第4話 私は眠った

 お風呂から自室に戻ったとき、記憶のある半年前と変わり無い部屋で唯一の変化を見つけた。見覚えのない綺麗な緑色の石を付けたネックレス。大切なのだとわかるくらいに丁重に棚に飾られ、サビや汚れなんてものは見つからない。余程丁寧に扱っていたんだろう、素直にそう感じた。

 しかしその大切にしていたのは私だったのか、私じゃないのか。それについては全く判断が付けられなかった。

 私の部屋にあるのだから私が、とは言い切れない。自分で言ってしまうのもなんだが、物欲、物に対する執着心が全くと言っていいほどないのだ。そんな私が此処まで物を大切に出来るようになったのか、自分に聞いても答えは浮かばない。

 かと言って、他人がわざわざネックレスを磨くようにも思えない。両親は部屋に入らないし、長兄は私のものには触れない。若干次兄が怪しくはあるのだが、彼は不器用なので物を丁寧に扱うことができないはずだ。

 記憶にない私。半年間を過ごしていたはずの私。その私に対する疑問と不信感を抱きながら私は部屋の明りを消し眠りに就いた。

 ……眠りに就いた、はずだった。


 記憶の奔流とでも言えばいいのか。私は新幹線で外の景色を眺めた感覚を思い出す。

 余りに速く目が追いつかないけれど、時折吸い寄せられるように何かが目に入る。人であったり、木であったり、川であったり田んぼであったり。自然であったり建造物であったり、はたまた天候だったりする。

 いま経験しているものはとてもそれに近い。

 流れる。目で追えないような速さで流れていく。何が? 記憶が。0.5秒の間で切り替わる景色。目が覚めて食べて走って怒って喜んで泣いて、叫んで笑って叩いて叱られて、買って使って失くして壊して。意識できないほどの速さで物事が過ぎ去っていくのに、私は何故か理解する。

 ああ、これは記憶なんだ、と。

 一日が始まって過ぎて終わって眠って起きて寝ては目覚めて。あっという間に一週間が過ぎて。クリスマス翌日の26日から始まった記憶の早送りはちょうど一週間。年を越し正月、一月一日の夜眠りに就いたところで、テレビの電源が落とされるように終わった。


 息が切れたから夢から覚めたのか、夢から覚めたから止まっていた呼吸を再開したのか。どちらと判別のつかない呼吸を続け、私は知らぬ間に上体を起こしていた。

 頭の内部から打ち付けるような痛みが響く。視界が揺れそうなほど強く響いている。夏だというのに冷え切った体は、寝巻きを湿らせるほど汗をかいていた。暑いのか寒いのか、よくわからなかったが体が震える。

 怯えているのか、喜んでいるのか? 自分の感情に鈍感になってしまったらしく、それすらもわからない。ただわかっていたことは一つだけだ。

 一週間分の記憶を夢として眺めた。その事実だけだ。

 喉に酸っぱいものが込み上げてきた。堪えようとしたのに、勝手に口から吐き出される。「ゴボッ」と嫌な音が口から漏れる。

 暫くえずいていると、妙に焦ったようなノックと共に長兄が部屋に入ってきた。私が何かを言う前に吐瀉物に気付いた長兄は、何も考えていないような速さで駆け寄ってきて、背中を摩ってくれた。

 気持ち悪さは収まらず更に胃液を吐いてしまっても、長兄は「大丈夫だ」「ゆっくり呼吸しな」「傍にいる」と優しく背中を摩ってくれる。もう胃には何もないはずなのに吐き気は収まらない。空気を吐くことを何度も何度も繰り返した頃には、全身に力が入らなくなっていた。

 後ろに倒れこみ、腕で額を押さえる。視界がぐらつく。気持ち悪い。ぐるぐるぐるぐる世界と思考が回る。

「……ミっちゃん、大丈夫?」

 いつの間にか部屋に入っていた次兄が、水の入ったコップを差し出してきた。しかしもう体が起こせる気がしない。私が動かないままでいるのを見て、次兄はティッシュで口を拭くとストローを差し出してきた。

「口、気持ち悪いでしょ。取り敢えずくちゅくちゅ、ってうがいしよ?」

 次兄に言われるがまま口を漱ぎ、長兄が差し出してくれたビニールに吐く。もう一度同じことを繰り返し、体力が尽きた。ベッドに倒れていると、長兄は次兄にビニールを渡し、私の掛け布団を回収した。

「流石にこの布団は嫌だろ。待ってろ」

 長兄はそう言って、私の嘔吐物がついてしまった布団をどこかに持っていった。次兄は私の傍で只管頭を撫でている。「大変だったね」「ゆっくり休んで」「喉が渇いたら言ってね」同じような言葉を何度も繰り返す。

 私は次兄の声に安心し、そのまま眠りに落ちた。夢は見なかった。

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