第14話 桐の葉・芥子の花
赤い夕陽が、生命の終わりを告げるように、どーんと音を立てて、沈む。
今日の宵闇は、いつもより深く、感じられることだろう。
「
境内の掃き掃除をしていた坊主が、遠い目をしている少女に呼びかける。
「皆様お戻りになられましたよ」
言葉通り、黒い喪服の集団が墓場の方から帰ってきた。
「うん」
少女は視線を遠くの夕陽から逸らすことなく、返事をした。
集団の中の二人が、金色の袈裟を着た白髯の住職にお辞儀をしながら何か言っている。その後、少女の方やってきた。
「篠、終わったよ。帰ろう」
そう言ったのは少女の父であった。
しかし、少女は、その声にも視線を向けず、ただ、
「うん」
と言っただけだった。
「お兄様のお骨はちゃんと納めましたよ。今度は、あなたも墓前に御参りに来ましょうね」
母の言葉にも、ただ、
「うん」
としか答えなかった。
涙は出なかったが、多分、泣いているのだ。少女は自分で、そう思っていた。
とん、と本堂の縁から降りると、父母に向かって言った。
「今日は、ここに泊まってく」
父母はいささかうろたえたが、寺とは親しくしている仲だし、以前にもこういうことはあった。兄と二人で、だが。
父親は坊主の方を見る。
「こちらは構いませんよ」
坊主はにっこりと微笑む。ここの住職の孫にあたる。目元を見ると納得できる。共に目を細めて、観音もかくやという微笑を絶やさぬ人たちだ。
「ああ、それじゃあ、お願いします。篠、迷惑をかけちゃだめだよ」
うん、と、やはり視線を向けることなく答えた。
生暖かい、宵の風が、湯上りの体には涼しく感じる。ただ、快さはない。
5月は、8月と11月に並んで嫌いな月だ。
8月は夏の賑やかさが終わってみんなが帰ってしまうし、11月は畑の木が枝だけになって、誰もいなくなってしまう。
そして5月は、生命が地上で蠢き始める月。むせ返るような、甘い匂いが満ち溢れる。その匂いに息が詰まりそうになる。
ただ、今はそんなまとわりつくような空気も気にならない。
「『春宵一刻値千金』とはよく言ったものですなあ」
坊主が隣にあぐらをかいて座った。
「春の夜は、その一瞬一瞬がこの上なく素晴らしい、という意味ですよ。お月様に照らされる花の香。見事なもんですなあ」
少女は何も答えなかった。坊主の言葉には賛成もできなかったが、春の朝方なら好きかなとも思った。
この寺は、自宅とは違って、何か安心するところがある。
不思議と墓地に恐怖は抱いたことがない。懐かしい人々がいるところ、といった感覚だろうか。死者への恐れもなかった。なかったが、兄がそうなることには耐え難いものがあった。だから、納骨の場面には立ち会えなかった。
とにかくも、ここには家には無いものがあった。いや、家にはあるアレが無い。それで、安心できた。
「ここには、木も花もない」
少女の言葉に、坊主は少しいぶかしげな顔を傾けた。なぜなら、今、二人の目の前には青々とした枝葉を伸ばした梅の木があるからだ。
もっとも、池まである大庭園を持つ、少女の屋敷からすれば、こんなのは無いに等しいのかもしれない。しかし、彼女が言うところはそれではなかったようだ。
「桐の木……兄様が好きだった、桐の木が、ここには無い」
そう言う少女の顔に表情はなかった。
「ああ、そう言えばお宅には立派な桐の木がありましたねえ。そうですか、お兄様のお気に入りでしたか」
「だから、嫌い」
「ははは、なるほど」
坊主の乾いた笑いは闇に消え、代わりに冷たくなった風が吹いた。
「風も冷たくなりましたな。ささ、湯冷めせぬうちに床へお入りください」
そう言って少女を促す。
「あの木に……」
少女はつぶやく。
「あの木に、兄様は魂を抜かれたんだ。とても、とてもお美しい方だったから。きっと、あの木は兄様を欲しがって……だから……」
坊主は言葉が見つからず、仕方なく、無言で少女の手を引いた。
「あのね、私、あの木を切ってもらおうと思うの」
寝床につく際に、少女が言う。
「……そうですか。しかし、お父様はお許しになりますかねぇ。お兄様が好きだった木なのでしょう?」
「うん、でも絶対に切ってもらうの。絶対に。だって、許しておけないもの」
その声は、少女の無邪気さを残しながらも、憎悪に染まった冷たさを含む声だった。
坊主はその声に身震いした。冷や汗まで出そうだ。
「そ、そうですか……そうしたら、ああ……何を、何を植えましょうかねぇ……」
そのとき、少女は今日、いや、兄が死んでから始めて笑みを浮かべた。
「そしたらね、花を植えるの。真っ赤な、真っ赤なお花」
少女は微笑む。まるで、狂喜に満ちた菩薩のように。あどけないが故に残酷で、黒く暗く、けれどそれがために美麗な、黒真珠を彷彿させる……
「血のように真っ赤なお花……芥子の花がいいなあ」
その微笑は、坊主をして恐怖せしめるのに十分だった。
十日後、件の桐の木は切り倒された。
そして少女はその下敷きになって死んだ。
「すうっとな、魅かれるように、倒れる先に進み出たそうな」
葬儀の後、住職は坊主に聞かせた。
「吐かれた血が、まるで、花のようだったというぞ。因果なことよな」
あの夜のことを坊主から聞いていた。それだけに、感じ入るものもあるであろう。
「とても……気の毒なことでした」
「まあ、事実、あの妖怪もどきの樹々が不運の種であったのも確か。これで、あの家族は安心して暮らせるじゃろう」
「そうですね。そのことだけを言えば、そうでしょうね」
坊主は庭にある、梅の木を見つめた。今は当然花はない。しかし、
(あの夜、花でも咲いていれば、何か変わっただろうか)
そんなふうに思い、そしてすぐにそれを否定する。全く根拠が無い、と。
「坊主ができることは、限られていますね」
「ああ、全くじゃ」
その後、一家は屋敷を捨てて、どこへともなく引っ越していった。
持ち主のいなくなった屋敷の庭では、どこから飛んできたのか、大量の彼岸花が咲き誇っていたという。
庭一面を、赤く染め上げて。
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