殺害、そして、死

 一ノ瀬アザトが姉を殺したのは、乞われてのことだった。

 自らのうちに潜む何らかの狂気に怯えた姉が、涙ながらに懇願したのだ。

 愛しているなら、あなたのままのあなたが、私のままの私を殺して、と。


 だから、殺した。

 意味など分からなかった。

 それでも、それが愛の証明になるのなら。


 殺した。


 最愛の姉を。

 

 恨んだ。

 怨んだ。


 最愛の姉を殺した、憎むべきただ一人の男を。


 それから、どれくらいの時が経っただろうか。


 交差点。

 いつも通る、街中の交差点。

 しかし、そこにある光景はいつも通りではなかった。


 悲鳴を上げながら逃げ惑う人々。それを蹂躙する、怪物。

 異形の何者かは、仇討ちさながらの執拗さで人々を襲い、一人ひとり念入りにその命を奪い、そして確実に殺し切ってから、また次の獲物へと襲い掛かっていた。


 逃げ場はない。

 あるのは、絶望のみ。


 それが、一ノ瀬アザトを襲った悪夢の、始まりだった。


 へたり込む少女に飛び掛かった理由を、アザトはその行動の最中に忘れた。

 少女を突き飛ばした直後、体のどこかに走った激痛がその意味を思い出させたのは、神の気まぐれか悪魔のいたずらか。


 思い出したからと言って、それが何か、アザトを利することもなく。

 一ノ瀬アザトは死んだ。

 異形に貫かれ、血と臓物を撒き散らし、なにも救えず、なにも守れず、ただ無意味に。


 ……死なないで!


 永遠の友となるべき静謐に意識をゆだねようとした刹那、アザトは誰かの否定の声を聴いた気がした。


 直後、アザトはまた、へたり込む少女を目に留め、飛び掛かった。


 無意味な救助だ。救ったところで伸びる寿命は2秒か3秒。

 アザト自身という二次被害を無意味に生み出すだけ。

 最愛の姉を殺した己が、今更一人救ったところで償いになどなりはしない。


 それでもアザトは、飛び掛かる。


 ……だめ!


 誰かの制止の声を振り切って、一ノ瀬アザトは死んだ。


 目に止めた少女を救おうと飛んだ。

 誰かが避けろと言った。

 蹴る地面がなくて死んだ。


 死んだ。

 死んだ。

 死んだ。


 謎の声と根競べでもするかのように、一ノ瀬アザトは死に続けた。


 やがて、誰かの声は悲しげに、諦めを告げた。


 ……どうしても、助けたいんだね?


 肯定。

 返答したのか、首肯だったのか、はたまた意志のみで答えたのか。


 それを受け、世界が、歪んだ。


 一ノ瀬アザトは疾風の迅さで少女を救い、そして異形の群れから抜け出した。

 それは偽りの奇跡。

 有り得ない可能性を悍ましい力で成し遂げた、異形を超える怪異。


 だから。


 世界は一ノ瀬アザトという異分子を『吐き出した』


 ……え?


 誰かの、拍子の抜けた声がアザトの耳朶を打った。



 次に一ノ瀬アザトの意識が捉えたのは、喧噪。


 周りを見渡せば、野球場にも似た擂鉢状の建造物の前にアザトはいた。


 ……どうしてこんなところに?


 戸惑う声が脳内に響いた。誰だかわからないが、何度も自分を生き返らせた謎の声もこの場所についてきているらしい。


(どうした?)


 ……落ち着いて聞いてね。


(早くしろ)


 ……ここ、異世界みたい。今、元に戻してあげる方法を探してるんだけど……


(そうか。俺の方でも、元に戻る方法を探してみよう)


 短い会話を終え、もう一度アザトが周りを見渡した時。


「参加者かい?」


 気さく、と見える青年がアザトに声をかけてきた。


「参加?」


 鸚鵡返しに尋ねるアザトに、青年はにこやかに説明した。


「優勝者の願いは何でも叶う素敵な大会だよ。異種格闘技ってやつかな。魔法なんかも使えるもんなら使っていい、正真正銘のルール無用らしいけどね」


「何でも?」


 つまり、優勝して元の世界に帰りたいと願えば……。

 偶然にしては出来すぎている。

 だが、現時点で他に方法がない以上、そうするしかない。


(サポートを頼めるか。さっきのように)


 ……君が望むなら、いくらでも。


(ありがとう)


 即席の、正体も知らない守護霊とのコンビは、斯くして謎の大会へ出場手続きをするのであった。

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