない。

 形だけ授業を聞く体勢を整えてから、地域学習か、と口の中でつぶやいた。

 木野花中学の一年生は、毎年地域学習という名目で地元の里神楽の公演を見ることになっている。

 近くの天神社を中心とした里神楽保存会が、後継者育成――つまりは子どもを保存会へ勧誘しようという目論見をかねて、小学四年生と中学一年生に披露しているものらしい。

 だから木野花小学校からそのまま中学に入ってきた生徒にとっては、「あれか」と思うものらしいのだが、あいにく翔太がこの町に来たのは二年前、小学五年生の夏だ。

 里神楽がどんなものか、想像もつかない。

(獅子舞みたいなのかな?)

 これまで神社のお祭りに参加したこともなかったから、思いつくのはそれくらいだ。あとはテレビのニュースコーナーで流れる「きょうはどこそこで伝統のナントカ祭に大勢の人がかけつけました」みたいな映像か。

 授業は上の空で、祭り囃を思い浮かべていると、前島先生の声が翔太の名前を呼んだ。

「松本。よく考えているようだから前に出てこの問題解いてみろ」

 考えていたのは、もちろん図形の問題じゃない。

 翔太は目をぱちぱちさせてからノロノロと席を立った。

 先生も、クラスのみんなも、翔太がさっそうと解き明かすなんてことは期待してない。うまいこと先生のお眼鏡にかなう間違いをすることを、暗に要求されているのだ。

 その方が、授業がうまく進むから。

 内心のため息を外に吐き出さないように、翔太はチョークを手になんとか頭を働かせることにした。


 近隣の三つの小学校から合流してくる木野花中学校の一年生は、全部で百七十人ほどだ。それが短い休み時間のあいだに一斉に体育館に移動するのだから、廊下も階段も騒がしい。

「なあ、さっきマエジマ。ガッカリしてたよなあ」

 生徒たちの波にもまれながら、トオルがくすくす笑った。そんなつもりはなかったのに見事正解してしまった翔太は、中途半端な笑顔の「よくできました」と共に無事に席に帰還したのだった。

「あれ本当はさあ。先生が消したつもりの補助線がうっすら残ってたんだよ」

 翔太は肩をすくめる。

「なんだと? そんなカラクリがあったとは。それならオレが当たりたかったなあ」

 トオルはちっともうらやましくなさそうに棒読みで答えた。

「まあ、これで後は、ドンドン、トコトコ、ピーヒャララーを聞いてりゃ給食だもんな。午後は体育とホームルームだし。きょうは楽勝!」

「ピーヒャララーってなに? 笛の音?」

 翔太の質問に、トオルは大きな目をギョロリとむいてみせる。

「当たり前だろ。あ、そうか。翔太は里神楽見たことねえんだなあ」

「獅子舞とか?」

「それは正月専用。小学校の時はウケねらいで獅子舞やっていたけど、きょうはお獅子はないよ。確かキツネが出てきて刀を打つやつやると思った」

「詳しいなあ。なんで?」

 トオルは、勉強よりは運動。運動よりはゲームとアニメを見てる方が楽しいってタイプだ。里神楽なんて地味な郷土芸能に興味があるようにはとても見えない。

「あぁ、オレ、小四までは子供囃に入れられてたから」

「トオルが?」

 それは知らなかった。少なくとも五年生で初めて会ったときのトオルは、公園の木陰で携帯ゲームばかりしていたから。

 人間の意外性にまじまじとトオルのツンツン髪が立った頭をながめていたら、ふと引っ越してきたばかりの二年前を思い出した。

 そういえば、一番最初になんの気構えもなくゲームで通信やろうって誘ってくれたのは、トオルだった。

 漫画を貸してくれたのも、ケイドロの仲間に誘ってくれたのも。

「しょうがねえだろ。じいちゃんが木野花地区里神楽保存会会長なんだからさ」

 トオルは口をとがらせた。

 それで納得、トオルの家は昔からの地主だもんなとうなずいていると、後ろから素っ頓狂な声がかかった。

「えっ、そうなの? そうなのっ!」

 声の主は、村井早希だ。

 同じクラスの、声も身体も態度もでかい女子。翔太の苦手な相手だ。

「じゃあ、あんた、笛吹いたり踊ったりできるの?」

「笛も吹かないし、踊りもやらねえ。子供囃は太鼓と鉦をポンポンチンチンたたくだけだったからな」

 なあんだとあからさまにがっかりした顔で、それでも村井はまだ食らいついてくる。

「でも、おじいさんは?」

「じいちゃんも基本は太鼓だよ。残念だったな」

 そっかあ、そうなのかとくりかえす村井を置き去りに、翔太とトオルはさっさと体育館に急ぐ。

 しゃべっている間に、クラスの連中はもう渡り廊下に続く階段を降りていた。


 梅雨の終わりのむしむしした空気でよどむような体育館は、二百人近い生徒たちをつめこんで、さらに蒸し暑さが増していた。

 エアコンはあるのだが、古いせいでろくに効いていない。

 ほとんどの生徒たちは始まる前からうんざり顔だ。それなのに、村井だけは目をキラキラさせていた。キョロキョロするたびにポニーテールがぱさぱさとゆれている。

「なんなの、あいつ」

 翔太が聞くと、トオルは大げさに肩をすくめながら笑った。

「歴女だもんな」

「レキジョってなに?」

「歴史大好きオタク女子。ほら、あいつ、文芸部の部誌に一人だけ平家物語かなんかの感想文を書いてたじゃん。ものすっごい熱いラブレターっぽいの」

「それで里神楽にキラキラしてるの? 中身、トオルのおじいちゃんでも?」

「夢見る乙女だ。かまうなよ」

 夢ねえ、と思ったところで、ステージ上に衣装をつけた里神楽保存会の人たちと、校長先生が出てきた。校長先生はおばさんだが、あとはみんなおじさんとおじいさんばかりだ。

 中学生の女子が夢見るような対象には見えない。でも。

 夢中になれることがあるのって、いいよなあと、ちょっとうらやましい。

 翔太は、勉強は中の下くらい。体格はひょろひょろで、運動も全然ダメ。他にこれという好きなものもない。

 トオルにつきあって同じアニメを見たり、たまに一日中ゲームやって母親に怒られたりもするが、もしゲームを取り上げられたとしても、それはそれで別に、と思うのだ。

 ゲームがなかったらすごく困るってこともないし、なにかに一生懸命になるなんて面倒くさいとも思うけれど、村井のキラキラぶりを見てると、ほんの少しうらやましい気もした。

 トオルはそんな風に考えることはないのかと、横目でうかがうと、あきれたことに立てたひざの間に頭をつっこむようにして寝ている。

 先ほどの数学の授業のことを思い出して、コンパスでつついてやりたくなって、でも、あまりに堂々と寝ているのでなんだかおかしくもなった。

 トオルは、これといって一つに打ち込むような趣味はないかもしれないが、代わりに、その瞬間瞬間が全力投球だ。

 それもまた、うらやましいと思った。

 ステージでは、トオルのおじいさんらしき人の、木野花里神楽の歴史についての長い解説が終わろうとしていた。

 そして、照明が落とされた。

 ざわついていた体育館が、水を打ったように静かになる。

 その中で、ひときわ高い笛の音が響いた。


「あ……」

 翔太は、自分が小さなため息をもらしたことに気づかなかった。

 ステージでは、衣装とお面をつけた人が舞い、太鼓が拍子を刻んでいる。でも翔太の耳は、その中の笛の音だけを追っていた。

 なにか、懐かしい。高く低く響く音は、たとえばテレビで見た阿波踊りの笛よりはずっとゆっくりとしているのに、なぜか胸が高鳴った。

(なんだよ、これ……)

 わけがわからない。これまでお神楽とか、祭り囃とか、そういうものを身近に感じたことはもちろん、まともに聴いたこともなかったのに。

 勝手に心臓がバクバク踊って、太鼓の音とシンクロして、笛の音に寄り添っている。

 目は、ステージ上の舞い手を追っていたけれど、心はどこか遠くに飛んでいるような気がした。

 雨が降っているわけではないのに、なぜか水のにおいを鼻に感じる。

 ぼうっとしたまま演目が終わり、翔太にかけられた魔法の――もしかすると呪縛の時間は消えた。神楽がどんな内容だったかは、全然頭に入ってなかったけれど。

「おーい、ショータくん?」

 頭の後ろをトオルにこづかれる。きょう二回目だ。

 我に返ってにらみつけたら、トオルは翔太の耳に口を近づけて、もったいぶった口調でささやいた。

「どしたの? 村井に負けず劣らずキラキラしたお目々してたぜ。なに、おまえも夢見る乙女の仲間入り? やだー、ショータくんたらあ」

 イヒヒと変に身体をくねらせたので、翔太はげんこつでお返しをしてやった。


 給食も終わった昼休み。机の上に頭をうつ伏せにしていた翔太は、背後からそっと迫ってくる気配に、ぴんと起き直った。

「あ、くそー。寝てんのかと思ったのに」

 トオルが口をとがらせた。手にふたを外したマジックペンを持っている。

「そう何回もやられてたまるか」

 ペンを取り上げて、ふたの開いたままトオルの机の中に放り込む。そのままだと乾いて使い物にならなくなるけど、知ったことではない。

「いやなんかさあ。ボケッとしてるから」

 トオルはペンを放っといたまま、翔太の机に尻を乗せた。

「そんなに里神楽が気に入った? あそこいつでも会員募集してるから、行ったら大歓迎されるぜ。中学生の入会なんて、一躍アイドル間違いなし!」

「別に」

「あれえ? テンション低っ! さっきまで夢見る夢子ちゃんだったのに」

「ぼくは村井じゃないもん」

 里神楽の笛の音を聞いたときの興奮は、あっさりと去っていた。あのドキドキこそ夢だったのかもしれない。

 さめた今は、普段通りの少し眠たい昼休みだ。

「なによ、あたしみたいじゃないって」

 ボソボソしゃべっていたはずなのに、村井は耳ざとく聞きつけたようだ。

 翔太はげんなりした気分で答えた。

「別に。なんでもないよ」

 しかし村井は納得しない。今度はトオルの方をキッとにらみつける。

「松本はなんて言ったのよ?」

「夢見る乙女はいいなあってね」

「はぁ? なに言ってんの? あ、あたしのどこがっ」

 顔をしかめた村井に、トオルはさらにニィと唇を引いた。

「里神楽に目をキラキラさせる仲間だよなあ。村井とショータくんは」

 すると村井の顔から険がとれた。

「見る前は興味なさそうだったのに。松本もああいうの好きなの?」

「いや……そうじゃなくて」

 好きなのかと問われると困る。

 ただ笛の音を耳にしたとき、今までに知らなかったようななにか……もしかしたら忘れてしまっているなにかが、胸の奥に泡のように浮き上がって、そして今は消えてしまったのだ。

 うまく説明できずに、まゆを寄せていると、からかわれたと思ったのか、村井はつんとあごをあげて自分の席に戻っていった。

「おぉ、こわっ」

 トオルはぺろっと舌をだした。

 しかし翔太は落ち着かなかった。誰だって好きなもののことをからかわれたら、いい気がしないだろう。

 といっても、謝るほど悪いことなんかしてない。単純に好きとか嫌いとか、説明できないことだって世の中にはあるのだ。

 村井みたいに簡単じゃないんだと、あのキラキラ目を思い出しながら思った。

 とにかく今問題なのは、笛の音だ。

「ところでさ。トオルのおじいちゃん、本当に太鼓しかやらないの?」

「ん? やっぱり好きなんじゃねえか」

「違う。好きって言うか。だって初めて聞いたんだし。ただ笛が」

「笛? じいちゃんも笛は持ってるぜ。あんま聞いたことねえけど。笛の何が気になるんだ?」

 翔太はまた言葉に詰まった。

「なんでもない」

 教壇上のスピーカーから、掃除の時間を知らせる音楽が鳴り出した。

「ちょっと気になっただけだよ」

「おまえはさあ」

 トオルは、にやにや笑いをひっこめて細い目でじっと翔太の顔をのぞきこんだ。

「いつもそういうヤツだよな」

 そういうヤツってどんなヤツのことだよと思ったけれど、言葉にする前にトオルはさっさと掃除用具を取りに行ってしまった。

 残された翔太は、ぎゅっと唇を引いてから、頭に残る笛の音を首を振って追い払い、その後を追った。

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