夏夜の悪魔

 夏は嫌いだ。照りつける眩しい太陽は、私の白く敏感な肌を小麦色に焦がして今までのケアを水の泡にせんと台無しにしてくるし、頭がおかしくなるくらい気温を上昇させて無垢な人々に熱中症という死の呪いを振り撒くし、山に行けば毒蜂や熊が盛り海に行けばクラゲやサメのオンパレードでレジャー丸潰れだし…カキ氷を美味しく食べられるのはいいけど。嫌なところを挙げていったらキリが無い。夏など滅んでしまえとさえ思ってしまう。暑さを欲する氷河期で絶滅した恐竜や永久凍土でコールドスリープしていたマンモスは、いやいや待てと異議を唱えるかもしれないが、どんなご高説を唱えられても私は夏が嫌いなのだ。私の感情を歪ませた最大の原因は、紛れもなく奴だった。

 ジリジリと蒸し暑い夜。熱帯夜とはかくなるものかと、枕元の団扇を扇ぎながら噴き出す汗を手で拭う。扇風機は昨日壊れた。クーラーはまだ掃除していないので使えない。頼れるのは己の腕力と微々たる風を呼び起こす祈りのみ。といっても、さっきから「風よ来い」と念波を外に送っているのに、自然の神がデレてくれないので、実質団扇様のお力だけが頼りとなっているが。その団扇様も、粗暴な私目の荒い扱いのせいで、貼られた紙は所々剥がれ落ち、骨組みは歪にしなっていてお体はボロボロの瀕死状態に在られる。真申し訳のうござる。完全には解消されないものの、団扇様のご苦労の甲斐あって、三十分もすると、体が少しは暑さに慣れたのか、汗の量も少なくなった。ここまでくれば強引に眠りつくことも難しくはない。目を瞑り、頭の中にお気に入りの音楽を再生する。これだけの所業で簡単に眠りに落ちることができるのだから、私という人間は実に単純な生き物だ。気に入っているサビの部分で少しばかりにやけはしたが、私の意識は段々遠くの彼方へと…ゆっくり…

(ぷぅ~ん)

ゆっくりと怒りが込み上げてきた。沸々と煮え始めた癇癪の溶岩が、私の意識を奈落の淵から無理矢理引き上げてくる。また今日も現れたな、悪魔め!勢いよく上半身を起き上がらせ、薄明かりの部屋の中を、音の出所を頼りに見回す。音波レーダーが敵の大方の位置を探知し、脳内に攻撃準備の指令を下す。両手で手叩きをする構えを作りながら、動き回る音の発信源を耳で追い続け、目を凝らして小さなアサシンの姿を探す。

(ぷぷぅぅぅぅぅ!!!)

左音レーダー棟にまさかの奇襲。内部に侵攻される前に処理しなければ、想像しただけでもショッキングだ。瞬時に開いた左手を耳の近くに移動して、左棟入り口前の中空を握り潰すように手を閉じた。手応えは感じられない、失敗か。再び前方暗闇の奥から不快な音波が発せられる。頭を掻きむしり、舌打ちをして次の接近に備えた。

 それから彼是一時間、不夜城は姿の見えない暗殺者に手を拱き続けている。堪忍袋は威嚇するフグのように膨れ上がり、やがて大爆発を起こした。

「だああああああああああーーーーーーーー!!!!!頼むから寝かせてくれええええええええええーーーーーーー!!!!プンプン五月蝿いんだよバカァァァァァァーーーーーーーーーー!!!!!」

「真夜中に怒鳴り声なんて上げて、あそこの家の娘さんは気でも触れているのかしら?」なんてご近所さんから誤解を受けるかもしれないと思ったが、叫ばずにはいられなかった。眠気と暑さと不快感と刺客を仕留められないもどかしさ…四苦の枷を嵌められ、私の精神は限界を迎えようとしていた。

「ちょいとお嬢さん、お待ちなさい。」

ついに幻聴まで聞こえてきた。好きなアニメの人気声優の声で誰かが私に語りかけてくる。

「あなたは誰?」

「僕は君が探していたものさ。」

気付けば、周囲はキラキラと星が輝くメルヘンチックな世界に変わっていた。声の主は、私の目の前でダイヤのように瞳を潤ませた人間大の大きさの化け物蚊だった。常識では考えられないサイズの蚊を前にしてはいたものの、不思議と恐怖や違和感は湧いてこなかった。蚊は馴れ馴れしくも私の手を両手で握ってくる。

「お嬢さん、あなた、僕の羽音が五月蝿いと、そうおっしゃいましたね?」

私は頷く。実際、こいつの無駄に響く高音飛行のせいで毎晩のように地獄を見ていた。蚊は私の手の甲を、マッサージでもするようにゆっくりと擦りながら見た目とは裏腹のイケボで続きを紡いだ。

「僕に非がある…というのは確かに認めよう。飛ぶ際に出てしまう音故、どうしようもないものだが、不快な思いをさせてしまい悪かった。でも…」

擦っていた手を止めて、いきなりピシャリと今度は手を叩いてきた。何すんじゃこら。

「騒音に困っているのは僕らも同じなんだよ、ハニー?君がゴロゴロ寝返りを打つとベッドが軋む。君が巨大怪獣のようにいびきをすれば、僕たちは夜のフライトをロマンチックに楽しめないんだ。」

言われてなんだか納得してしまった。無意識とはいえ、寝ていて寝返りを打つことはよくあると思う。起きたときに姿勢が変わっているのはそのせいだろうし。その寝返りのせいで音が出るというのは無くはない話だ。私の傍らに巨大なドラゴンが寝ていると考えれば、よく分かる。彼が寝返りを打つ度に地鳴りが起きて、雄叫びにも似たいびきを上げられたのでは堪ったものじゃない。修学旅行で友達に「あんたいびきマジヤバかったんだけど。」って言われたこともあったし、私は知らぬ間に夜鳴きをしていたのかもしれない。

「…ごめんなさい。」

「分かってくれたならそれでいいさ。僕も悪かったし、おあいここよしのコヨーテちゃん☆」

蚊は突然煙に包まれ、あっという間に私好みの二次元美男子に姿を変えた。彼は、私に跪き、手の甲にゆっくりと口を近付ける。

「これからも仲良く素敵な夜を楽しもうね♪」

彼の唇が私の肌に触れた所で、再び膨らみ始めた堪忍袋の第二次ビッグバンが放たれた。

「騒音問題は妥協したが、吸血行為は許可してねーから!!!!!!」

「ぶひー!!!」

同じ学年の不良男子を泣かせた、幻の爆裂右ビンタを全身全霊で打ち込む。会心の一撃を左頬に受けた蚊(イケメン)は、キラキラ光るお空の星の一つとなった。彼の星座が発見されるのは、今から200年後の未来のことである…なんちって。


「ゆで卵の平和!」

自分の奇声で意識がはっきりとする。気が付くと、ベッドの上に座ったままの姿勢で朝を迎えていた。どうやら先程までの出来事は、途中から夢に切り替わっていたようだ。そりゃそうだ。害虫がイケメンになって私を垂らしこむとか、現実に有り得る筈がない。眠りについていたとはいえ、多少の夜更かしをしてしまったのは事実だ。眠気を吐き出すように大きなあくびをして、ミシミシと痛む頭を落ち着かせようと、右手を持ち上げる。ふと、目に入った掌には、赤い液体を噴き出して潰れた小さな闇の刺客の亡骸が張り付いていた。私は左手でガッツポーズを作り、ティッシュで後始末を済ませてから、部屋を出て洗面所に向かった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る