第18話 笛の泣く川
昔昔、あるところに、一人の娘がいた。
父は無く、母と二人で田畑を耕す百姓暮らし。やはり貧しくはあったが、心優しい母といるだけで、娘は幸せであった。
ある年、娘の村を豪雨が襲った。川は暴れ、田畑は飲まれ、村の財産があっというまに失われていった。
雨は長く居座り、果てはおかしな病まで広めていった。
そしてその病で娘の母は死んだ。
引き取り手の無い娘に、村人は、化粧を施し、煌びやかな錦を着せ、荒れ狂う川の淵へと連れ出した。
―水神様のもとへお嫁に行くのだよ―
そう言って娘を、濁った流れの中へ向かわせた。
娘は抗ったが、最後は力任せに投げ入れられた形となった。
浮かぶ間もなく、沈む間もなく、川は、娘の体を飲み込んでいった。引きちぎられそうな痛みの中で、何故自分が、何も悪いことをしていないのに何故自分が、と憤り、涙を流したが、しかし、それも暴れる水の一つとなって、娘を押し流していった。
気づいたとき、娘の身は川となっていた。いや、正しく言えば竜になっていた。母から聞いた、あの姿。長い蛇体と太い牙、鈍く光る鱗を持つ、あの醜い姿となっていた。
意識が途切れて幾日が経ったのか。空は晴れ、田畑は何事も無かったかのように、恵みを村人に与えていた。
娘はそれが許せなかった。幼い娘に酷い仕打ちをしておきながら、自分たちはのうのうと生きて笑っている。それが許せなかった。
娘は暴れた。
すると、日が陰るほどの黒雲が現れた。一声鳴くと、雷が落ちた。もう一声鳴くと、雨が限りを知らずに降ってきた。川の水は瞬く間に溢れ、以前娘が見た光景と同じように、村を飲み込んでいった。
それを見て娘は愉快になり、さらに暴れた。荒れ狂う川の水は、村全体を押し流し、さらに下流の村をも飲み込んでいった。
もはや娘には、何も聞こえなかった。村人の悲鳴も、土が崩れる音も、自らの狂喜の笑いにかき消されていった。今、自らを満たすのは、恐怖に形が変わる土地の姿のみ。
娘はまた、高らかに雷鳴を呼ぶ唸りをあげた。
そのときである。
「音が聞こえたのだ。笛の音がな」
女性は目を閉じると、深々と息を吸った。
「引かれるようにその音のもとをたどると、一人の童を見つけた。ちょうど、娘が人であった最後の時と、同じ歳であったと思われる。その童は笛を吹きながら、母を捜し求めていた。その笛の音の、なんと美しく、優しく、そして悲しいことであったか……おそらく、童はその笛を、母にも聴かせていたのだろう。その笛に、母が気づいてくれるように、今もまた、笛を吹き、母を呼んでいるのか」
薄く開かれた女性の瞳は、どこにその視点を定めているのか分からなかった。ただ、遠い場所を見ていたのだと、聴衆である娘には感じられた。
「そのとき、娘は、思ったそうだ。ああ、自分は、なんと愚かなことをしてしまったのだろう、と。これでは自分も、あのとき私を川へ投げ入れた大人たちと同じではないか、と。もはや娘は暴れることを忘れ、童の後姿を見つめるだけだった」
影が一瞬揺れた。電燈が、自らの寿命が近いことを知らしめているようであった。
「その後、童がどうなったか、分からない。生きて、母に会えたのかどうか。あるとき、どこかの村人が、川を鎮めるための祠を造った。その意図は不愉快であったが、娘はそこに居座ることを決めた。村のためではなく、あの童のために、村を守ろうと、そう決めたのだ」
少し、風が入ったような気がした。聴衆は、語り手に眼を注いだままだ。
「以来、その付近が大洪水に見舞われることはなくなったそうだ。多少の氾濫はいたしかたなかったそうだが」
最後に、ニヤリと薄く笑みを浮かべ、女性はその話を閉じた。
聴衆はしばし、瞬きも身動きもせずにいた。
が、
「何か三流の昔話じゃのぉ」
「三流じゃのぉ~」
「おい、この無礼極まりない鼠どもを煮るなり焼くなりして可及的速やかに処分せよ。腹が減るどころか腹の虫が治まらん」
「まあまあ……でも、昔話というのは、そういったものなのかもしれません。素朴であるがゆえに素直で、けれど何かに覆われて本当のことが見えなくなってしまう。それは、そこにいた人々の悲しみと……」
娘は、また、いつもと変わらぬ笑顔を湛えた。
「それを見てきた、カミの優しさが、同じだけあるからなのかもしれませんね」
皆、一同に静まり返る。二人の少女は、何を言っているのか分からない、という顔で。女性は、驚きと恥ずかしさの入り混じった顔で。
「そうなのか?」
「そうなのかのぉ~」
「……」
時刻は午後六時を迎えようとしていた。
そこへ、掛け時計が時を知らせるを前に、家主が帰宅を知らせる声をかけてきた。
「さあ、皆様、若様もお戻りですので、皆で夕餉の支度をいたしましょう。やはり今日はお鍋がよろしいでしょうね」
そう言うと娘は立ち上がり、台所へと足を向けた。
「食のことなら任せよ!」
「任せよぉ~」
ここへ来てもノリがいい二人の少女を引き連れて。
だが、居間を出る際に、
「おい狐」
と背後から声がかかる。
女性は、しかし、娘の顔を直視せず、少し乱暴にこう言った。
「お前は……なかなか学のあるやつだな」
きょとん、とした瞳に瞬きを二、三回して、娘は、
「ありがとうございます。ヒノカミ様からそのようなお言葉を賜るとは、とても光栄でございますわ」
本当に嬉しそうに小走りに出ていった。
その日の夕食は、また一段と騒がしいものであったという。
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