第7話 自由の身になって

 ばいが二十一歳のとき、「そのとき」が訪れた。

 近ごろ病がちだった、いん皇后が崩御したのである。

 そしてほどなくして、ちょうであるしんが立后された。

 皇帝は広く天下に恩赦を云々うんぬん……というあたりは長くなるので省くが、多くの人間が身分を回復した。その中には梅花も含まれていた。


 とはいえ彼女の場合の「身分の回復」というのは、妓女の立場に戻ったということではない。賤民せんみんの立場から格上げされ、平民の立場になったのだ。

 そのことを知り、梅花は呆然ぼうぜんとした。同じ賤民でも、妓女のままだったら決してありえないことである。

 しかし同じ賤民だからこそ、じょから奴婢ぬひへの移行が滞りなくでき、そして今の自分がある。


 つまり沈貴妃……いや今は皇后の手によって、梅花は完全に自由の身になったわけである。

 

 それなのにもかかわらず、いまだに梅花は皇后に対して好感を持てていないのが、いっそ不思議である。

 それにしても彼女は、自らの手で奴婢にした妓女のことを覚えているのだろうか……と梅花は思う。

 おそらく忘れているだろう。いやこれは、忘れていてほしいという楽観である。


 あの時点で彼女が貴妃でまだよかったと梅花は考えていた。もし皇后であったならば、彼女が握りつぶせる事柄は更に多かったはずだ。場合によっては、梅花は拷問を受けて死んだかもしれない。

 彼女とはあらゆる巡りあわせが悪かったとしても、その点だけはよかったのだなと梅花はしみじみと思った。



 そんな梅花を再び召し出し、じょとくは言った。

「そなた、女官にならぬか。ぼくしょうがくに推薦させてやるぞ。試験だけは自力で突破する必要があるがな」


「……え」

 彼女の前では貝になろうと努めていた梅花が、初めて自分の意図によるものではない声をあげた。

 そんな彼女をよそに、徐徳妃は語りはじめた。

「わたくしにはめいが一人いる」

 梅花への提案と、どうつながるのかわからない出だしで。

「頭がよくかわいい娘だが……甘やかされて育ったため、いかんせん性格がきついうえに、存外単純だ」

 しかも本当に姪をかわいがっているのか、それともかわいがっていないゆえの言い草なのかわからないな……と思いながら梅花は黙って聞く。

 というか、今のところそれ以外のことができない。

「この姪は庶出ゆえ、弟はひんではなく女官にしようとしているが、わたくしはどうも心配でならない。そのうち陥れられて獄死しそうな気がするのだ」

 相変わらず姪への人物評はひどいが、この時点で梅花は納得した。つまり徐徳妃は、この姪に仕えろと言いたいのだ。だがそれならば、わざわざ梅花が女官を目指す必然性がないように思えるのだが、


「ゆえに学友を一人つけたい。そなたを」

 ……と思ったところで、徐賢妃は梅花の予想と絶妙にそれたことを言ってきた。


「どうだ?」

 徐徳妃に促され、梅花は初めて口を開いた。

「姪御さまに……お仕え、するのではなく?」

「そのような者はいくらでもおる。腐ったやからが腐るほどな」

 徳妃はきっぱりと言いはなった。

「教養があり美しく、あのそんさに耐え、ほどほどにあの娘の鼻っ柱を折ってくれるような立場を、わたくしはそなたに求めている」

 そんな大役が自分に……とは思わなかった。実際、今のところ自分くらいしかできないだろうなと思った。


 教養があり美しいという条件は間違いなく満たしている。

 姪がどれだけ不遜なのかはわからないが、卑賤の身から平民に成り上がった自分が同じ女官になったら、彼女の鼻っ柱ともしょっちゅうぶつかりあうだろうし、場合によっては折れるかもしれない。


 しかしだからといって、はいやりますと言えるものではない。


 女官になれば、今とは比べものにならないくらい待遇はよくなる。なにせ正式に後宮に勤める立場だ。官位だって得られる。

 だが同時に、女官は高位の后妃と接触する可能性がある。今や皇后となった沈氏とも。そのとき自分のことを覚えていたならば、成り上がった自分に危機感を抱くかもしれない。そうなったらおしまいだ。自分は小指の先でひねりつぶされる。


 かといって、後宮を出ていくのも考えものだ。出ていったとしても、梅花にできる仕事は妓女か下働きだ。

 しかし自分はもはや歌妓としてやっていけるだけの技量がない。あの段静静の末路のように酒場の隅で勝手に歌い、おひねりをせびるような下級の妓女がせいぜいだろう。妹たちにぶら下がるのはもってのほかだ。


 下働きになるとしても、この後宮ほどの好条件な場所があるだろうか。奴婢になったころならばともかく、今の梅花は後宮のりくきょくの一つの長官に仕えている立場だ。



 要するに梅花自身にとっては、今の中途半端な立場がいちばん都合がいいのだ。



 断る方向に傾いている梅花の気持ちを読みとったのか、徐徳妃はついと窓の外に目を向けた。

「おそらくそなたは、今のままでもそのうち、外の情報を得られるようになるだろう。だがそれは何年先のことになるか……」

「…………」


 梅花は察した。そして、自分はもう断れないことを。


「お受けすれば、わたくしの家族のことをお教えくださるのですね?」

「ああ。定期的に知らせてやろう」


 それでもう、梅花の気持ちは決まった。


 引きうける旨を伝えると、徳妃は軽く肩の力を抜き、疲れたようにつぶやいた。

「わたくしの子はもうこの世におらぬ。今や楽しみはおいと姪の成長だけだ。あの娘がこの後宮で死ぬようなことだけは避けたい」

 その言葉に梅花は、以前墨尚楽が言っていたことを思いだした。


 ――徳妃さまなりの楽しみ。


 墨尚楽のほうを見ると、彼女は一度だけゆっくりとまばたきをした。あれは遊戯ということではなく、生きがいとしての楽しみのことを示していたのだ。


 もう一度徳妃のほうを見る。その姿に、母が重なった。

 自分の死後も守ってあげたかったはずの娘を、失った母。


「微力を尽くします」

 そう言って梅花は、深々とぬかずいた。

 説得する際に情に訴えるのではなく、こちらの気持ちが決まってから本音を吐露する徳妃のことを、梅花は少しだけ好きになりかけていた。


        ※


 さて、酸いも甘いもかみわけたような徐徳妃の姪――じょれいたんは、伯母おばの人物評どおりであった。


 なにせ初っぱなからこれである。

「あなた、どうやって伯母さまに取りいったの?」


 女官への登用試験の会場で、敵意を隠そうともせず、それどころかむきだしにしてくる彼女に、これは確かにどうにかしなければならないと梅花は思った。

 しかしその前に、どうにかして自分が女官にならなければならない。

 だから麗丹がきゃんきゃんわめいていることの、半分以上は聞き流すことにもした。



 このあとのことは雑に省略するが、梅花はともかくそんな感じの麗丹まで無事合格し、女官になることができた。

 こうしてここに、ほとんど一方的に突撃してくる良家の娘と、それをはじきかえすか受けとめるかの元妓女……という、異色の女官二人組が結成し、主に徐徳妃を楽しませることになる。

 なおそのあとの展開はだいたいお察しのとおりに、なんだかんだで友情が芽生える感じなので、これまた投げやりに省くこととする。



 梅花はおおむね満足だった。

 要求されたとおりのことはかなえたし、自分の要求も叶えられたからだ。

 梅花が女官になってからすぐ、家族についての簡単な報告が手元に届いた。


 最初の部分を読んで、梅花は一つため息をついた。母は一年前に亡くなっているという記述が目に入ったのだ。

 ある程度覚悟はしていたのだ。竹葉ちくようが死んでから、母は寝つくようになっていた。

 梅花がろうを出たのは、まだ姉が死んでから一か月しか経っていなかったから、もしかしたら立ちなおったのではないかと思っていたのだが……やはり無理だったかと、梅花は目を閉じ、在りし日の母に思いをはせた。


 それが終わってから続きを読みはじめた。妹たちがどうなったかも気になる。

 まず菊珍きくちんは、数年前客の一人に落籍されて、二人の子どもを産んでいた。少し驚いた。

 側室ではあるものの、じょとしては幸せな結末を迎えたといえよう。異論はあるだろうが、少なくともだんせいせいに比べるとはるかにましだ。


 そして蘭君らんくんは、母から妓楼を引き継ぎ、また自身も売れっ子の妓女として働いているらしい。かなりのやり手だとか。


 梅花は報告書を畳み、それを額に当て……まずはよかった、と思った。涙が出るくらいあんした。

 母のことは残念だが、自然の摂理上これはもう避けられない事柄だ。


 ――きちんと布団の上で、蘭君が見守るなかで逝けたのだから……。


 安堵しているのに、寂しい。

 うれしいのに、哀しい。


 そんな気持ちに突きうごかされて、梅花ははらはらと涙をこぼした。

 いつか母の墓にもうでようと思った。今は外に出るどころか、手紙も出せない身ではあるけれど……必ず。

 そう思い、梅花は思考を切りかえた。自分がどう生きるかを考える方向に。

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