第3話
「え? ……知ってるの?」
見上げると、腰を屈めたマー君の顔がわりと近くにあり、彼はこくりと頷いた。
「だから、とりあえず安心してよ。それから、まずこれをなんとかしてくれないかな。この態勢は俺もちょっときついから」
マー君は自分の足を指差した。私がマー君の片足を自分の方へ引き寄せながらしがみついているせいで、彼は不自然な体勢で動けなくなったいた。
「ごめん。いろいろ想像しちゃって、つい……」
「落ちると思うと怖いよね。俺もこんなとこで事故って明日の朝刊の片隅には載りたくないし」
愉快そうに、ハハッとマー君は軽く笑う。どうしてそういうこと言うのだろう、この人は。思わず、あのときの告白シーンを思い出してしまう。
それから暫く、黙って二人ともエレベーターの壁にもたれて座っていたものの、私はこの床の下のことを考えると冷や汗が出てくる。考えちゃダメだ! かといって前を向いてマー君と目を合わすのも気まずい。
そうだ! 通信端末でもいじっていれば気がまぎれるかも! 美香のノロケ話を聞いてたせいでこんな目に遭ったんだだから、ショートメールでも送って愚痴ってやれ!
そう思い、鞄の中をしばらくかき回してみて思い出した。今日、通信端末を家に置き忘れたことを。
またドッと冷や汗が出た。これじゃあ、外と連絡も取れないし気も紛らわせない!
私は鞄を横に置いて、そわそわしながら、マー君の方を見た。
マー君は耳にイヤホンをしていて何やら音楽を聴いているらしかったけど、すぐに私の視線に気づいてくれた。
邪魔しちゃ悪いかと思ったし、私から話しかけるのも気まづい気がしたけど、でも……
「あ、あの」
以外にも、それはマー君と私の間でほぼ同時に出た言葉だった。
「マー君から、どうぞ」
「いいよ、チーちゃんからで……」
マー君はイヤホンを外して言う。
でも、そう言われても……
宙ぶらりんの床のことを考えると怖くて仕方なくて、おまけに通信端末を家に忘れたせいで気も紛らわせなくて……それで、どうしようとかと、ついマー君に視線で助けを求めてしまったと、どうやってこんな状況で冷静に説明できるだろう。
そんな気まづさに、ふとマー君から目をそらし腕時計に目をやった。
もうすぐ午後二時。今日は短縮授業だった。帰り道、美香のノロケ話を聞かされて少し遅くなってしまった。でも、そのせいでマー君の時間と一致したのか……
「どれぐらい……かかんのかなぁ」
少し考えてやっと出たのがそんな言葉。
「さあ」
ごく短いマー君の即答。
私の印象は、やはりあれ以来良く無いに違いない。
後悔先に立たず。タイムマシーンがあれば前言撤回しに行きたいと思う。私はきっと、少年時代のマー君にとって最大の汚点なんだ。だって、あんなのって半裏切りに近い。いくら、途中から仲が悪くなったとはいえ、あれだけ仲が良かったのだ。マー君の幼少期、私の『大嫌い』の一言がぐちゃぐちゃに壊しちゃったんだ。マー君は何も言わないけど、お腹の中であの時の恨み言を私に向かって浴びせてるんだろうな。いや、もうそんなことさえ忘れてしまったか、どうでもよくなってるかも。もしそれなら、その方がいい。
フッと溜息をついた私の、お腹の虫が不意にクゥ〜と鳴いた。よりによってこんな時に。まるで恥じの上塗りだ。顔が熱い。赤面症の私。顔色に出てないか心配になる。
恥ずかしく思いながらもマー君の方へ視線をやってしまった。
マー君……笑ってる!
ガーン! 今の音聞かれた!
「お腹すいてるんだね」
「………」
こういう時は聞かなかったふりをしろってのっ!
「そういえば、もうお昼過ぎてるしね」
マー君は袈裟がけにした大きめのスポーツバックから、スーパーのビニール袋に入った幕の内弁当と鳥龍茶を取り出した。
「駅前のスーパーで買ったんだけど……食べる?」
「遠慮しとく……」
はい、喜んで……なんて、とても言えない。
「そう。じゃあ俺、食べるよ」
「どうぞ」
パキッ、と割箸を割って、マー君は幕の内弁当を食べ始めた。どうして他人の食べてるものって、あんなに美味しそうに見えるのだろう。
クゥ〜……。まただ。
「ホント、我慢強くなったよね、チーちゃん。小さい頃はいつも俺の食べてる物欲しがってたのに」
昔の話を持ち出すなんて嫌味な奴! それにその言い草って……
「あの時はあの時よ、いつまでも、私あの時のままじゃないもん」
なんてことを勢いまかせに言い放ってしまい、即後悔、プラス自己嫌悪。嫌味なのは私じゃない。
「……やっぱり変わってないや、チーちゃん」
マー君は、ガサゴソとビニール袋をまさぐり、何かを取り出して私に投げた。
私は反射的にそれを受け取ってしまった。
「これ……」
私の手の中にあったのはメロンパンだった。
「やるよ」
「……ありがとう」
受け取ってしまったものを返すわけにもいかないので、私はメロンパンを袋から出して一口噛った。メロンパンなんて何年ぶりに食べたんだろう。懐かしい気がした。
そういえば、マー君はメロンパンが大好きだったんだ。「メロンパンなら毎日食べても飽きない」と言ってたのを思いだした。
「あの、ほんとにいいの! このメロンパンもらってもっ!」
突然私が声を張り上げたので、マー君は食べかけたウインナーを喉に詰まらせた。
「いいも何も……チーちゃん、もう食べてるじゃん」
「それはそうなんだけど……マー君、好きでしょ? メロンパン」
「そりゃ〜、メロンパンなら毎日食べても飽きないぐらい好きだけど」
マー君は言いながら鳥龍茶を一口飲んだ。
「同じこと言ってる」
「え……?」
「小学校の給食にメロンパンが出たときにもそう言ってたわ」
「しょ、小学校?」
まずい、過去のことを私から持ち出してしまった。
「そうか、小学校か……。懐かしいなぁ。あの頃はよかったよね、時間が沢山あったし……」
マー君は、お弁当を食べ終えて「ごちそうさま」と手を合わし、すっかり空になった容器をビニール袋に入れた。
「そういえばさ、俺、小学校の卒業式の日に桜の木の下でチーちゃんにコクっただろ? あれ、覚えてる?」
屈託のない顔でマー君は言う。こんなに早くこの話題が出ると思っていなかった私は、メロンパンを喉に詰まらせてひどく咳ごもってしまった。
「チーちゃん、ほら、これ飲みなよ」
マー君から鳥龍茶を手渡され、私は慌ててそれを飲んだ。
「フゥ……助かった。ありがとう、マー君」
しかし、ちょっと待って。これは……か、間接キス、というやつでは。
「大丈夫?」
「う、うん」
鳥龍茶を返しながら笑ってみた。でも、きっと苦笑いになってると思う。
マー君はこともなげに受け取った鳥龍茶をゴクゴクと全部飲み干した。
あーあ。もう、どうでもよくなってきた。しょせん、どう足掻いてもここは宙づりのエレベーターの中。ムードも何もありゃしない。私は残りのメロンパンを口に放り込んだ。
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