最終日 決勝 後半

「鳩、いや、その後ろにいる、平和を望む者。殺す前に、言っておくことがある」


 敵意を、悪意を、戦意を飲み下し、一ノ瀬アザトは努めて透徹した風に、問うた。


「そも、『平和』とは、なんだ?」


 辞書的には、戦争や内戦で社会が乱れていない状態のことを指す。だが、それはいわば「戦争」や「内戦」の対義語としての、平和の『意味』に過ぎない。


「俺が生きていた『平和な時代』も、分かりやすい『闘争』がないだけで、問題を表面化させないための悪辣な創意工夫を凝らした、理解に苦しむ不文律に支配された陰湿な『闘争』は常に起こっていた」


 アザトが問うのは、概念としての、あるいは信仰としての『平和』の『意義』。

 平和学なる言葉を好む者たちの分類に近づけるなら、『消極的平和』と『積極的平和』の違いと換言しても大きく外れてはおるまい。


「むしろ、その陰湿で理解しがたい法則ゆえに誰も信じられず、全てに警戒せねばならないあの場所を、ただ銃弾が飛び交わないというだけの理由で、凶刃を振るう者がいないというだけの理由で、真に平穏な場所であったとは認められない」


 善悪の話をしよう。


 善も悪も、相対的な主観に基づく判定に過ぎない。

 絶対的な善は存在する、と言いたげなあなた。それは、どんなものだろうか。

 人から盗んではならない? 人を殺してはならない? 人を騙してはならない?

 それは道徳か、倫理か、社会通念か。

 そんなものは、多数決の結果に過ぎない。

 社会を維持するために用意された道具に過ぎない。

 社会という軛を取り除いた、『本質』において、善悪という概念は、存在しない。


「あの場所に比べれば、俺にとっての『現実』に比べれば、この血と汗けぶる一見野蛮なこの場所の方が、余程『平和』だ」


 たとえ話をしよう。

 使い古されたたとえ話だ。


 ここに一人の、おなかをすかせた子供がいる。

 あなたには食べ物に余裕があり、分け与えれば容易に子供を救える。

 心優しいあなたは食べ物を子供に与え、子供の命を救った。

 ……のちにあなたが助けた子供は、無数の人を殺したという。


 腹をすかせた子供に物を食べさせるのは善行だ。

 だが、あなたが子供を殺すという決断をしていれば、無数の人が死なずに済んだ。

 あなたの善行は、本当に一片の悪も孕んでいないのだろうか?

 逆に、その未来を何らかの方法で知ったあなたが子供を殺したとして。

 その悪行は、本当に一片の善も孕んでいないのだろうか?


「そしてお前の言う『平和』に、俺は『現実』と同じ腐臭を感じるのだ」


 正義の話をしよう。


 正義も不義も、相対的な主観に基づく判定に過ぎない。

 敵には敵『なり』の正義があると口にすることはたやすい。

 だが、それを真に認めらるものがどれほどいるだろうか。

 自分たちの正義もまた、自分達『なり』の正義でしかないと。

 彼等にとっては、自分達こそが許しがたい悪であると。

 善悪など視点の違いから生じる見解の相違に過ぎないなどと。

 自分が善と信じていることが、ただの視野狭窄による偏見に過ぎないなどと。

 そう、正しく『認める』苦痛を受け入れられるものが、どれほどいるだろうか。


「お前の都合で、お前にとって都合のいい状態で社会を静止させるために、『平和』という言葉を飾っているように思えてならないのだ」


 絶対的な正義、善が存在しないのなら、平和という安定は、力関係の固定以上の意味は持たない。ある一つの、最強の価値観による支配以上の意味を持たない。

 ならば闘争は、固定化された力関係への問題提起という役割を背負っているのではないだろうか。価値観の多様性を保つための、劇薬としての役割を。


 平和が安定をもたらすなら。

 闘争は不安定をもたらす。 

 互いに理不尽を理不尽で塗りつぶすのが闘争なら。

 誰かが一方的に理不尽を塗りたくり続けるのが平和。


 誰かが正しいと認めている、正義、善こそが己を虐げる。

 そして、それは平和という安定によって固定されている。

 そんな理不尽を、平和を、何故正当化できる?


 そして一ノ瀬アザトが平和を憎むに、その『理不尽への嘆き』は十分すぎた。

 一ノ瀬アザトが『それ』を殺すに十分すぎるほどに、『それ』の望む平和はアザトの憎む平和と重なりすぎていた。


「それは俺の感性に過ぎない。独断に過ぎない。偏見に過ぎない。故に、俺は俺の決断に正義を飾らない。悪を飾らない。ただ一身上の都合により、お前を殺害する」


 それはもはや悪意ですらなかった。いや、善悪などという区分はもはやアザトの中に存在しない。善悪など、『他人がそれを見てどう感じるか』という第三者の主観の多数決の結果でしかない。そう、アザトは認識している。


 それはもはや戦意ですらなかった。戦うなどという言葉は飾らない。相手の理不尽に己の全てを賭して抗うとも聞こえてしまう、好意的な解釈の余地を残さない。


 それは、ただの、透明な、どこまでも純粋な、殺意。


 その殺意を受け、光の鳥は、あろうことか先制攻撃を放った。


 浄化の炎で、一ノ瀬アザトを包んだのである。


「無駄だ。俺に戦意など最初からない。善悪は主観に過ぎない。今の俺に、浄化される要素などありはしないのだ」


 光の鳥は、あるいは、怯えていたのかもしれない。

 その主も、光の鳥を通してアザトを見ていたのなら、恐怖したかもしれない。


「平和とは尊い。そこに反論の余地はない。では、何故尊いのか。尊いとはすなわち情動だ。情動そのものを理路整然と説明することは難しいが、何故平和を情動が希求するか……分かるか、鳩、そしてその主」


 それを想像してか、嗜虐的な笑みを浮かべてアザトは謳う。


「お前が押し付けようとしている平和と、平和という言葉を知った人間が求める平和は、本質的に異なるのだ」


 光の鳥は最大級の炎でアザトの浄化を試みる。が、アザトの表情は変わらない。


「人間はあくまで自分本位に、傷つきたくないから、疲れたくないから安寧を、平和を求めるのだ。さらに言えば『自分に有利な』平和を求めるのだ」


 どこまでも邪悪な笑みを浮かべ、ゆっくりと近づいてくる悪鬼羅刹に、何故、光の鳥が手も足も出ないのか。『悪』相手なら、無敵の二文字こそ相応しいはずなのに。


「お前が相手でも同じこと。お前に対して有利な状態で闘争を終了し、お前に対して人間が優位に立つ状態を『維持』すること。それが人間にとっての『平和』だ」


 答えは簡単だ。

 悪、などという絶対的な価値観がないのだから。

 悪に対して無敵であっても、その悪がそもそも存在しなければ意味はない。


 アザトは事実を拡張すらしていない。ただ、淡々と事実を述べているだけ。

 誰もが、程度の差こそあれ自分本位であるという、それだけの事実を。

 厭世的にでもなく、好意的にでもなく、無慈悲で無感情な事実として。

 まるで数学の式を展開するように、作業的に、しかして能動的に。


「それを悪と呼ぶには、お前もまた人間と同じく自分本位だろう?」


 それこそが、神(とここでは呼称する)の誤算であった。

 神もまた、人間によって自分が脅かされることを恐れ、『平和』を与えて、人間が自分と並ぶ、あるいは上に立つことを防ごうとした。自分が相手より上位にある状態を維持しようとしているという意味において、人間と差異のない行為だ。

 神は、少なくとも『それ』は、その意味において、既に人間の上位存在などではなかったのである。


「その傲慢さを償え……!」


 一ノ瀬アザトの手が、光る鳥に、触れた。


……いくよ。


(ああ。行こう)


 情報攻撃。

 一ノ瀬アザトと、―――――の持つ、究極の攻撃手段。

 その、『絶対』という、どうしようもない壁を越えてしまった文字通り理不尽な現実改変能力により、世界ごと書き換えて対象の存在を抹消する一手。


 その手に、光の鳥が、否、その背後の『それ』が耐える!


 いや、耐えるという表現は正しくない。


 情報攻撃を防ぐことは不可能だ。真正面からの力比べでは、理不尽の一言がよく似合う『彼女』の現実改変能力に対抗することは出来ない。

 だが。

 情報のバックアップを拡散させることで、処理能力を探索と抹消の両方に割かせることで抹消に使える処理能力を半減させ、逃げ延びることは可能かもしれない。バックアップがあれば自分を再構築できる能力を、別途必要とはするが。


……逃がさない。


(ああ。手繰り寄せる!)


 所詮、処理能力が有限であれば、の話でしかないのだが。


……『それ』が造物主であった場合人類そのものを連結する情報として削除する必要があるけど、それじゃだめだよね。


(肯定。人類の定義ごと改変する)


……宇宙の創造主だったら?


(同上。宇宙の定義を改変)


……時間を司る神なら


(時間を再定義)


……空間


(再定義!)


(再定義!)

(再定義!)

(再定義!)





 凄絶な厳密零時間の経過した後、そこには、前と変わらぬ世界が、否、変わらぬ『ように見える』世界が、在った。


(まるで宇宙創世だったな)


 己の行動を俯瞰し、アザトは小さく溜息をついた。


……どう? 神様になれた気分は。


(そんなものになった覚えはない。だが、よかったのか?)


……何が?


(平和の概念を、残してしまって)


……だって、アザトくんには傷ついてほしくないもの。


(平和が尊い理由、か。そこを抉り出すと、まるで尊いと思えなくなってしまうが)


 『彼女』もまた、超越者ではありえない。能力という意味ならば確かに絶対を超越した者ではあるが、しかして人間と変わらぬ自分本位さを持つ彼女は、やはり人間から大きく離れた存在ではない。


「試合終了。勝者、一ノ瀬アザト」


 たった今生まれ落ちたばかりの、いや、生まれ変わったばかりの世界で、最初にアザトが聞いたのは、無機質なアナウンスの声だった。


(ところで)


……なに?


(負けて元の世界に帰る計画が頓挫してしまったのだが)


 一ノ瀬アザトと守護霊は、2人仲良く途方に暮れるのであった。

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