科学世界17 少女とライオン

 ああ、ライオンだ。この特徴的なたてがみ、鋭い爪と牙、何もせずとも人を恐れさせるこの威容は、まさに百獣の王ライオン。

 俺は、自分の手にかぶりついているライオンを、じっと見る。――何もせずとも?


「って、これ! しっかり噛まれとるやんけ!」


 思わず、下手な関西弁が出る。感動の再会だが、奈子に構っている場合ではない。

 俺は、噛まれたままの手をぶんぶんと振り回す。


「ああああ! なにこれ? なんでこんな所に? なんでライオン!?」

「なんてこと。こらぁ、やめなさいソラ!」

「え? 俺?」

「あ……」


 奈子に呼び捨てで叱られ、驚いた俺は体を硬直させる。

 ハッ、と気づいたような顔をした奈子は、一つ咳払いをした。


「この子、ソラって名前なんです」


 笑顔の奈子は、そう言った。数瞬の間、辺りを静寂が支配する。俺の手にはまだ、ライオンが噛み付いたままだった。

 随分と遅れて、ミーコが叫ぶ。


「うわ~ん! 夢見君が、ライオンに食べられちゃいましたぁ!」


 ミーコの泣き声に何事かと、屋敷から出てきた姫乃たち。

 最初こそ、俺の手にぶら下がるものを見て怯んだ様子だったが、今は庭に設置したパラソルの下、姫乃と奈子と葵の三人は、楽しげに会話をしていた。


「おかしいなぁ。ソラはいつももっと、おとなしい子なんですけど」

「心配しなくてもいいわ、ソラは頑丈だから。それにきっと、ただの甘噛でしょう」

「ぷぷ。ソラのソラ君への甘噛」


 三人の会話が耳に入り、視線を感じる。一人は、完全に俺を馬鹿にしていた。

 甘噛、ねぇ……俺でなかったら大怪我をしているところだぞ、という言葉は飲み込む。

 このライオンが殺処分されでもすると困る。あの一件の後、ボディガードを少し遠ざけるようになってしまったらしい奈子が側に置く、唯一の護衛だからだ。


「くく……奈子に感謝しろよ、てめえ。それと忘れるな? お前の命は俺が預かっている」


 三人が楽しくお喋りをしている中、俺は少し離れた所で、放し飼いにされたライオンと睨み合っていた。

 念のため、こいつが姫乃たちに向かわないようにと監視を任されているのだが、それがそもそもおかしな話。

 こいつを素手で止められる奴なんて俺くらいだ。だが、まず放し飼いにすべきではないし、個人で飼うものでもない。サーカスか動物園くらいだろう、ライオンを飼っていいのは。


 聞けば、このライオンは子供の時に拾われ、人の手により手厚く育てられてきた、温室育ちのボンボンだ。

 自然界の厳しさなんて知らず、ぬくぬくと育ってきたこいつに、俺は噛まれたことへの怒りをぶつける。


「さっきのあれ、全力だったんだろ? 俺には分かるぜ」

「がるる」


 ニヤリと笑い、俺は続けた。


「はは、見ろよこの手。穴の一つも空いていない。一人で狩りもしたことのないお前の全力はそんなもんだ。どうだ? ちゃんと理解してるか? お前は俺に勝てない」

「がるる」


 俺の小さな声は聞こえないだろうが、姫乃たちの声は、俺に届いていた。


「やだ。ソラ君が、動物に話しかけてる。似合わなーい」

「そんなことはございません。私は、ソラさんの新しい一面を見ることができて幸せです。ああ、人にも動物にも優しいソラさん。素敵です……」

「目を覚ましなさい、奈子。あの男の表情を、もっとよく見て」


 小さく舌打ちをし、ライオンと睨み合うのはやめ立ち上がる。

 今しがた行われていた会話の内容には触れず、俺は奈子に問いかける。


「ゆったりと寛いでいるところ悪いが、そろそろ聞かせてくれ。奈子、お前は何をしにここまで来たんだ?」


 そういえばそうね、と姫乃も奈子に視線を向ける。

 無言で椅子から立ち上がった奈子は、つかつかと俺の隣までやって来たあと、姫乃の方を向き、言った。


「姫乃さん、折り入ってお願いがあります」

「……な、なに?」


 何を言うつもりなのか。若干警戒している様子の姫乃。

 奈子は、そんな姫乃を見て薄く微笑んだあと口を開いた。


「ソラさんを私にください」


 静けさが、辺りに満ちる。

 そんな中、そういうことだったかと納得し、少し微笑んだ俺が続く。


「姫乃、そういうことらしい。短い間だったが世話になった。達者でな」

「何でよ! どういうことなのよ!?」



 ……。



 ヘッドハンティング。つまりはそういうことだろう。

 ヘッドハンティングとは、他社で働く優秀な人材を、自社に引き入れることをいう。

 基本的には、現在よりも高待遇。転職することが当たり前になった現代では、特に思い入れのない会社に勤めている者にとっては、割りとありがたい話だ。


 話を持ちかけられること自体には、悪い気はしないと答える者がほとんどだろう。自身の力を認められているようで嬉しいし、受けるにせよ断るにせよ、選択権は当人にあるのだから。

 そして、それは俺も同様だ。仕事内容も変わらない上、話をくれたのはあの奈子なのだ。俺が同調したのを見て、心底嬉しそうな顔をして腕に抱きついてきた可愛い奈子。

 断る理由がどこにある。例え給料が減ったとしても、俺は奈子を選ぶだろう。


「いや、駄目に決まっているじゃない」


 一度紅茶をすすった姫乃は、落ち着いた口調で否定する。


「姫乃さんの周りには、他にも優秀な方たちがいらっしゃるではないですか。理由を聞かせていただいても?」

「そうだ! ちゃんと理由を言え! 理由を!」


 紅茶の入ったカップをゆっくりとテーブルに戻した姫乃は、俺を睨む。

 なんでソラが、すでに奈子の側に立っているのか分からないのだけど……と、前置きを挟んだあと、姫乃は奈子と視線を合わせる。


「ソラとは二年の契約を結んでいるわ。それにね、変な話とは思うでしょうけど、私はそいつがいなければ学園に通えないのよ」


 そうでしたね。

 最初から分かっていたぞと、うんうん頷く俺には無視をして、姫乃は簡単に説明を始める。

 説明を聞いたあと、むうと唸った奈子は、仕方ありませんねと理解を示した。

 意外とすんなり。とはいえ、俺の腕にはまだくっついたままだったが。


「逆に聞くけど、奈子? あなたは、ソラでないと駄目な理由があるのかしら?」


 大和家にだって、優秀な者達がいるはずよね。姫乃はそう続けた。

 言外に、俺のことも優秀だと言われているようで、なんだか気分がいい。一瞬、頬が綻んだのを葵に見られてしまい、嫌らしい笑みを浮かべた葵に対して、俺はしまったという表情をする。


「確かに、います。数多の要人を護衛してきた熟練者の方や、若くして上級ライセンスをお持ちの方。でも……」

「人を、信じられなくなった? ま、気持ちは分かるけどね」


 姫乃が奈子の言葉を引き取り、奈子は首を縦に振る。


「でも、私はソラさんなら信じられます! 今日再びお会いすることができて、さらに確信を得られました。ソラさんにだけは、不信感を持つことも、恐怖心を感じることもありません。ソラさんが側にいるだけで、私は安心できるのです。私は、ソラさんがいいのです!」


 俺の腕を握る奈子の手に、力が入る。

 今度は、俺が誇らしげな表情をする一方で、姫乃の後ろにいた葵はしょっぱい顔をしていた。

 俺は、握られていないもう片方の手で、奈子の手を上から優しく叩く。――奈子、お前の想いは十分伝わったはずだ。ここまで言われては、さすがに姫乃と言えど、再考の余地が。


「それだけじゃ、認められないわね。私がそいつを手放す理由には足りない」


 余地なんて、あるわけないよな。


「うう、そうですか……」


 きっぱりと断った姫乃に、しゅんと俯く奈子。

 まあ、こればかりは仕方ない……か。俺が奈子を励まそうと、口を開きかけたその瞬間。


「分かりました。簡単な話でないことは、私も最初から予想しておりました」


 顔を上げ、明るい声で話す奈子。

 意外な様子に、俺が内心戸惑っていると。


「というわけですので、私もこのお屋敷に住まわせていただきますね」

「どういうわけ!?」


 姫乃が初めて席を立ち、体を前に乗り出す。


「すでに、姫乃さんのお父様からの許可はいただいております。姫乃さんの通うことになる学園は、実は私と同じところなのです」

「そうなの?」


 それは嬉しいけど、と小さく言いつつ、どこかへ電話をかけ始める姫乃。おそらく、相手は旦那様だろう。

 しかし、これは驚いた。同じ年ぐらいだと思ってはいたが、まさか同じ学園とは……でも、そうだよな。金持ちの令息や令嬢が集まる学園と聞いているし、奈子がいても不自然ではない。


 にわかに慌ただしく動き出した周囲を眺めていた俺の腰に、くるりと振り返った奈子が両手を回してくる。


「ふふ。これからはずっとソラさんと一緒です。よろしくお願いしますね」

「え、ああ。こちらこそよろしくな」


 目まぐるしい展開に置いてけぼりの気分。しかしまあ、俺個人としては大歓迎だ。

 奈子の頭に触れようと腕を伸ばす俺。


「がるる」


 期待感に高揚していた俺の尻に、ライオンが噛み付いていた。


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