科学世界13 届く距離
体の制御が効かない。赤や黒ではなく、星空も見えなかった。眼前には、澄み切った青い空が広がっている。
「ソラ!」
そう、俺の名前はソラだ。誰かが叫んだその声に反応し、頭の回転が始まる。
思考する。良かった。まだ、ここだったか。間に合った。体の感覚が追いつき、後ろ足を地面に突き出したあと、力を入れ踏ん張る。
ざざっという音と共に、制御の効かない俺の体はそこで止まった。
「は、はあ?」
銃弾の衝撃にのけ反っていた俺の体は、地面に倒れはしなかった。小さく息を吐くと、間抜けな声を上げていた男を睨む。
「いや……え?」
頭に当たったはず、と小さく呟く男に対して、俺は笑った。突然視界が悪くなり、何だと思ったがすぐに持ち直す。額から、血が流れ落ちてきただけだった。
俺は、手の指でその血を拭う。
「大丈夫。ちゃんと当たっている。ほら見ろ、血も出ている」
べっとりと血のついた指を男に見せる。驚きの表情。俺も驚いた。
手の真ん中には、穴が空いていた。しばし穴を見つめていると、不意に痛みが襲ってくる。――ああああ、そうだった。痛い痛い!
レベルがたくさん上がったはずだが、傷は治っていなかった。魔法世界での俺は、もっとひどい傷が治っていたはずなのに。
そのあたりのさじ加減は、実はよく分かっていないことが多い。こんな怪我をすることなんて、普段はめったにないからだ。
ただ、不公平だとは思わない。記憶だけでしかないが、死んだほうがましだとおもえるほどの苦しみを、向こうの俺は味わった。レベルが上がり、ただのうのうとその恩恵を享受している科学世界の俺に、文句をいう権利なんてないだろう。
「ソラさん?」
奈子の震える声が聞こえ、背後に顔を向けた俺は、にっと笑う。
「大丈夫。かすっただけだ」
手には穴が空いちゃったけどな、という言葉は飲み込む。無駄に不安にさせる必要もない。全てが片付いてからだ。可愛い恋人に心配してもらうのは。――おっと、気が早かったか。
「かすった? ああ、まあ。そりゃあ、そうだよな」
疑念は払えないが、仕方なく納得したといった声色。ひとまず俺は、黙っていたもう一人の安否も気にかける。
「姫乃も、怪我はないか? どこにも当たらなかったか?」
「うん。怪我はないかっていうか……その言葉はそのままそっくり、あなたに返したいのだけれど」
頭から血が出てるわよ、と続ける姫乃に俺は言う。
「問題ない。あとで病院に行く」
「問題あるじゃない! 私にも、安心させるような言葉をかけなさいよ!」
何だよ、わがままな女だな。この、欲しがりさんめ。とは思いつつも、無事でよかったと俺は小さく息を吐く。
正面に視線を戻すと、頬を引き攣らせた男が、再び俺に銃口を向けていた。
「運が良いやつ。だが、状況は何も変わらない」
「変わったさ」
俺は言い返す。変わったさ……あいつが、俺が、死に物狂いで状況を変えてくれた。生きようとしてくれた。
魔法世界での俺は、今までの地道な努力が嘘のように成長した。なのに今、なぜかその実感は薄い。先程までと比べて、大した変化を感じない。体つきもそのままだ。
「は! だったら止めてみろ」
もしかすると、早熟なだけだったのかもしれない。ふと、そう思った。個人の身体能力向上に上限というものがあるとして、科学世界の俺は、その上限に近づいているのではないかと。
いいさ、なんでも。ヒーローになりたかったわけではない。むきむきの筋肉まみれになりたかったわけでもない。護りたいものを、護れる力があればそれでいい。それ以上は望まない。
さっきよりも、少しだけ早くなった。さっきよりも、長い距離を詰められるようになった。さっきは届かなかった一歩が、今は届く。――止めてみろ、だって? 止めてやるよ。
俺は一つ笑うと、地面を蹴った。
声が、聞こえた気がした。
お前はまだ、間に合うのだから――
「ぐうっ」
発砲音。銃弾は空に消えていく。引き金に指がかかった瞬間、男の手首を掴んだ俺は、手首を持ち上げ銃口を上向きに逸していた。
男の悔しそうな声に、にやりと笑う。猶予を与えず銃身を掴んだ俺は、思い切り捻る。
「ぎ! あぎゃああああ」
男の何本かの指は、おかしな方向に曲がった。拳銃を手離し、もう片方の手で指を包み込むようにしていた男は、うめき声を上げつつ、一歩、二歩と後退する。
後ずさり、ついには尻もちをついてしまった男に、俺は拾い上げた拳銃を向けた。
「変わっただろ。さっきよりも、俺は少しだけ強くなったんだ」
「あ、ちょっと、やめ……ストップストップ!」
「いいのか?」
「へ?」
俺の放った一言に、男が気の抜けた声を上げる。
「ソラ! だめよ!」
遅かったか。姫乃の声が聞こえ、男に向けていた拳銃をおろす。楽に死なせてやろうと思ったのによ。
「どういう?」
「死んだほうがましだったかもな。おら!」
顎を蹴り上げると、男はその場に大の字で倒れ、沈黙した。この後、富豪家もしくは大和家に回収されるであろうこいつは、一体どんな目に合わされるのか。きっと、ただでは済まない。
男の将来を憂いていた俺は、たたたっと駆け寄る足音が聞こえ、振り返る。
「おう、終わったぞ。ひめ――」
姫乃。そう言おうとした俺だったが、視界を覆い尽くしていたのは奈子だった。飛びついてきた奈子を、俺は受け止める。
「ソラさん、ソラさん、ソラさん、ソラさん、ソラさん、ソラさん」
「おい、奈子」
俺の腹にぐりぐりと顔を押し付ける奈子。姫乃はまだ少し遠い場所で、ぽかんと口を開けていた。
奈子が顔を上げ、言う。
「すごかったです! その、とっても格好良かったです!」
「え? ああ。そうだろ」
「ええ! ……あ、すみません。私ったら。ご無事ですか? どこか、痛いところはございませんか?」
「無事、かな。でもちょっと手が……」
「手が!? 見せてください!」
奈子を抱きとめていた俺は、服に血がつくのはまずいだろうと思い、浮かせていた手を奈子に見せる。手のある方向、顔を横に向けた奈子は固まった。
「ソラ、さん。これ……ああ」
「おいい!」
ひどい見た目の傷口を見て力が抜けたのか、ふらりと倒れた奈子をもう一度抱き抱える。ここまで、奈子の怒涛のような勢いに押されていた俺は、救援を呼ぶ。
「姫乃! そんなところに突っ立ってないで、早く来てくれ」
唖然と俺たちの方を見ていた姫乃は、俺の声に反応すると口を閉じ、腕を組み背筋を伸ばした。そして、ぷいっと顔を背ける。――は?
「そういえば、お邪魔だったわね、私」
何言ってんだあいつ。溜息を吐いた俺は、おーいおーいと姫乃を呼ぶ。
言っていることは、何となく分かる。こんなにも薄暗く、周囲にたくさんの男共が倒れていなければ、お前は邪魔だっただろう。ただ、時と場合を考えてくれ。
「ふふ。姫乃さんも、ああ言ってくれています。先程、ソラさんが私に言おうとしてくれたことの続きを、聞かせてくれませんか?」
いつの間にか目を開けていた奈子が、俺に向かって微笑む。俺の手がまずいことになっているのは、すでに意識外にでも飛んでいったのだろうか。
先程の続き、か。俺は考えたあと、口を開いた。答えを聞いてみたい気持ちはもちろんあったが、その前に言っておかなければならないことがあった。
「奈子、俺はお前が思っているような男じゃない。臆病で、卑怯な人間だ」
それだけを言うと、奈子から手を離し振り返る。そこには、狐の面をつけ沈黙する男。面には、ひびが入っていた。
薄々は、奈子も気づいていたのかもしれない。あまり話さなかったとは言っていたが、俺なんかよりもよほど長い付き合いだ。
奈子は俺の顔を一度見た後、何も言わず、ゆっくりと男に向かって歩いて行き、面を外した。
「ごめんな」
俺は、気づいていたんだよ。目をそらしていた。本当は、こんなことになる前に、お前を救えたかもしれないんだ。
「ソラさんは、このことを?」
「ああ」
知っていた。聞いたのは、つい数時間前だし偶然だった。でも、関係ない。知ってしまったからには、それ相応の責任がついてまわるもの。加えて、手の届く距離だった。俺には、なんとかできる力があったのだ。
「こんな場所に、こんなにも早く、助けにこられたのはなぜだと思う?」
富豪家の力もある。だが、そうじゃない。
「違う! ソラは何も悪くない! 悪いのは全てこいつらでしょう!」
「姫乃」
振り返り、口元だけに笑みを携えた俺が名前を呼ぶと、姫乃は口を閉じる。悔しそうな表情をする姫乃にありがとうと言い、また奈子の方を向く。
「お前を傷つけたのは俺なんだ。ごめん」
気絶していた男をじっと見ていた奈子は、顔を下へ向け、泣き始めてしまった。しくしくと、小さな泣き声だけが路地に木霊する。
俺は無言で、傷口にハンカチを巻き始める。レベルアップのおかげか、完治こそしなかったが、おそらく見た目よりも重傷ではない。消毒さえしておけば、まあ大丈夫だろう。
「ソラ」
いつの間にか、隣に立っていた姫乃が俺の名前を呼ぶ。
「私がやってあげる」
苦戦していたのを見かねたのか、姫乃が俺のハンカチを一度取り上げる。血がついてしまうぞ、と言ったが、にこりと微笑んだ姫乃は気にすることなく、優しくハンカチを巻いていく。
最後にきゅっと強めに結ばれた時は、少し痛みを感じた。俺が顔を歪めると、姫乃はくすりと笑った。
「奈子、嬉しかった。ありがとう。でも、もう一度よく考えてみてくれ」
聞こえているかは分からない。俺は、泣いている奈子に対して、それだけを言う。
その後は、これといった会話もなく、しばらくしてから富豪家と大和家の関係者が到着した。気絶していた男たちは運び出され、奈子も一緒についていく。
最後に、俺たちの方を振り返り、ぎこちない笑顔で会釈をした奈子。俺と姫乃は、何も言うことはできなかった。
「そりゃあ、ショックだよね」
姫乃が口を開く。迎えにきた富豪家の車、その車内。姫乃の隣には葵が座っている。行き先は、病院だ。
「奈子のことか」
そうだろうな、と俺は相槌を打つ。短くはない時間を共に過ごした、自分を守るはずのボディガードに裏切られた。俺があいつの立場なら、人を信じられなくなるかもしれない。
「ソラは……ううん。大丈夫ね、あなたはきっと」
自身の立場になって想像したのだろう、姫乃は独り言のように呟く。
「お嬢様、ソラ君なら心配いりませんよ。なんてったって、あれがあります」
ぷぷっと、口に手を当て俺の方を見て笑う葵。小さな声で、そもそもそんなことをする度胸もないヘタレでしょうと言ったのは、聞き逃さなかった。
「あ、そうだったわね」
俺が葵を睨むその隣で、何かを思い出し、嬉しそうな表情をする姫乃。
あれって何だ? と、視線を姫乃に戻すと、姫乃はポケットをまさぐり一枚の紙を取り出した。――ああ、それは。
「へへ。ソラは大丈夫よね~。だって、こんなにも……」
「貸せ、おら!」
「あ!」
姫乃が見ていた紙を奪い取る。奪い返しに来る姫乃に対して、俺は太股を上げ、ガードする。
「ソラ君、返しなさい! ていうか今気づいたけど、お嬢様に対してその喋り方! その足!」
「葵! この悪い子におしおきを! 切り刻んで!」
冗談だとは思うが、信じられないことを命令する姫乃。傷を治療するために病院に向かっているのに、新しい傷ができるのはおかしいだろ。
付き添いのこいつらに傷を負わされました、とでも言えばいいのか? 医者もびっくりするわ。治療と同時に警察に通報だよ。
俺は、姫乃を妨害しつつも紙を見る。その紙は、予想通り第一試験の結果通知だった。なぜか俺だけ見ることが許されなかった、ボディガードライセンス第一試験の結果通知。そこには、長々とこう書かれていた。
夢見ソラさん。全問間違っている、と言いたいところですが、この試験に明確な答えはありません。性格に問題がありそうだとも思ったのですが、採点を進めるうち、ある意味徹底的な解答に、試験官である私は気付かされました。感激しました。
どのような状況においても、主人を最優先に考えるあなたは、まさにボディガードの鏡です。あなたの解答は、裏の正解とも呼べるべきもの。特別に、満点としたいと思います。そして、ボディガードとして最大の賛辞を送りましょう。
あなたは、主人が大好きなのですね。誇っていいことですよ、それは。これからもその気持ちを忘れずに、あなたが大好きだと思える、素晴らしいご主人を守ってあげてください。
「……へえ。べた褒めじゃん」
「返して! 返してよ、ソラ!」
死んだような目をしていた俺は、返してと叫ぶ姫乃の前で、結果通知をびりびりに引き裂いた。
「ひどいよ!」
「ああ、ソラ君の貴重な弱点が……」
俺は、紙くずを車内にあったゴミ箱に捨てると、澄んだ表情をする。姫乃には、少し悪いことをしたと思ったが、葵……お前。
「私の宝物にしようと思ったのに!」
「心配ない。来年また受ける」
「それじゃあ、だめなの!」
「まだです。まだ復元できるはず。ソラ君? 富豪家の力をなめないで」
ぷくっと頬を膨らませた姫乃に笑顔を向けつつ、俺はゴミ箱を漁る葵の頭を叩いた。
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