第19話 山に帰る
暗い暗い、黒の空間の中で、目を開ける。
しかし光は無いので、開いているのか閉じているのか、わからなくなる。
だがそのとき、自らの衰えたはずの嗅覚が水の匂いを嗅ぎ取り、衰えたはずの聴覚が川のせせらぎを聞いた。
そうだ。あれは間違いなく、我が生まれ故郷。
はっきりと理解した瞬間、遠方より一筋の光がミズチのごとく蛇行し、降り下った。
それはまさしく我を育みし川。
ああ、まだ残っていたのだな。いや、当然だ。なくなるわけが無い。そうだ、上流へ行こう。我が生を受けし場所へ。我が君に出会った場所へ。
重くなった足を無理に動かし、一歩一歩進む。
同時に川は輝きを増し、覆っていた闇を退けていった。
そこで老人は目を覚ました。黒くすすけた天井が見えた。
それをしばらく見つめ続ける。すると、その天井のすすが何か模様のような、絵画のような、そういったものに見えてきた。見えてきたのは、山であった。
「『帰りなん、いざ、田園まさに
ふと、昔聞いた詩の一句が思い出された。
「これは……何だったかな」
傍らで骨董品の整理をしていた少年に尋ねる。
「え? ああ、
「……そうか」
ふむ、どこかで聞いた名だが……忘れてしまったな。
ふぅ、と大きなため息を一つ。その瞬間に体のどこかが軋んだ。
(……困ったものだな)
最近は体の不調が顕著になってきた。齢を考えれば当然なのだが、余りにも長く生きすぎたため、自分に物質としての「身体」というものがあることを忘れていた。それが最近になって限界になってきたようだった。
(あのような夢を見るくらいだ。そろそろ……潮時か)
全身に力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。
「翠」
はい? と気の無い少年の返事が聞こえた。こちらに目を合わせる暇も無く、黙々と整理作業をこなしている。
「これをやろう」
そう言われて、初めて手を止めた。
老人の方を見ると、掌に何かを乗せていた。
よく見れば木彫りの人形である。古代中国の皇帝の如き出で立ちであった。
「あの……これは?」
少年の顔が不自然に引きつる。
それもそのはず。今まで老人が紹介する物品に関わって、ロクな目に遭っていない。だいたい、老人が物を見せるときは、厄介事を持ちかけるときであった。今回もその類のことだろうと警戒したのである。
「安心せい。これはわしが手慰みに彫ったものだ。同じ人間に持っていてほしいからな。何よりお前には世話になった。その礼じゃよ」
「はあ、そうですか。じゃあ……ありがたく。けど何ですか? 急に改まって」
老人はそれには答えず、自らの歩を進めた。
室内を見回すと、今までであった品物の数々が、所狭しと並んでいる。少年が整理する前は、見られたものではなかったが、今では
「山に……帰ろうと思ってな」
暫く沈黙したあと、
「山……ですか?」
と、少し低い調子で少年が尋ねた。
老人は無言で頷く。
日の光の届かない、狭く長い通路を、入り口のところまで歩き、そして踵を返した。軽快とは言えない足取りで、しかし心なしか先ほどより軽い歩調で、老人は若者の傍までやって来た。
少年はまじまじと老人の目を見る。視力もあまり残っていないはずの灰色の瞳は、しかし、全てを明るみから見ているようであった。その目が細まった。
老人が手を伸ばした。
少年は少し驚いたが、ごく自然に体が動き、その手を握った。
老人にとって、二人目の人間だった。二人とも手は暖かかった。
最初は驚いた。人間というものは熱を帯びているのだな、と。だがそれが、不思議と嬉しかった。
今も、この人間の、翠という少年の暖かさが感じられる。やはりそれが……
もう一方の手を、握った少年の手に重ね、しゃがれた声で、言った。
「世話に……なったな」
少年の目から、涙が数行下った。
頷いた少年に、もう一人の人間が重なったのを、老人は見た。
夢を見た。
妙に曲がりくねった川があり、その岸辺に人がいる。
その人物が川から何かを掬い上げた。
一匹の小さな亀だった。
その時、その人の声が聞こえた。
――何だ。こんなに小さな甲羅では占うものも占えんではないか。いや、しかし今日お前を拾ったのも天命あってのこと。せっかくだ、お前、私の城へ来い。この山の外の世界でも見てみろ。退屈しないぞ。そして時が来たら――
「え!? あのじいさん里帰り?」
「ん~? うん。まあ、そんなもんかな」
「じゃ、あの店どうすんのさ?」
「ああ、お孫さんに頼んだって言ってたよ」
「あのじいさんの孫か……あんまし想像したくないな。するどい目だけ似てるとか……」
「するどい、か。まあ、そうでもないよ」
「だといいがな。しかしこれで、お前もじいさんも、ゆっくりできるわけだ。うん、大変良いことだ」
「そうだね。ゆっくりと……」
視点を遠くに向ける。西方の連山は、霞んでその姿を見ることができなかった。
「『時が来たら……帰ってくればいい』」
「は? 誰が? どこに?」
「ん? ああ……」
ふと、川のせせらぎが聞こえたような気がした。
「山に、ね」
東の山は、夏の若葉で、緑に繁っていた。
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