第3話 蝶になりたい

蝶々ちょうちょうさん」

 麗丹れいたんのことを、従兄いとこはいつもそう呼んだ。


 もっとも最初は「いつも」といえるほど会えたわけではない。

 彼は伯母おばと一緒に後宮にいたし、いくら身内でもなかなか会いに行けるものではなかったから。


 それでも彼がある程度の年齢になると後宮から出て、そのぶん叔父おじである麗丹の父のところへ遊びに来てくれることもあった。


 そしてしゅうせんをこぐ麗丹を見て、「蝶々さんは本当に蝶々さんだなあ」と笑い、こぐ麗丹の背中を押してくれることもあった。

「蝶々さん、あまり高く飛びすぎると戻ってこられなくなるよ」とからかってきたりもした。


 そんな麗丹たちを見て、よく父は笑っていた。

「お前は皇子が好きなんだなあ」

 そんなことを言いもした。


 父は我が子らはもちろん、自らの姉であるじょとくを大切にしていて、その息子である従兄にも心を砕いていた。

 総じて血族に対する情愛はこまやかであった。


 反面、妻である麗丹の母との関係は今ひとつであったが、娘から見てもこればかりはどうしようもないと思うところであった。

 子どもだからこそなにも言えないたぐいのすれ違いだった。


 父は従兄も麗丹のことも大切にしていたから、この話題が出たのは至極当然のことだった──麗丹を従兄の妃にしてはどうか。

 従兄は皇太子ではなかったし、麗丹は高位の妃嬪の姪だ。

 なにより二人は従兄妹いとこ同士、よくある縁組だったし、父も伯母も乗り気だった。

 父と今ひとつな仲の母でさえも。


 もちろん本人たちも。



 内々にという前置きはあったものの、父が麗丹にこの縁組について話をした日、麗丹は眠れなかった。

 その翌日も落ち着かず、部屋をぐるぐると歩き回った。

 我ながらおかしなことであったが、じっとしていたら急に跳びあがって叫んでしまいそうだった。

 そんなはしたないことはできない。


 庭を散歩しようかとも思ったが、窓の外で揺れる鞦韆を見て気恥ずかしくなったので、結局やめた。

 従兄に背を押してもらった鞦韆を見ただけでこうなのだから、従兄本人に会ったら自分はどうなってしまうのだろうと心配もした。胸の高鳴りとともに。


 結局取り越し苦労に終わってしまったのだけれど。


 その後、一度も会うことなく従兄は死んでしまった。



 まだ婚約者というわけでもなかった麗丹は、「比較的近しい身内」としての立場だけで葬儀に参列した。

 頭の中を常に揺らされているような気持ちの中、泣きふす伯母の姿だけが心に残っている。


 死因も犯人も明解。あっというまに捕縛され、あっという間に処刑された。

 それだけに負の感情を持っていく場所がなかった。



 麗丹は夜中にそっと部屋を抜け出して、鞦韆をこいだ。

 

 人に見られたら怒られたに違いない。

 けれどももしかしたら皆知っていて、あえて知らないふりをしてくれていたのかもしれない。

 そんなことに思い至る余裕もなく、来る日も来る日も鞦韆をこいだ。雨の日も、危険だとわかりながらこいだ。

 鞦韆って、こんなに必死にこぐものだったかしらと自嘲するくらいに。


 けれども止められなかった。


 風を受けながらずっと思っていた──蝶になりたい。「蝶々さん」と彼が呼んでくれたように。

 そして彼のところに行きたかった。

 今鞦韆をこいでいるここが世界の真ん中だったとしても、彼のいるところのほうにこそ行きたかった。


 蝶になりたかった。

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