第17話 誰そ彼と問う

「ヒマだな」

 昔ながらの掛け時計が五回、乾いた音を鳴らし終え、その残響が完全に消えたのと同時に、居間から無感情な声があがった。

 畳の部屋にも関わらず、そこにはソファが置かれ、その上に身を投げ出している女性の口から、その言葉は漏れたらしい。

「本日は三十回目でこざいますねえ」

 と、傍らで洗濯物をたたんでいた娘が、愛嬌のある微笑みを湛える。

「先日はこの時間ですと、五十回はおっしゃっていらしたのに」

「数えるな馬鹿者。わしは真剣に憂いておるのだ」

 女性はそう言って半身を起こし、傍らの娘を横目で捉える。

 手には文庫本が開かれているが、遮光の目的以外に使われてはいなかった。もっとも先刻から眠っていたわけではなく、いつでも眠ることができる体勢のまま、無為に時を過ごしていた。時折、「ヒマだな」とつぶやきながら。

「まあ、夕刻ともなったことですし、今少しすれば若様もお戻りになりましょう。それまでご辛抱を」

「ふん、若者が帰ってきたとて、大しておもしろい事態になるとは思えんがな」

 女性は再び半身をソファへ埋める。

 この時刻の部屋は大体にして静かであった。今、聞こえているのは時計が律儀に時を刻む音。そして娘が包むようにたたんでいる衣類が擦れる音。

 障子を閉ざしているため、夕時の僅かな明るさも入ってこず、二人を照らすのは電燈の灯り。その電燈も寿命が近いらしく、かつての煌々たる明るさはもはや無い。

 家の主もそろそろ換え時と言っていたが、ここの住人のほとんどはこの程度の明るさ、いや、暗さを好んでいる。黄昏時の、闇と陽が共存する時間がもたらす、あの微妙な光。人間ならば忌避するその時間と光を、人間ではないこの家の住人は、最も好んでいる。

 しかし、やはり人ではない、この女性の姿をしたモノの気色は、どう見てもすぐれてはいなかった。

「若者は……」

 投げ出した四肢を一寸とも動かさずに、娘に尋ねる。

「学舎にいるのだったな」

「ええ、毎日遅くまで。ご立派なことでございます」

「で、何を学んでいるのだ?」

「さあ、さすがにそれは……奥様は『今学んでいることが無駄だと分かるようになるために学ぶのだ』とおっしゃっておりましたが……」

「奥様……ああ、あいつの母親か。あのエセ験者、おもしろいことを言う」

 娘は笑って相槌を返した。

「では、お前はどうなのだ?」

「はい?」

「お前は狐の身でありながら人の世に交わり、生を営んでいる。それは人というものを学ぶためと聞いたが」

「はい。母は申しました。『お前は狐としての誇りを忘れてはいけないが、人とともに生きる知恵も備える必要がある。人の世でこそ学べることもあろう』と。そのため、母のご友人であられた旦那様、若様のお父上を頼って、あつかましくもこうして生活をともにさせていただいているのです」

「それで、何を学んだのだ?」

 娘は手をとめ、しばらく乏しい光の電燈に向かってふぅむと唸り、

「作れる料理の数が増えましたわ」

 と、電燈より明るい笑顔を湛えて答えた。

「……それがお前の『学(ガク)』か」

「そうでございますね。人間としての当たり前のことが、わたくしが今学ぶべきことだと心得ます」

 そうか、と言って女性はまた黙ってしまった。

 そうなると、やはり聞こえてくるのは、古時計の針の歩みと衣の擦れる音のみ。家主はこういう空間は好きだと言っていたが、果たして真相はわからない。

「昔……」

 女性が、やはり微動だにせぬままつぶやいた。

「昔、わしがまだ人だった頃だが……」

 しかし声の調子が、僅かだが先ほどとは違うことに気づき、娘は手を止め、無意識に姿勢を正した。

「わしの家は、まあ当然のごとくだが、百姓だった。しかし母は聡明な人でな。よく、寝る前に話をしてくれるのだが、毎夜毎夜、異なる話だった。中には異国の話もあった」

 そう語る女性の顔には、とても人間らしい瞳の灯があった。そして、嬉しそうに、こう続けるのだった。

「それぁ、おっかあの作り話だったんかもしれねぇが、それでも、わしはおっかあが話す狐や狸の話や、異国のとんでもねぇ化けもんの話に夢中になったもんだよ」

 目を細めて、家屋の天井ではないどこかを、瞳の奥に映す。人として、一番幸せな時間だった、と。

「今でも覚えている。母が語った、その話の一つ一つを。わしは、娘を幸せな気持ちにする話ができる力を、『学』だと思っている」

 そう言って、少し照れたように横目で傍らの娘を見る。

「ええ、相違ございませんわ」

 娘も答えるように微笑みかけた。

 と、その時、

「ならばならば!」

 その場の和んだ空気を破るけたたましい声が響いた。

「その話を聞かせよ!」

「聞かせよぉ~」

 水干姿の少女が二人、文字通り湧いて出た。

「ええい、騒々しくうっとおしいわい! そんなの忘れてしまったわ!」

 やはり気分を害されたようで、女性も渇を飛ばす。

「今でも覚えていると言ったではないか。聞かせよ聞かせよ!」

「言ったではないかぁ~。聞かせよぉ~」

「お前らなんぞに語るほど覚えてはおらん!」

 もはや本人も何を言っているのかわからないようである。

 しかし少女の方も食い下がる。

「よいではないか。何も減るものではなし」

「何も減らんのぉ~」

「話をすれば腹が減る」

「でしたら……」

 ここで少女たちに心強い助っ人が入った。

「今日は多めに作りましょう。ああ、お鍋でもよいですわねぇ。まだ寒さも抜けておりませんから」

 わたくしもお聞きしたいですわ、と娘は一層輝かしい笑みを湛えた。

 これには女性も負けたらしい。少し顔を引きつらせた後、

「では聞かせてやる。ありがたく神の声を拝聴せよ!」

 そう言って、ソファに座りなおした。

 三匹の聴衆は、心のうちに勝利を祝い、神が紡ぐ言の葉に、耳を傾けるのであった。

「昔昔、あるところに、一人の娘がいた……」

 時刻は半時ばかりが過ぎ、黄昏が夜に変わろうとしていた。

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