植人逆相

 太郎は言葉を失った。どういう理由で意識が飛んでしまったのか、これまでの経緯についてまるで覚えていなかったが、今目の前に広がる光景が間違いなく異質そのものであることは容易に分かった。澄み切った青空は彼の知るところのものと同じであったが、地に存在するもの全てがおかしい。踏みしめる大地はブヨブヨと柔らかい感触で薄桃色をしている。その地面から生える五指を持った手腕は、肌色を呈した紛れもなく人間のものだった。手や腕だけではなく、足やら骨やら、黒色の恐らく髪の毛やら…肉体の断片がそこかしこに植わっている。まるで自然の中に自生する草花のように、己の存在の在り方を疑うことなく、真っ直ぐ伸びていた。まるで地獄のような場所ではないか。いつまでもここに居ては気が狂ってしまうかもしれない。太郎は一刻も早く、自分の記憶の中にある普通の世界に帰ろうと、術を探して歩きだした。自分の体を構成しているものと同じ外見の野草を掻き分けながら、当てもなく、ひたすら前を進んでいく。柔らかい土の感触に足を取られないように気を付けながら、真っ直ぐ、先へ先へと。

 異常な世界に少しばかり慣れて来た頃、人体の草原を抜けて川沿いに出ることができた。歩き続けたため喉が渇き始めていた太郎だったが、目の前の水源から水分を補給するのは躊躇われた。山の方でないと綺麗な水を得られないというのは知っていたが、理由はそれだけではない。澄んだ透明色であるべきはずの川の色は、深い真紅色に濁っていた。遠くからでも薄らと、錆びた鉄のような臭いが鼻を突く。吐き気を催し、口を手で押さえながら臭いを遮り、すぐにここから離れようと川から距離を置いて再び前に進み出す。が、すぐに太郎の足は止まってしまった。止めざるを得なかった。前方に川から這いずり上がる姿が見えたのだ。それは、赤い液体を全身から滴らせながら、ゆっくりと柔らかい地面に上り、フルフルと体を揺すって水滴を落としていた。頭に青い葉、五指のように分かれた枝、所々風穴の開いた太い幹、足のようにウネウネと蠢く根…衣服を纏っていることを除けば、それは紛れもなく樹木だった。その樹木に遅れて陸に上がってきたのは、半袖シャツにミニスカートの花の化け物だ。頭部の桃色の花を小刻みに揺らしているところを見ると、どうやら談笑しているように思えた。この世界について聞くために彼らに話しかけるかどうか、太郎は悩んだ。話を聞ければ、元の世界に戻るためのヒントが得られるかもしれない。だが、そもそも話が通じるのか疑問ではあるし、襲われないという保証も無い。悩んだ末に、とりあえず、化け物たちの後をついて行って様子を見ることにした。幸い、化け物たちは、太郎がいるのとは反対の方向に歩きだした。疎らに生える手足の陰に隠れてしゃがみながら、太郎は彼らの動きに合わせてゆっくりと動き出した。彼らとの距離は大分離れているため、下手なことをしなければ見つからないだろう。太郎は安全を最優先に、慎重に一歩ずつ歩を進める。この時、太郎はあることを見落としていた。ここに来て化け物が現れた。それはつまり、この場所が化け物の縄張り、もしくは出没地点になっている可能性があるということ。太郎が追いかける彼らだけが、このエリアにいる化け物の全てとは限らないということだ。しゃがんで前方に注意を集中させていた太郎は、不意に体が浮き上がる感覚に襲われる。いつの間にそこにいたのか、枯れ木の化け物が太郎の体を抱え上げていた。慌てて必死にもがく太郎だったが、一見華奢に見える枯れ枝の体のどこにそんな力があるのか、決して拘束から解放されることはなかった。と、太郎の目の前にもう一体、今度は彼岸花の化け物が細長い茎の腕で太郎の顎を掴み、頭から抜き取った一枚の花びらを太郎の鼻に押し当てた。本能的に危機を感じ、息を止めていた太郎だったが、枯れ木の化け物に胴をきつく締め上げられ、無理矢理吸わされる形で花の香りを嗅いでしまった。粘液が焼けるような痛みを鼻に感じながら、太郎の意識は深いまどろみへと沈んでいった。


 息が詰まったように大きく呼吸しながら太郎は目を覚ました。そこはよく見知った病院の自室。猛暑日でもないのに、大量の汗をかいて、寝巻きはすっかりびしょ濡れになってしまった。額の汗を拭って、傍らに置いてあったペットボトルの口を開けて液体を喉に流し込む。ほんのりと甘い風味が口の中に広がる。ベッドから起き上がり、着替えを衣装棚から出していると、ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ。」

太郎が声をかけると、担当医の花子先生が何かの書類を数枚といつも服用している錠剤を持って入ってきた。花子先生は棚の上に持ち物を置くと、上だけ着替えを済ませた太郎に近付き、額に手を当てた。

「大丈夫?調子悪くない?」

「はい。ちょっと怖い夢を見ていたみたいですが、それ以外は至って元気ですよ。」

「そう。それならよかった。」

花子先生は、太郎の頭を優しく撫でると、冷蔵庫から水を取り出して、持ってきた錠剤と共に差し出した。太郎は慣れたように薬を口に含み、水と共にそれを飲み込む。太郎がちゃんと薬を飲んだのを確認して、棚に置いた書類に何かを書き込む花子先生。それから小一時間ほど太郎と雑談し、書類を纏めてドアに手を掛けた。

「それじゃあ、また明日。何か困ったことがあったらすぐにナースコールしてね。欲しいものとかちょっとした用事でもいいから。」

「はい。…てか、いつもすみません。僕なんかのワガママを聞いてもらっちゃって。」

「気にしなくていいのよ。あなたのおかげで私たちも大きく進歩できたんだもの。あなたのワガママなんて安いものよ。」

「え?」

「要するに、遠慮しないでどんどん甘えてもらった方が、先生は嬉しいってこと。また来るわね。」

花子先生は、熟れた赤い果実をもぎ取り、それを太郎に投げ渡すと、静かに病室を去っていった。太郎は受け取った甘い香りの実をひとかじりして、ベッドの上に寝転んだ。


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