紅霞後宮物語 中幕/雪村花菜

富士見L文庫

明慧

第1話 立派な跡取りのつくり方

 十五歳のころのことだった。

 その日、春雷がやけにうるさかったことを明慧めいけいは覚えている。


「明慧」

 そんな中、やけに重々しい雰囲気で、父が口を開いた。明慧は素直に返事をする。


「はい」

 そうして父の次の言葉を待つ。だが父は明慧の名を呼んだきり口を閉ざし、なかなか次の言葉を発さなかった。

 この父にしては珍しい……そう思いながらも、明慧はじっと待つ。尊敬する父の言葉を。



 明慧はこれまでずっと父に従って生きてきた。

「素晴らしい人間とは、己の特技を伸ばせる者だ!」

 明慧は父にそう言われて育ってきたし、それを正しいと思ってきた。そしてそのとおりになろうと努め、実際にそうなった人間だ。


 すなわち、筋骨隆々とした肉体に。


 まさしく父の言ったとおりの、素晴らしい人間になれたと思う……いや、過去形にしてはいけない。自分はもっともっと素晴らしい人間にならなければならない。



 そんなふうに内心で自分の慢心を戒める明慧に、ようやく口を開いた父はこんなことをのたまった。

「すまぬ、これまでの父が間違っていた……。このままだとお前は嫁に行けないから、今日から特技を縮める方針で」

 これまでの父自身と、現在の明慧を全否定する言葉である。


 明慧は迷わず父をぶん殴って、家を出た。

 家族とはそれっきりである。



 ……という話を、明慧は小玉しようぎよく復卿ふくけいにしていた。



「今思い出しても腹がたつ!」

 怒りのまま、ふんぬ! と近くの木を殴りつけようとし……いやそれは木に悪いと明慧は思いなおす。かよわきものを衝動で傷つけるなどあってはならないことだ。

 しかし行き場のないこぶしをどうしようかと少し悩んだ彼女は……とりあえず猛烈にぐるぐると腕を回すことでしのぐことにした。

「へ、へえ~……」

 ぶおんぶおん言わせながら腕を回す明慧に、復卿が引きつり笑いを浮かべながら一歩退く。なんだその態度は。


 一方、小玉は同情に満ちたまなしを明慧に向けている。

「お父さんもね、もう少しやりかた考えたほうがよかったよね……段階踏んでやめさせないと、いきなりやめると禁断症状が起こるよね……」


「え、なんなの。体鍛えるのって、そんなやばい中毒性あんの」

「あると思う。あたし筋肉落ちるときって、なんかいやーな痛み感じるんだよね。じわじわくる感じで」

「あー……それはちょっとわかる。長く寝ついたときに、おんなじ感じになったことあるわ、俺」


 二人、腕をぶおんぶおんしている明慧をおもんぱかってか、こそこそとささやきあう。


「いや……問題はそんなことじゃないんだ!」

「あっ、違うんだ」

「そりゃ違うよな」

「あたしは志を曲げない父親を尊敬していた。それがあたしが嫁に行けない程度で、節を屈するとは!」

 再び拳を握りしめて力説する明慧に、二人は顔を見あわせて口々に言った。

「いやー、実際嫁に行けないってわりと大変よ?  あたしはそれで、故郷をはるか遠く離れました」

「お前なー、花街で『その程度』とか言ったら恨まれっぞ。あそこなんて、嫁に行きたくても行けないおねーさんたち、いっぱいいるからな」

 それぞれの人生経験に基づく発言には、けっこう説得力があった。


 明慧は一瞬固まり、

「……そうかも」

 なんだか納得してしまったのだった。


        ※


 明慧の父は武術の師傅しふである。

 若いころは自らの技量を極めることに時間を費やし、結婚は遅かった。

 初老に差し掛かるころ道場をつくり、妻を得て娘を得た。


 それが明慧……ではなく、その長姉である。

 その後も何人か子どもが生まれたが、娘に娘おまけに娘で、とにかく女しか生まれなかった。


 できるならば自らの血を引く子に、己の技を伝えたい……。

 そしてできれば道場を継がせたい……。


 そんなごく真っ当なことを考えた父親は、もうこれ以上は子どもができないと考えて、「おまけに娘」こと末娘の明慧に白羽の矢を立てた。

 そして明慧を徹底的に鍛えあげたのである。

 幸か不幸かわからないが、明慧には素質があった。父の期待どおりどころか、期待をはるかに超えて彼女の肉体は鍛えぬかれたのだった。


 正直、父に五回中三回は勝利できるくらいに……なかなか生々しい数字である。


 なお縁談は断られなかった。

 そもそも発生することが一度もなかったのだ。


 これはまずい、と思ったのは明慧の母であった。それまで夫に従順だった妻がここで動きはじめた。


 彼女はまず夫をそれとなく諭した……夫は全然察してくれなかった。

 続いて少し語調を強めに説明した……女は黙っておれと断じられた。


 そして……ついに激怒した母は、ばかでかい水瓶みずがめを投げとばしながら夫に自分の言い分をまくしたてたのだった。

 なお傍観していた弟子の一人は、明慧の素質は母親ゆずりのものであると確信したという。


 ともあれ父親は、自らの妻の迫力に圧倒され、ようやく話を聞く耳を持った。

 そんな彼に、母は簡潔に説明した。


 ――仮に明慧が立派な跡取りになっても、彼女が結婚できなければ次の代で絶える。


 無駄なところがそぎ落とされた説明は、彼女が何度も夫に話そうとし、ぜんぜん聞いてもらえなかった結果、内容が洗練されたものだ。

 その甲斐かいあってか、父親はようやく事態の重さを理解した。


 それでも最初父親は、明慧を自分の弟子と結婚させようとしたのだ。

 しかし話を持ちかけるたびに、彼らは言を左右にするばかりで、いつの間にか別の女性と結婚したり、あるいは道場を出ていったりしたのである。

 父親はいいかげん事態の深刻さを理解して……ここで冒頭のやりとりになったのであった。


        ※


 明慧の話はまだ続いていた。

 小玉と復卿はひざを抱えて座りこみ、話をじっくり聞く姿勢である。

「そんなことを、あとで姉からの手紙で知った」


「おー」

「あー」

 二人は口々に声をあげた。


「母は強いねー」

「いやーもう少し早く、その強さを発揮してもらえればって感じだけどな」

 気軽そうに言った復卿の肩を、小玉が軽く小突く。

「あんたそんなこと、よく気軽に言えるね」

「いいんだ。あたしも同じこと、少しは考えてるから」

 明慧はため息をついた。

 明慧は母親に対しても思うところがある。だから家を出たあと、連絡をとったのは母親ではなかった。


 今、明慧がつながりを持っているのは、もっとも親しかったすぐ上の姉だけだ。そして結局父の道場は、その姉が婿をとって継いでいる。


 最初からそうすればうまくいったのだ。


 そういう思いが、明慧の中にある。そしてそれは、かなりの部分で正しいため、おそらく明慧の心から生涯消えないだろう。


 明慧の話を聞いている二人は、ただうなずくだけであった。

 それでよかった。そういう友人(復卿除く)が自分に出来たことは、自分のつかんだ幸福の一つだと考えていた。

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