臭いに負けないで

 ある日、悩みを抱えたハエが、藁にもすがる思いで友人のカメムシに会いにやってきた。生垣の葉を座布団代わりに、カメムシはハエを快く受け入れて話を聞いてくれることに。早速ハエは、自分が今直面している問題について、包み隠さずカメムシに打ち明けた。

 ハエが言うことには、彼には思いを寄せる昆虫女子がいるという。それはチョウチョさん。可憐に純白の羽を羽ばたかせ、上品に花の蜜を吸い、優雅に空を舞い踊る。暗色の体に五月蝿い羽音、食べ物だって粗末なものしか食べない…自分は対照的な存在ではあるが、一目見て好きになってしまった相手を簡単には諦められないと、彼はチョウチョさんに思い切って告白したのだ。ハエの外見や食事に特別文句は言わなかったチョウチョさんだったが、一つだけとりわけ彼と付き合いたくないという部分を指摘した。それは、彼がくさい臭いにつられてその発信源に近付いていくこと。花の蜜を吸いながら、その様々な甘くて良い香りに慣れ親しんでいたチョウチョさんにとって、鼻を塞ぎたくなるような異臭に群がるハエの姿はまさに異質で異常。とても耐えられるものではなかったのだ。そんなわけで見事に玉砕したハエだったが、彼女のことを諦めきれずにこうしてカメムシに相談に来たのだ。話を聞いて、カメムシは何故彼が自分のところに救いを求めてきたのかがよく分かった。彼は異臭につられない、本能に負けない特訓をしたいのだ。そのためにも、カメムシの放つ強烈な悪臭が必要だった。どんな異臭にも負けない魅力的な餌、それに飛びつかない忍耐力を得ることで、己の性に打ち勝とうと考えたのだった。カメムシはハエの要請に快諾し、場所を変えて訓練をすることにした。

 公園の生垣近くに置かれたゴミ箱の足元。ハエはゴミ箱の臭いが気になるようで、無意識にそちらに視線を送ってしまう。カメムシが軽く一喝すると、ハエは我に返り、両頬を手で叩いて気合を入れた。カメムシは早速、体からくさい臭い成分を分泌し、臭いが移るように等間隔で地面にそれを塗り始めた。臭いを発した途端、ハエはすぐに正気を失い、興奮してカメムシに抱きついてしまう。カメムシはハエの頭を力いっぱい叩き、彼を正気に戻した。悪臭を配置しながら暴走するハエを諌め続けること数十分。その頃には少しばかりハエも慣れてきたようで、飛び掛りたいのを必死に堪えて体を小刻みに揺らして平常心を保っていた。円状に配置した悪臭の中心にハエを座らせ、三日三晩そこで堪え続けるように促すカメムシ。ゴミ箱からハエが食べられそうなものを見つけて彼に渡し、自身も円の外に座してハエの苦行に付き合うのだった。こうして、ハエの臭い拒絶特訓が幕を開けた。

 開始初日、四方八方から立ち込める魅惑の香りに堪らず体が動いてしまうハエ。悪臭に触れようとしてカメムシの喝が入り、気を持ち直す。すぐに円の中央に戻り、あぐらをかいて俯き、甘く囁く誘惑を振り切った。

 二日目、震えながら臭い物質のほうに伸ばそうとする自分の手を叩いて止める。少しずつではあるが、本能を抑える力を身につけつつあった。着実に進歩を遂げるハエの姿に、カメムシは胸が熱くなった。

 迎えた三日目最終日、ハエは腹筋をして煩悩を振り払っていた。始めた頃に比べると抵抗力は目覚ましく上がっており、臭い物質に対してちらりと一瞬見るだけにまで耐性は増えた。そのまま筋トレを続けてタイムリミットの夜になり、ハエの悪臭忍耐修行は無事に終わった。ハエはカメムシと熱い抱擁を交わし、深く頭を下げて、早速チョウチョさんの元へと飛んでいった。

 翌日、カメムシの住む生垣にまたハエがやってきた。告白リベンジの結果を伝えにきたのだろうと楽しみにしていたカメムシは、葉の座布団に座るよう促す。ハエは正座になり、地に両手をついて頭を下げた。突然の謝罪に戸惑うカメムシ。ハエは顔を上げ、涙を流しながら昨日別れてからの出来事を語った。

 特訓を終えて、すぐにチョウチョさんに会いに行こうと空を飛んでいたハエは、ふと好みの悪臭を感知して思わず立ち止まってしまう。臭いの発信源に目を向けると、ゴミ捨て場があり、そこには自分と同じ種類のハエが何匹も群がっていた。楽しそうに群がる仲間たちの姿に見とれるハエだったが、我に返り顔を大きく左右に振って、愛しのチョウチョさんの元へ向かおうと再び飛び立つ。ところが、どういうわけか、体が進行方向を向いたまま逆に動いてしまう。さながら磁石で引き寄せられるように背中は仲間たちの待つゴミ捨て場を目指した。必死に抵抗を試みたハエだったが、奮闘虚しく、悪魔の囁きに屈してしまうのだった。

 あれだけ頑張って特訓したのに、外見や行動だけでなく、中身まで結局は醜いんだなと痛感させられ、心挫けて告白に行けなかったとハエは涙を流した。カメムシは、彼の背中を擦り、優しく諭す。汚らわしくたって良いじゃないか。最後には誘惑に負けはしたが、確かに君には三日三晩の苦行に耐えるだけの精神が備わっている。君にも輝きがある証拠だ。汚く醜過ぎるのも問題だが、まっさらに綺麗である必要もないんだ。八方美人って言葉があるように、綺麗過ぎても周りから目の敵にされることだってある。チョウチョさんだって、君を受け入れられない理由をはっきりとした物言いで言う程には尖っていたじゃないか。そもそも100%清純で無垢な奴なんていないよ。だから君も、彼女に受け入れられないとしても本能を歪めてまで、自分を否定して責めてまで頑張ることはないよ。自分というものを疲弊させて殺すくらいなら、いっそ彼女が嫌う欠点を含めても自分を好きになってもらえるように長所を伸ばせばいい。やり方さえ変えれば、君にはまだいくらでもチャンスはある。

 カメムシの言葉に勇気付けられ、ハエは涙を拭い、笑顔で頷いた。その後、カメムシと共に伸ばすべき長所を見つける会議を開きながら、日が暮れるまで語り合った。


 数週間後、自分磨きをしていたハエが久々にカメムシを訪ねてきた。彼の表情からして、相変わらず悪い知らせを持ってきたのだろうということが容易に想像できた。カメムシの予想は的中したようで、ハエは溜息を吐きながら大きく肩を落とした。

  チョウチョさんが、同じ種類の雄のチョウチョと結婚したのだそうだ。


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