梅花

第1話 花街の妓女

 窓から差し込む光で、ばいは目を覚ました。


 梅花は身を起こしながら、顔の横を流れる髪をそっと押さえる。

 見れば太陽はずいぶんと高かった。昨日はうたげに長時間拘束されたからか、いつもより起きるのが遅くなってしまった。

 今日の予定はどうだったか……と考えながら、梅花は窓を開けようとする。庭の梅がそろそろ咲くころだった。様子はどうだろう。


 しかしその手は、己を呼ぶ声によって止まった。


「梅花!」

 呼び声は階下からのものだった。

「……はい!」

 寝起きのややかすれた声で梅花は答え、薄い上衣を一枚羽織って房室から出た。


 主が去った房室の窓の下では、まだ咲かない梅の木が春の日差しを浴びていた。


        ※


 階下には四人の女――母と姉妹たち――が揃っていた。

 とはいっても、全員梅花とは血がつながっていない。母は「仮母」と言われるろうの主人で、梅花の養母である。姉妹たちも一人を除いて、母と血がつながってはいない。


 その全員が無表情で座していた。


「どうしました、かあさん」

 そのどこか異様な光景に、梅花は声をかけた。母は短い言葉で答える。

「あのだんせいせいが死んだわ」

 梅花ははっと息をんだ。



 段静静。

 この花街に暮らす者ならば、彼女の名前を知らぬ者はいない。

 ぼうと多芸をもって、四方に名声を鳴りひびかせていた妓女だ。才色兼備という言葉を体現したかのような彼女は、花街の一等地であるなんきょくに居を構え、一流の文人たちを相手にする日々を送った。

 しかもきゅうではない市井の妓女であるというのに、皇帝の御前に召されることもままあるほどだった。

 まさしく一代の名妓と呼ぶにふさわしく、あらゆる風流人たちが、こぞって彼女と交流を持ちたがった。



 梅花ももちろんその名を知っている。だが彼女が今息を呑んだのは、偉大なる大先輩の死を悼む気持ちから出たものではなかった。


 老いて容色が衰えた静静は貧困と病に苦しみ、場末の酒場で歌って日銭を稼ぐようになっていた。

 そのことも含めて、梅花は知っているのだ。


 そして今日、かつての名妓が、若かりし日が嘘のように落ちぶれたまま死んでいったこと。それは自らの前途を悲観するのには、十分な材料だった。


「病気?」

「たぶんね」

 答えたのは、妹の一人である菊珍きくちんだった。

 あいまいな回答に、梅花はけげんな顔をする。

「たぶん?」

「いつのまにか、ほくきょくの酒場の横で野垂れ死んでいたのよ。だから正確な死因はわからないみたい」

 わざわざ調べる人もいやしないから……彼女はそう言って、肩をすくめた。菊珍は比較的冷静に事態を受けとめているようだった。


 反対にもう一人の妹と、姉はどこか青ざめていた。

「ねえさん、大丈夫ですか?」

 梅花が姉である竹葉ちくようの肩に手を置くと、彼女はかすかに微笑みを返し、梅花の手に己の手を重ねた。ひんやりとしていた。


 返事はない。

 彼女は口を利くことができないからだ。


 それでも竹葉は妓女として、そこそこ以上の地位を確立している。

 しかしどこまでいっても、「そこそこ」を超えるものではない。

 名妓ですらみじめな死に方をしたのだ。それだけに、自分が老いたあとのことがなおさら憂えるのであろう。

 菊珍が竹葉に、優しく声をかける。

「竹葉ねえさんは大丈夫よ。だって、あんないいだんがついてるもの。きっとそのうち落籍してくれるわ」

 ――ええ。

 竹葉はうなずいた。そして菊珍の手に指を伸ばし、動かす。おそらく感謝の言葉を書いているのだろう。

 竹葉のことは菊珍に任せ、梅花はもう一人の妹のほうを向いた。

蘭君らんくんも」

「……はい」

 彼女も顔を青ざめさせている。

「そうよ、まだ始まっていないんだから、終わりを悲観することなんてない」

 母がここで口を開いた。

 蘭君はすうといい、まだ一人前ではない立場だ。けれども、だからこそよけいに不安に思うところがあるのだろう……と梅花は思った。母の手前、口にすることはなかったけれども。

 おそらく母もそういう機微をわかっていて、あえて言っているはずだ。

 母はゆったりとした動きで頬杖ほおづえをついた。物憂げなその姿は、娘である梅花から見てもどこかなまめかしい。

「あんたたちも、いい旦那をつかんで放すんじゃないよ。でないと静静みたいな末路をたどる」

「はい」

 竹葉は頷き、梅花と菊珍は口々に返事をする。


「さて、梅花。ついておいで」

 立ちあがる母に頷きながら、梅花は立ちあがる。赤子のころから母と一緒にいる彼女と、それから竹葉は母がどこに行こうとしているかわかっていた。

 しかしそれほど長い付きあいではない菊珍は、問いかけてくる。

「かあさん、どちらへ?」

 母は手短に答える。


「葬儀よ」


        ※


 妓女にとってお互いは競争相手である。だが同時に自らの境遇を理解しあうことのできる仲間でもある。そしてある面では、同業者として連帯する者同士ですらあった。

 花街では妓女がいくつかの班に分けられ、特定の妓女だけが宴に呼ばれることがないよう調整したり、班内でお互いの面倒を見たり……ということが行われている。

 そんなふうに共同体として、一つのかたちを確立しているのが花街だった。


 また段静静は社交的で面倒見のよい女だったため、義理の姉妹の契りを交わした者が大勢いた。

 皆現役の妓女ではないが、中には妓楼の女主人としてそれなりに身を立てている者もかなりいる。


 たとえば梅花の母みたいに。


 だから静静は、その気になれば頼る場があったのだ。それでも彼女が独り死んでいったのは、きょうの高さのせいだ。

 葬儀の場、いずこかの妓楼の女主人が、涙をこぼしながらぼやく。

せいは……」

 親しい者にしか許されない呼び方で段静静のことを語る彼女は、たしか同じ妓楼で育った妓女だった。

「自分が頼られる立場になっても、自分が頼る立場になるのはまっぴらな人間だったわ」


「そうでなかったら、こんな死に方なんてしなかっただろうに」

「死んでから初めて、助けさせてくれたわねえ」

 他の者たちも口々に言う。

「でも」

 そんななか、梅花の母がぽつりとつぶやく。

「そんな女じゃなきゃ、『段静静』じゃなかった」

 年増ではあるものの美しい女たちは、みな一様にため息をつき、「そうね」と頷いた。

 それが名妓というものだ。花街に生きる女ならば、皆わかっている。



「また一人姉妹が死んだわ」

 葬儀の帰り道、母がどこかいびつな笑顔を梅花に向ける。

「わたしもいつ死ぬやら」

「かあさん……」

「そうなったら、妓楼はあんたに任せるから、竹葉と妹たちを頼むわよ」

 梅花は無言で頷いた。

 今日、自分一人が葬儀の場に同行させられた理由を、梅花はわかっていた。梅花の顔見せをしようとしたのだ。

 他の妓楼の主たちも、それぞれ自分の後継と見込んでいる妓女を連れていた。


 梅花もそのことは覚悟していた。四人の中で、花街で生まれ育ったのは竹葉と自分だけだ。竹葉のほうが年上であるが、彼女は口がきけないうえに体が弱い。だから彼女にとって妓楼は重すぎる荷だ。

 そうなると自分が担うしかないと、梅花はごく幼いころからそう思っていた。


「お前は四人の中で一番頭がいいから」

 けれどもそう言ってきた母に、梅花は苦笑いする。

「頭がいいのは菊珍ですよ」

 容色は竹葉や梅花に劣るが、この商売は容色だけで売れるものではない。大切なのは客を楽しませられるかどうかだ。それは性的な意味だけに限らない……というより、それ以外の意味での楽しませ方のほうがはるかに重視される。

 その点菊珍は、詩歌に精通しており、弁舌が巧みで卓上の遊戯にも強い。しかも舞も上手うまい。今花街で一番売れているじょだ。つまり現状、もっとも段静静に近い存在だった。


 それにひきかえ、梅花は歌しか取り柄がない。この取り柄に自信はあるものの、それに並ぶほどの取り柄がないのだ。

 だから梅花には幾人か固定客はついているものの、妓女としては中堅の立場だった。


 そんなふうに冷静に自分と妹をとらえている梅花に、今度は母が苦笑いを向ける。

「あの娘は割りきりが足りない」

「…………」

 そんなことはない、と妹を擁護できればよかった。だがそうかもしれないな、と思ってしまったから、梅花は黙ってしまった。


 梅花は花街で生まれた。

 そして花街で育った。

 きっと花街で死んでいくのだろう。


 そんな自分を梅花は熟知している。他の世界を知らないから、他の未来を考えることが難しい。だが菊珍は違う。


 彼女は、地方とはいえ高級官僚の娘だった。学識が高いのもこの生いたちのおかげだ。

 ところが早くに父をうしない、しかも側室腹だったため、正妻に花街に売られたのだ。

 そんな立場でなにもかもを割りきれるはずがない。


 その点、菊珍と似た立場である蘭君のほうが割りきっている……というか、あきらめている。

 彼女は仕官のために各地を転々とする父についていたが、ついに生活が苦しくなって花街に入ることになった。

 幼いなりにもう限界だとわかって身をやつしたうえに、実の家族にもどこか虐待じみた待遇を受けていた彼女は、しかたがないということがわかっている娘だ。

 地方で妓女になるより、この帝都で妓女になる今の立場はまだましだということも。


「それでも菊珍はよくやっていますよ」

「そうね……だから、これ以上を望むのは酷ってもんよ」

「そうですね」

 これについては、梅花もまったくの同意見だった。


「さ、少し急ごうか。今日はお前、りょの旦那の宴席に呼ばれてたね?」

「そうですね。久々のお声掛かりですので、緊張します」

「よく言う。そういうところで緊張なんてしたことがないくせに」

 あきれたような母に、梅花はふふと笑った。

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