第4話 彼女に伝えたいこと

 そんなことを、今、思いかえしている。

 今……明慧めいけいの頭にしがみつくようにして、幼子が乗っかっている「今」。

 明慧が冷たい激流の中に身をさらしている「今」。


 明慧が頭に乗せている子どもは泣いていなかった。明慧が泣くな! と一喝したからだ。泣くと体力を消耗するのだと言うと、子どもは必死に頷いていた。

「いい子だ」

 と褒めると、

「母上もほめてくれる?」

 と聞いてきた。こんないい子を褒めないわけがない、と答えると子どもは手を口に当てて、涙を必死にこらえていた。



 助けはまだ来ない。



 冷たいという感覚は、とうに過ぎていた。

 震えもすでにおさまっている。

 だが体から力が抜けるのには参った。ここにつかまっていなければ、今背負っている子どもが死んでしまう。


 明慧はもはや、自分の死を覚悟していた。

 本当なら生きているうちに確実にこの子を助けてやりたいが、死んでしまうのならば、それはそれでそのあとに助かるようにしてやりたい。

 そして、自分が死んだあとで悲しむ人のために言葉を残したい。


 ……本当はもっとずっと一緒にいたかった。

 けれど、こうなったからには仕方がない。

 それに、戦場で敵兵に殺されることに比べたら、子どもを守って死ぬこの死に方のほうが、ずっと満足できる。


 夫は大丈夫だろう。自分の選択を誇りに思ってくれるに違いない。自分はそんないい男を夫にした。

 息子も大丈夫だ。夫がいるなら大丈夫。筋肉を愛しすぎる子に育つのだけが心配だけれど。

 でも、小玉しようぎよくは。


「……坊や」

 思うようにならない唇を必死に動かし、明慧は言葉を発した。

「なに?」

「小玉に、伝えてほしいことがある」

「『しょうぎょく』? だれ?」

「お前さんを助ける人だよ」

「なんて言えばいいの?」

 いろいろと言いたい言葉はあった。だがそれを紡ぎだすだけの余裕はなかった。だから明慧は、これだけつぶやいた。


「『小玉、お前は好きに生きていい』」

 それが伝われば、大丈夫だ。


 その言葉を抱えて小玉は生きていく。そして夫にも会いに行ってくれるはずだ。自分がそう言ったことが夫に伝われば、彼もまた察するところがあるだろう。

「小玉、お前は……」

 必死に復唱しようとする子どもに、もう一度言葉の後半を繰り返す。

「お前は好きに生きていい」

「小玉、お前は好きに生きていい」

「そう、そうだよ」


 子どもはそのあと、何度も何度も明慧の頭の上で「小玉、お前は好きに生きていい」と繰りかえす。

 これであとは、この子が助かるよう一踏んばりするだけだ。

 この、体の力が抜けている時間を乗り越えれば、今度は体が硬直するはずだ。そうすれば自分は今つかまっている岩に固定できる……んじゃないかと思う。多分。そうなったことがないからわからないけれども。


 ――だめだ、頭がうまく動かない


 けれども昔、父に雪山に連れていかれたとき、教えてもらったことがある。体が冷えてしまうと、そのうち体が硬くなって死に至ると。ならばきっと。


 ――…………。


 一瞬目の前が真っ黒になり、思考が中断される。

 ああ、もう駄目だな、と思った。

 この子は無事に助かるかな、とも。

 けれども父が教えてくれたことのおかげで、自分は最後の最後で、きっと大丈夫だと信じて死ぬことができる。


 ――父上。あなたに謝ることはないけれど、感謝はしている。


 そんなことを明慧は、最期に思った。

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