第5話 狐の面
雨のひたひた降る晩であった。
私が雨戸を閉めていると、
「もし、旦那様」
庭先から声がした。
月も群雲に隠れた夜ゆえ、声はすれども姿は見えぬ。
「どちらさんで?」
私が声をかけると、衣の擦れる音がして、暗闇の中から一人の女が出てきた。
正確に言うと女らしき人物だった。家の明かりにぼんやりと浮かぶ、白い着物と頬かむり。そして、顔には狐の面がかかっていた。傘は手にしていない。
「夜分に失礼いたします。わたくしフジキの社に長年住まうものでございます」
そう言われてもその言葉の意味は、すぐには理解できなかった。
「ああ……藤木さんところの……何か御用でごいすか?」
私は理解できないながらも話をあわせるように、言葉を返した。
「はい。実はこの度、長年棲家としておりました社を引き払うことに相成りました。それで、生前こちらの大旦那様には大変お世話になりましたので、離れる前に一言お礼をと思い、参ったのございます」
そう言って、狐の面の女は、深々と頭を下げた。
つまり、この女性の家は、何処かに引っ越すわけだ。そしてこの土地にいたときに、私の――「生前」と言ったので恐らく――祖父に世話になったというのだろう。祖父はこの地区の、いわゆる筆頭的な存在であり、且つは面倒見の良い人だったので、この地域に住む者は何かと祖父を慕っている。
「そらあそらあ、恐れ入ります。祖父も喜んでおるでがしょう。良ければ上がって線香の一本でもあげてやってくだせえ」
しかし、女は狐の面を左右に振った。
「いえ、それは我らには過ぎたことでございます。代わりと言っては何ですが、どうかこれをお納めください」
そう言って、どこから出したのか、白い包みを差し出した。
「これは、まあ、お守りのようなものでございますが、下手なものよりは験がありましょう。旦那様の家に幸多からんことを、親族共々お祈りしております」
「はあ、それは……かえって恐縮なこって……それじゃ、ありがたく頂戴いたします」
私はその包みを受け取った。真四角にやや近い箱で、大した重みは無かった。
「それでは失礼いたします。誠にありがとうございました」
そう言って、女はまた、もとの闇へと消えていった。
私は雨戸を閉めるのも忘れ、庭の暗闇をしばし、見つめ続けた。何時しか雨音はしなくなっていた。
翌日、このことを土地の古老に伺ってみた。
「いやあ、おめぇさん、そらあトウノギ神社の神さんずらよ」
そのおじいさんは真顔で語った。
「昔な、あの神社の社殿を建てるってとき、おめぇさんの爺さんが、何から何まで準備してくれたぁだよ。一時は簡単なもんでいいじゃねぇけ、てみんなで言っただけんど、あの人は、村の氏神様をそんな風に軽んじてはいかん、ちゅうて、今のようにちゃんとした社にしただぁよ」
祖父がそんなところにまで関与しているとは知らなかった。
「で、そのお守りっちゅうは何ずらね?」
おじいさんの言葉に、私も興味をかきたてられた。
そこで包みを取ると、中からは木箱が現れた。さらにその蓋を開けると、
「うわ……」
「ほお……」
そこには、昨夜見た女と同じ、狐の面があった。
「あそこの神さんはお狐さまだっただな」
おじいさんはニヤリと笑った。
そういえば、最後にみた後姿に、何かふさふさとしたものがちらついていたような、いないような……
その記憶は早くも曖昧になりつつあった。
数日後、トウノギ神社はものの見事につぶれてしまった。
前日に起こった、かなり揺れの激しい地震に、老朽化した社殿は耐えられはしなかったようだ。
(こうゆうことか……)
材木と化した社を目の前にして、私は、言いようのない諦念と敗北感のようなものに見舞われ、脱力気味であった。
――お守りのようなものでございます――
狐面の女の声が、ふと、思い出された。
(でもね……お狐さんだろ……)
ご利益があるのかどうか……
「まあ……下手なものより験はあるら」
自分に言い聞かせるように、声にだした。
その狐の面は、今、我が家の家宝という名誉職についている。
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