第4話 天の叢雲

 とん、とん、と小太鼓でも叩くように、屋根を打つ小さな音が聞こえた。かと思うとそれは瞬く間に勢いを増し、夏の喧騒をかき消す激しい音となった。

 雨だ。

 小川の如き繊細さと、白滝の如き荒々しさを伴い、その夕立は真夏前の猛暑を和らげる。

 庭の紫陽花はその鮮やかな色を取り戻し、野鳥は軒下にて羽を休め、久しぶりの憩いを得ている。

 突然の豪雨がもたらした冷気は、熱気に打ちのめされた生物に活力を与えていた。

「よいお湿りでございますねぇ」

 着物姿の娘が、縁の軒から灰色の空を見上げ、やはり嬉々として声をあげる。

 隣に座る若者も、満足気な表情で、潤った庭を眺める。

「まったくだ。ここ数日はあきれる程に晴れていたからねぇ。まだ真夏どころか梅雨も明けてないのに」

 これでやっと生き返ることができる、と冷気を思いっきり吸い込むように伸びをする。

 彼らにとっても、まさに「恵みの雨」であった。

「あら、でも遠方では晴れ間が……」

 見ると、確かに遠く、山の向こうに目をやれば、雲の隙間から雨の代わりに陽光のベールが降りている。その美麗なる光景に感嘆の言葉を漏らすこともなく、若者は顔をゆがめた。

「ということは、この雨もそう長くは続かないってことかな……」

 嘆きの言葉通り、降り始めの勢いは今は、無い。

 娘も恨めしそうに、遠方の光射す雲間を眺める。所々青空も覗いている。

 天上の灰色はいよいよ白さを増していき、すがすがしい豪響も、今では弱々しい瀬音のよう。

 いたたまれなくなって、晴れ間とは反対の空を眺める。

 すると、

「若様、あれを!」

 娘の先ほど以上に嬉々とした声に、若者は一瞬びくっとしながらも、指差す空を見る。

 雲が移動する方角なのだろうか。こちらの空より雲は重々しく、鈍く、そして黒い。

 その中に、若者は娘の言わんとするものを見つけた。

「ああ、虹だねぇ」

 黒雲を背景に、鮮やかな空の橋は、山と山を結ぶ形で架かっていた。しかもそれはただの虹ではない。

「二匹おりますでしょう。ほら、少し上の空にもう一匹」

 若者は言われたところを凝視する。

「あ、本当だ! すごいなぁ。しかも色の並び順が逆だよ。珍しい……」

 若者は大気の珍現象に感嘆の言葉を漏らしながら、先ほどの娘の言葉に引っかかるものを感じた。

「二匹、て……虹ってそういう風に数えるの?」

「はい、母から教わりました。はっきりと見えるものをコウと言い、その上にうっすらと見える逆向きのものをゲイと言うのだそうです。彼らは竜の一族であり、ゲイはコウの妻であるとも申します。ですから、二匹と」

「へぇ、それは初耳だなぁ。ま、どちらにしても二匹同時に見たことなんて、これが初めてだけど」

「ゲイはいささか恥ずかしがりやなようでございますねぇ。ですが、彼らは幸運を運ぶとも申します。二匹揃った姿を見られたということは、二匹分の幸運が舞い込んでくるということではないでしょうか」

 娘のいささか冗談めいた話に、若者は興味深く耳を傾ける。だからこそ苦笑も浮かぶのだろう。

「何が幸運かと言えば、この雨がもう少し降り続いてくれることが幸運なんだけどねぇ……」

 そう言って真上の天を見上げる。もはや雨は止みそうである。

 若者は諦めのため息を吐いた。

「また、暑くなるだろうねぇ」

「そうでございますねぇ」

 不思議と、二人とも顔がほころんでしまう。

 庭の紫陽花は活力を取り戻し、また、鮮やかな色で庭を彩っていた。

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