LEVEL3 始まりの鐘
科学世界14 穏やかな時間 前
まどろみの中、俺はゆっくりと目を開ける。太陽の日差しがカーテンさえも通り抜け、部屋に光を届けていた。
目を擦った後立ち上がり、ぼうっと光るカーテンを開けると、さらに部屋は明るくなった。朝だ。
「ソラ~」
窓を開け、外の空気が身を撫でる。一つ、深呼吸をした。雲一つない快晴、目線を下げてみれば、屋敷の前をのんびりと散歩している女がいる。
ふと、目が合った俺たちは、互いに小さく会釈をした。
「ソラ~? ソラってばぁ」
何を見るでもなく、ぼんやりと遠くを眺める。ちちち、と小鳥のさえずりまでもが聞こえてきたところで、俺はやっとここ数日の慌ただしい日々からの解放を感じ、穏やかに笑った。
「ん~、よく寝た。なんて気持ちのいい朝――」
「ソ~ラ~!」
「って、さっきからうるせえんだよ! 何だ! ソラソラと! 俺はお空を眺めていたいんだよ」
言いつつ、声のした方へ振り返る。俺の部屋の扉は空いていた。プライベートなんて関係なし。目の前には、この屋敷のマスターキーを持った唯一のお方が立っていた。
「人間、変われば変わるものね~」
姫乃だった。彼女は俺の警護対象者。俺の主人である。
その主人である姫乃様は、溜息を吐き言う。
「はーあ。昔は子犬のような目をして、はいはいと私に尻尾を振ってくれていたのにね」
思い返してみるが、そのような記憶は俺にはない。それに昔って、お前と会ったのは二、三日前だ。まだ若いってのに、こいつはもう……大変だな。
「どんな子犬も、それなりに大きく成長するものだ。人なんかとは、比べ物にならない速さでな。そこに、小動物的な可愛さはなくなってしまうかもしれない。だが、それでも愛情を注ぎ続けるのが、主人の義務ってやつだろ」
そしていつか、頼れる番犬へ。
俺の語りには無視をして、姫乃は口を開く。
「呆れた。あなたのその格好、朝食にこないと思ったら今起きたところなのね」
「違います。ずっと部屋でトレーニングをしておりました。敬愛する主人を、これからも守り抜くために」
「なるほど、一つ発見。ソラが丁寧な言葉を使い始めたら、それは嘘を言っているときなのね」
なんて失礼な。何を根拠に。僕がご主人様であるあなた様に、嘘なんてつくわけないでしょう?
俺はパジャマを脱ぎ捨てつつ、姫乃に問いかける。
「それで、何用だ。こんな朝っぱらから忙しない。しかも、着替え中に入ってくるなんて常識がないのか?」
姫乃は、俺の上半身から下半身にかけ、視線を動かす。動かした視線は俺の股間辺りで止まっていた。――おいおい、あまり見てくれるな。恥ずかしがりなんだ、こいつは。
「あなた、随分と安そうな下着をつけてるわね。いいわ。学園が始まる前に、一緒に買いに行きましょう。そのままだと、私まで侮られちゃうわ」
全然違った。余計なお世話だ。下着なんて普段は見せるものでもないし、何でもいいだろうが。
それとも何か? その学園では下着品評会なるものでも開催されるのか? 男の下着を並べて誰が喜ぶというのか。女性部門はぜひ開催しろ。
「話が逸れたわね。あなたは朝だと思っているようだけど、今はもうお昼前だから。あと、あなたが着替え始めたのは、私が来た後じゃない」
淡々と、俺の粗を責めてくる姫乃。気持ちのいい朝は、とうに終わっていたらしい。
だって仕方ないだろ。昨日は一睡もしていなかったのだから。心の中で、俺は言い訳をする。
「じゃあ、十分後に玄関で」
また、このパターンか。目的も俺の予定も全て無視して、姫乃は時間と場所だけを告げる。
「ちょっと待て、俺は朝にシャワーを浴びるタイプだ。顔を洗って、歯を磨いて……そういや、朝飯も食ってないな。十分では、とてもとても」
どこへ行くのかは聞かず、時間稼ぎだけをしてみる。それはおそらく、姫乃の中ではすでに決まっていることだからだ。姫乃の予定は俺の予定。仕える主人がいる男の悲しい性である。
「朝食を食べられなかったのも、シャワーも浴びられないのも、こんな時間まで寝ていたあなたが悪い。顔を洗って歯を磨くだけだったら、十分でいいよね」
「一本一本の歯を丁寧に磨けって、昔歯医者で教わっ――」
「待ってるから。遅刻したら減給ね」
俺の言葉は遮られ、ピシャリと言い放った姫乃は部屋から出ていった。一人残された室内で、ゴムがゆるゆるだった俺のトランクスは、床に落ちる。
「あら」
開け放たれたドアの向こう。廊下を横切ろうとした使用人が、口に手を当て微笑んだ。
……。
白い無地のボタンダウンシャツに、黒のスラックス。そんな無難な組み合わせを、俺は気に入っている。清潔感もあるし、何より動きやすい。
本日もそのような装いで出かけようとした俺だが、玄関で葵に止められる。服装の趣味が悪かったわけではない。ポケットの中身が出ているようなへまもしていない。
「ソラ君、はいこれ」
渡されたのは、皺のないハンカチと封筒。財布と携帯端末だけを持って出かけるような生活から一変。俺はハンカチを持ち歩くような、一歩上の男に成長していた。この場合は、持ち歩かせられているとも言える。
ハンカチは分かるが、気になったのは封筒だ。中を覗いてみると、一見では数え切れない枚数の万札が綺麗に並んでいた。俺は顔を上げる。
「なにこれ?」
給料? 違うよな。こんなタイミングで、しかも今どき手渡して。俺は訝しげな目を葵に送る。
金が手に入る。それは通常であれば嬉しい場合が多い。しかし、にこりと笑う葵を見て、俺は突き返したい衝動に駆られた。世界は、それほど甘くできてはいないのだ。
「趣味が悪いとは言わない。ただ、これからお嬢様の隣を歩くことになるソラ君には、身なりにも少し気を使ってほしいの」
同じようなものでいいから、そのお金で質の良いものを買ってきて。と、葵は言った。
嘘だろ、という気持ちが最初にきて、お金持ちってすごい、と改めて思う。わざわざ、一護衛のために、まさか本当にただでくれるなんて。
「それはね、お嬢様が……」
「葵」
何かを言いかけた葵が、姫乃に名前を呼ばれ口を閉じる。
そういうことか。疑ってすまなかった。俺は姫乃に感謝をする。
「姫乃、ありがとな」
「別に、私はただ」
恥ずかしそうにそっぽを向いた姫乃。大事に使いなさいよと言って、ぱちっと片目を閉じた葵に、俺は笑顔で頷く。
感謝したのは、お金のことだけではない。これからも俺を側に置くという意思表示、俺を信頼してくれるのだということ、なんとなく認められた気がしたことが、何よりも嬉しかったのだ。
暖かい空気が流れる。
「ソラ君。下着を買うのは忘れちゃだめだよ」
ん? 細めていた目を、俺は開ける。
「見るのはもちろん犯罪だけど、見せるのも犯罪だからね。見たのがミーコでよかったわ。もしもそれが、お嬢様だったらと思うと」
にやにやと嫌らしく笑う葵。葵が言っているのは、おそらく先程のずり落ちたパンツの件。俺は首を振り、周囲を見渡す。
いた。俺と目が合うと、頬を染め恥ずかしげに下を向く使用人が一人。その隣では、こちらの方を伺いつつ、ひそひそと呟いている他の使用人たちの姿が。
「てめえ! ミーコって言ったか? 何広めてんだこらぁ!」
逃げるミーコを、俺は走って追いかける。
「ひぃ。ごめんなさい、ごめんなさい。葵様から、夢見君の弱点になるようなことは逐一報告せよと承っておりまして~。きゃあ!」
転びそうになったミーコの前に先回りし、受け止める。黒幕を知った俺は、ミーコを優しく床におろすと、今度は葵に向かって走った。
「やっぱりお前か、葵! 俺の弱点が何だって? 言ってみろ! なんなら、お前にも同じことをしてやろうか? あん!?」
「やぁん。来ないで~」
いつだって、良い雰囲気を壊すのは葵だ。姫乃が止めに入るまで、俺は葵を追い回し続けていた。
襲われちゃうよ、なんて叫びながら逃げ回る葵のせいで、使用人たちの俺への評価が、一つ下がったことは間違いなかった。
「まずは、病院へ行くわよ」
一騒動の後、車が回してある門へ向かう途中の庭で、背を向けたまま姫乃は言った。
病院? 体調でも悪いのか? と思ったが、違う。俺の怪我を見せに行くつもりなのだろう。一度は、手に穴が空いてしまったからな。だが。
「大丈夫だぞ? そんなに心配しなくても」
「念のためよ。だってあなた――」
「分かった。ありがとう。行くからさ」
姫乃は、こういうところで意外と優しい。俺を思ってのことだ。自身の予定よりも優先してくれているのに、文句を言うのは間違いだろう。
しかし、口に出して言ったように、怪我はおそらく大丈夫だ。あの事件の後、病院に向かった俺たちだが、医者に診てもらう頃にはほとんど治っていた。レベルが上がったおかげだろうが、少なくとも穴は塞がっていたのである。
そのような傷の具合から、銃に撃たれ風穴を空けられました、とは医者には言えず、軽く消毒なんかを済ませ、俺たちは病院を後にした。
あとは感染症なんかが怖いが、今は痛みさえなく、すこぶる快調だ。握力が、少し落ちているくらいか。
車に乗り込む前に、散歩中の女と目が合った。往復してきたのだろう。朝、互いに会釈を交わした女だ。
落ち着いた雰囲気に、清楚なワンピース姿。女がニコリと笑い、俺もニヘラと笑い返す。
「ソラ君は、ああいう娘がタイプなのね」
「へえ、そうなんだ。ふうん」
偶然、目が合っただけなのに。
あらぬ誤解を、招いていた。
その後は、病院に行き、ボディガードライセンスの受け取りに向かった。
やはりというべきか、怪我は大したことなく包帯を巻き直しただけ。包帯を外す際、ついに封印を解いちゃうのねソラ君、と葵が小芝居を挟んできたのが鬱陶しかったくらいだ。
そして、俺は初級ボディガードライセンス試験に、合格という扱いになっていた。特例だが、奈子を助けた功績は大きかった。富豪家と大和家、双方からの打診があったようだ。
「良かったね、ソラ」
「さんきゅ。奈子にも、お礼を言っておかないとな」
「あの娘、大丈夫かな」
不安げな口調で、姫乃は言う。そうなのだ。お礼は言っておきたいが、会ってくれるかどうかは疑問だ。
もう、会わない方がいいのではないか、とも思う。俺に会うことで、辛い記憶を意識させてしまうくらいならば。
未だに使い所の分からないライセンスを受け取った後は、姫乃の買い物に付き合った。言われた通り、持たされた金をふんだんに使って、俺も数着の服を購入した。
できる男である俺は、余った金で姫乃と葵にプレゼントも用意しておいた。お揃いの、瓶の色が違うだけの香水。
「ソラ、ありがとう」
「まさか、ソラ君が、そんなまさか!」
嬉しそうな顔をして瓶の中身を見つめる姫乃と、あからさまに失礼な顔を向けてくる葵に、俺は正直に言う。
「ま、俺は香水臭い女は苦手だけどな」
「何で買ったの!?」
意味はない。ふらふらと寄り、目についたものを買った。使わなくても、部屋に飾っておけるような可愛いやつを選んだつもりだ。気に入らないなら捨てておいてくれ。
最後に、罰ゲームでしか使われないような激辛饅頭を買う。不運な事故が始まりとはいえ、俺を陥れたミーコとかいう使用人へのお土産だ。
一人だけ、自分は何も悪いことをしていないといった顔をして、逃げるつもりだろうがそうはさせない。
「ソラ君。そのお土産はどうやって渡すつもりなの? 私にも一枚噛ませてよ」
「受け取ってはくれるだろうが、目の前で食べて欲しいよな。姫乃に言われれば断れないだろうが、それじゃあ面白くないし」
「うんうん。あ、じゃあこんなのはどう?」
「あなたたちね……ミーコ可哀想」
一番可哀想なのは、あれを見られた俺だろ。
屋敷へと帰る車の中、悪い笑みを浮かべた俺と葵は、共に計画を練った。
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