真夜中のコップ
歌川裕樹
第1話 真夜中僕は階下に降りた
まだ子供の頃だった。
喉が渇いていた。それで目が覚めたようだった。
まだ暗闇が怖かった。水を飲みに行く。それだけで闇の中を歩くのが嫌だった。
真夜中は空気がねっとりする。湿り気ではない粘るような感覚がある。
構わず部屋を出て階段を降りた。ベッドは二階。水道は一階。
階段を慎重に降りた。電気を片端から点けたのに、肝心の水を飲むダイニングには点けなかった。
あらかじめ僕が来るのを待っていたように水の入ったコップがテーブルの上に置かれていたからだ。
廊下の薄い光だけでコップがあることは分かった。水がちょうどよく入っていることも。
誰が? どうして? 僕は疑問に思わなかった。
コップを取ろうとテーブルに近づき、手を伸ばした。
すっ、とコップが動き始めたのはその時だ。
まるで僕の手に収まる為に。まっすぐに僕に向けてコップはテーブルの上を移動した。
「来ないでくれっ」と僕は思った。けれど手元までコップは動いた。
僕は「腰が抜ける」ということを初めて体験していた。床についた腰が持ちあがらない。
そのまま二階まで奇妙な動物のように這い上がった。目を閉じて何も起こらなかったと言い聞かせて眠った。
大人の今なら原理を解説できる。床は元々軋むような建て付けだった。子供の体重だけで沈み込むくらいに。
テーブルは床に従って最も沈んでいる地点、自分自身に向けて傾いた。コップに付いた水の被膜と空気の層がコップを運んだだけだ。
けれどそれは、その日の僕には途方もない恐怖だった。誰がコップを置いたのか、何故ちょうど良く水が入っていたのかは今でも誰も知らない。
よくよく考えると今でも怖い気がするのだけれど、それは考えないことにしている。
真夜中のコップ 歌川裕樹 @HirokiUtagawa
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