第10話 消えぬ悪夢

 震えて泣く嬋娟せんけんを抱きしめる。

 大丈夫、大丈夫とつぶやく。それは「そうであってほしい」という、自分の願望に近かった。自分のせいだという思いが頭から離れない。


 嬋娟が「寵愛」を受けた。

 だがそれは「寵愛」というより「乱暴」に近かった。


 ばいが皇帝の興味を消し去ったと確信してから数日後、嬋娟が泣きながら戻ってきた。服はあちらこちらが破けていた。

 柳の枝を折っていた嬋娟を、皇帝が近くの宮に引きずりこみ、強引に事をしたのだという。

 普通ならば「おめでとう」というべきところだ。なにせ彼女のような名家枠の女官にとっては最高の機会だ。

 けれども嬋娟の様子は、とてもそんなことを言えるような状態ではなかった。引きつけさえ起こしかねない彼女を抱きしめ、梅花は必死に慰めた。



 梅花はかつての立場上、悪い言い方をすれば性行為に慣れている。だがそれは「好き」であることと同義ではない。

 すうから一人前になったときをはじめ、意に沿わない性行為も経験してきたし、それが嫌悪を催すことも、梅花はわかっている。


 ほとんど生まれたときから、そのための教育を受けてきた梅花でさえそうなのだ。

 風にも当てないように育てられた嬋娟が受けた衝撃たるや、想像に余りある。


 そもそも彼女が、そういう覚悟ができていない娘だということを、梅花は早々にわかっていた。

 宮中に入った理由が、「お父さまとお母さまが喜ぶから」で済んでしまうあたり、彼女はどこまでも幼いまま今日に至ってしまった娘という感がぬぐえなかった。


 けれども最初はよかったのだ。

 散々泣いて、泣いて、泣きやんだ嬋娟はぽつりと呟いた。

「これでお父さまとお母さまは、喜んでくれるかしら」

「…………」

 梅花はただ、彼女の背を撫でることしかできなかった。


 嬋娟はその後も何度か皇帝の枕席ちんせきはべった。そしてその後の数日間は、決まって夜中に泣きだして梅花に抱きついた。

 彼女は女官としての仕事は免除されたものの、妃嬪になることはなかった。皇帝の漁色が過ぎて、定員を満たしてしまっていたからだ。

 けれどもやがて彼女が妊娠の初期症状を示したことで、梅花は一安心した。

 さすがに皇帝も、自らの子をはらんだ女を無下にはしまいと。


 しかし皇帝は予想を完全に覆してきた。


 皇帝の子を身ごもった女を優先的に戻す……そんな通達を受けたとき、横で聞いていた梅花は怒りの余り目の前が白くなるのを感じた。

 名家の出といってもしょせんは商人の家の出である嬋娟は、皇帝にとっては取るに足りない女だったのだ。

 その嬋娟は、当事者であるはずなのに、どこかごとのように呟いた。

「わたくしが悪い子だからかしら。お父さまとお母さまがお怒りになるわ……」



 そうして彼女は実家へと帰された。

 こればかりは徳妃に頼ることもできず、梅花は見送ることしかできなかった。それに彼女の境遇自体は決して、今の社会のうえでは不幸なものではないのだ。

 皇帝の御子を身ごもったのだから……けれどもそんなものは、ただの言いわけにすぎない。


 梅花は、自分のせいだという考えを拭い去ることができなかった。


 嬋娟も下っ端の女官であり、しかも彼女は梅花と違って新人であるため、人目につくところにはあまり出てこない。

 その彼女が皇帝の目に留まったのは、皇帝の目前をうろうろする梅花にくっついてちょろちょろしていたからという可能性が高い。

 だが確証がない。もしそれがあったら……。


 ――あったら? 彼女についていって、一生尽くすの? そんなことができるの?


 心の中に、自分自身の冷ややかな声が響く。

 梅花は身ぶるいをした。両手で顔を覆った。


 ――できっこない! だってもう、他人に縛られたくない!


 皇帝に召されるのが嫌だったのも、そのせいだ。

 後宮を出て結婚するのをためらったのも、そのせいだ。


 今、梅花は自分の選択で女官をしている。誰かに従うのも、自分の判断で行っているし、いつでも好きなときにやめることを想定できる。後宮のごく一部という世界の中で、梅花は限りなく自由だった。

 それを失いたくはない……失いたくはないのだ。

 梅花はのろのろと手を顔から離した。かすむ視界の中でそれは、ぶるぶると震えていた。


 ――いずれ、報いを受けるわ。


 脳裏に声が響く。そのとおりだ、と静かに認めた。

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