第7話 自由の身になって
近ごろ病がちだった、
そしてほどなくして、
皇帝は広く天下に恩赦を
とはいえ彼女の場合の「身分の回復」というのは、妓女の立場に戻ったということではない。
そのことを知り、梅花は
しかし同じ賤民だからこそ、
つまり沈貴妃……いや今は皇后の手によって、梅花は完全に自由の身になったわけである。
それなのにもかかわらず、
それにしても彼女は、自らの手で奴婢にした妓女のことを覚えているのだろうか……と梅花は思う。
おそらく忘れているだろう。いやこれは、忘れていてほしいという楽観である。
あの時点で彼女が貴妃でまだよかったと梅花は考えていた。もし皇后であったならば、彼女が握りつぶせる事柄は更に多かったはずだ。場合によっては、梅花は拷問を受けて死んだかもしれない。
彼女とはあらゆる巡りあわせが悪かったとしても、その点だけはよかったのだなと梅花はしみじみと思った。
そんな梅花を再び召し出し、
「そなた、女官にならぬか。
「……え」
彼女の前では貝になろうと努めていた梅花が、初めて自分の意図によるものではない声をあげた。
そんな彼女をよそに、徐徳妃は語りはじめた。
「わたくしには
梅花への提案と、どうつながるのかわからない出だしで。
「頭がよくかわいい娘だが……甘やかされて育ったため、いかんせん性格がきついうえに、存外単純だ」
しかも本当に姪をかわいがっているのか、それともかわいがっていないゆえの言い草なのかわからないな……と思いながら梅花は黙って聞く。
というか、今のところそれ以外のことができない。
「この姪は庶出ゆえ、弟は
相変わらず姪への人物評はひどいが、この時点で梅花は納得した。つまり徐徳妃は、この姪に仕えろと言いたいのだ。だがそれならば、わざわざ梅花が女官を目指す必然性がないように思えるのだが、
「ゆえに学友を一人つけたい。そなたを」
……と思ったところで、徐賢妃は梅花の予想と絶妙にそれたことを言ってきた。
「どうだ?」
徐徳妃に促され、梅花は初めて口を開いた。
「姪御さまに……お仕え、するのではなく?」
「そのような者はいくらでもおる。腐った
徳妃はきっぱりと言いはなった。
「教養があり美しく、あの
そんな大役が自分に……とは思わなかった。実際、今のところ自分くらいしかできないだろうなと思った。
教養があり美しいという条件は間違いなく満たしている。
姪がどれだけ不遜なのかはわからないが、卑賤の身から平民に成り上がった自分が同じ女官になったら、彼女の鼻っ柱ともしょっちゅうぶつかりあうだろうし、場合によっては折れるかもしれない。
しかしだからといって、はいやりますと言えるものではない。
女官になれば、今とは比べものにならないくらい待遇はよくなる。なにせ正式に後宮に勤める立場だ。官位だって得られる。
だが同時に、女官は高位の后妃と接触する可能性がある。今や皇后となった沈氏とも。そのとき自分のことを覚えていたならば、成り上がった自分に危機感を抱くかもしれない。そうなったらおしまいだ。自分は小指の先でひねり
かといって、後宮を出ていくのも考えものだ。出ていったとしても、梅花にできる仕事は妓女か下働きだ。
しかし自分はもはや歌妓としてやっていけるだけの技量がない。あの段静静の末路のように酒場の隅で勝手に歌い、おひねりをせびるような下級の妓女がせいぜいだろう。妹たちにぶら下がるのはもってのほかだ。
下働きになるとしても、この後宮ほどの好条件な場所があるだろうか。奴婢になったころならばともかく、今の梅花は後宮の
要するに梅花自身にとっては、今の中途半端な立場がいちばん都合がいいのだ。
断る方向に傾いている梅花の気持ちを読みとったのか、徐徳妃はついと窓の外に目を向けた。
「おそらくそなたは、今のままでもそのうち、外の情報を得られるようになるだろう。だがそれは何年先のことになるか……」
「…………」
梅花は察した。そして、自分はもう断れないことを。
「お受けすれば、わたくしの家族のことをお教えくださるのですね?」
「ああ。定期的に知らせてやろう」
それでもう、梅花の気持ちは決まった。
引きうける旨を伝えると、徳妃は軽く肩の力を抜き、疲れたように
「わたくしの子はもうこの世におらぬ。今や楽しみは
その言葉に梅花は、以前墨尚楽が言っていたことを思いだした。
――徳妃さまなりの楽しみ。
墨尚楽のほうを見ると、彼女は一度だけゆっくりと
もう一度徳妃のほうを見る。その姿に、母が重なった。
自分の死後も守ってあげたかったはずの娘を、失った母。
「微力を尽くします」
そう言って梅花は、深々と
説得する際に情に訴えるのではなく、こちらの気持ちが決まってから本音を吐露する徳妃のことを、梅花は少しだけ好きになりかけていた。
※
さて、酸いも甘いもかみわけたような徐徳妃の姪――
なにせ初っぱなからこれである。
「あなた、どうやって伯母さまに取りいったの?」
女官への登用試験の会場で、敵意を隠そうともせず、それどころかむきだしにしてくる彼女に、これは確かにどうにかしなければならないと梅花は思った。
しかしその前に、どうにかして自分が女官にならなければならない。
だから麗丹がきゃんきゃんわめいていることの、半分以上は聞き流すことにもした。
このあとのことは雑に省略するが、梅花はともかくそんな感じの麗丹まで無事合格し、女官になることができた。
こうしてここに、ほとんど一方的に突撃してくる良家の娘と、それを
なおそのあとの展開はだいたいお察しのとおりに、なんだかんだで友情が芽生える感じなので、これまた投げやりに省くこととする。
梅花はおおむね満足だった。
要求されたとおりのことは
梅花が女官になってからすぐ、家族についての簡単な報告が手元に届いた。
最初の部分を読んで、梅花は一つため息をついた。母は一年前に亡くなっているという記述が目に入ったのだ。
ある程度覚悟はしていたのだ。
梅花が
それが終わってから続きを読みはじめた。妹たちがどうなったかも気になる。
まず
側室ではあるものの、
そして
梅花は報告書を畳み、それを額に当て……まずはよかった、と思った。涙が出るくらい
母のことは残念だが、自然の摂理上これはもう避けられない事柄だ。
――きちんと布団の上で、蘭君が見守るなかで逝けたのだから……。
安堵しているのに、寂しい。
そんな気持ちに突きうごかされて、梅花ははらはらと涙をこぼした。
いつか母の墓に
そう思い、梅花は思考を切りかえた。自分がどう生きるかを考える方向に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます