第2話 TVが私の話をしている? 狂気との闘い

その日も、私は当たり前のように『青い』車列の中にいた。恐怖は全く麻痺していなかった。運転さえ正常に行えるかどうか自分でも不安だった。立川の駅ビルに逃げ込んだ所だった。立体駐車場に車を停めようとスロープを上がる。数台、青い車が私を追う。私の車を追い立てるように煽る。駐車場に停まっているのは『青』ばかりではない。少なくともこの近隣の住人まで巻き込んで『青』の世界の中にいるのではない。そう信じた。

『青』の世界はどこまで広がっているのか。悪意はどこまで広がっているのか。その時の私にはそんなことを冷静に考える余裕などなかった。駐車場のスロープを上がり、真後ろまで迫った『青い』車数台から逃げるように駐車スペースを探した。

それまでの私には『青』は好みの色で落ち着く色だった。恐怖に駆られる私には『青』の意味は全く変わっていた。

休日で混んでいたと記憶しているが、どうにか車一台分の駐車スペースを見つけた。一秒でも早く停めろと言わんばかりに車が迫る。何故そんな催促に乗ってしまったのかは今は理解できないが、切迫した私には「停めろ」という重圧に感じられたのだ。私は大急ぎで狭いスペースに車を滑り込ませる。焦った私は黒い高級乗用車に車の後部を軽く擦ってしまった。

こういう失敗こそが「彼ら」(私にはもう『青』の集団は「彼ら」とでも呼ぶべき圧倒的な群れだったのだ)の狙いだ。そう思い私は混乱した頭のまま車を急いで出すと再度駐車すべくハンドルを切り返しバックした。この時私は完全に混乱していた。その証拠に、衝突音が響いた。赤い消火器を収めた、普段の私なら衝突するはずもないボックスを車の後ろで潰していた。

もう駐車する気力もあまり残っていなかったが、駐車する車両の通り道に車を放棄しておくわけにもいかない。私はどうにか狭いスペースに車を停めた。

その時だった。突然、青い車から降りて来た「彼ら」、男二人が慌てたように話しかけて来たのだ。

「大丈夫ですか? 意識が朦朧としていたんですよね? 混乱していたんですよね?」

私を気遣うように「彼ら」は言った。本当に心配しているようにさえ見えた。

支えるように手が差し伸べられ、肩を持たれる。

「きっと混乱しているんですよ」確かにそう言い張れば、免許の資格そのものが停止されるかもしれないが、事故当時「正常な運転が出来る状態ではなかった。正気ではなかった」と主張できる。

その考えは振り払い、「病院に行きましょう」と繰り返す「彼ら」を追いやるように私は保険会社に連絡した。事故記録は残っている筈だ。保険会社に問い合わせれば正確な日時が判明する。何故私は問い合わせないのだろう。まだ怖いのだ。あの記憶自体が現在の私にとって、まだ恐ろしいのだ。

入院などすれば確実に私は統合失調症と判断されただろう。どんな診察を受けどれだけ入院させられるのかも分からない。「私の周りは青い車ばっかりなんです」そう主張する自分の姿を想像すると今でも恐ろしい。

保険会社の対応は異常ではなかった。的確に処理され、警官が現れ、私は事故の報告をして、同じビルの喫茶店に向かった。事故処理はまだ先の話だ。コーヒー一杯千円以上の、比較的高額な店に入った。「彼ら」が簡単には入れないように、とそんな事を考えていた。

喫茶店で席に座る。改めて狂気が迫って来る恐怖が込み上げる。

静かで雰囲気のいい店であることは間違いなかった。だが、ほんの数分後に「彼ら」と識別はできないが、私には明らかに疑わしく思える少女二人が店に入って来た。

場にそぐわない。コーヒーの値段からしてそうだが何でも高価だ。店には中高年の客しかいない。

そして、まだ事故の事で混乱している私に見える位置で、何かを語り始めた。

(この記憶は喪失している)。何だったのかは思い出せないが私を助けようとしているように思えた。

コーヒーを啜りチーズサンドを食べて、私は店を出た。

昼食を摂っていなかった。こんな時でも空腹にはなるのだ。喫茶店から見えていた書店で欲しかった本を買い、目に付いた数冊を加えて私は帰ろうと思った。

再び『青い』車に追われながら私は帰宅した。

当時私はよくTVを見ていた。

ある日、気が付いた。

私がチャンネルを切り替えると「やあ、こっちを見るのか」「あ、こっちか」と名のある司会者がまるで私を見ているかのように語り掛ける。

さすがに信じられなかった。局名は出さないが私は東京に住んでいる。そこで見られる主なチャンネル全てだ。

「彼ら」だ。私は自己防衛の最後の切札を使うことにした。決してその場では意味を汲み取らない。現象学的還元、と言ってもいいだろう。思い込みや予見を全て捨てて、ただ起きていることを見詰め記憶するのだ。(完全な記憶は既に損なわれたけれども)

私は意味から逃亡した。それでも番組の内容を含めて私に関係しているかのように感じられるものが目に付いた。

「赤いボタンを押せばいいんだよ。リモコンに赤いボタン、ここにあるよね、それを押せばいいんだよ」TVの向こうで誰かが言う。そう言われるまで私は録画していなかった。

これが幻覚ではないという最後の証拠になるのかもしれないのに。

私がまだ正気だという砦に成ったかもしれないのに。

それから私は狂ったように(狂っていた可能性もある)録画を始めた。

見終えてからまるで一日中監視されているかのような「彼ら」の言葉に、幾ら現象学的還元をしても私は意味に飲み込まれ、次第に監視されていると確信するようになった。

これは認識として、狂気そのものだ。

そうは分かっていたが、ではどうやってTVの前にいる私の動作を真似られるのか。

何のために。どうやって。誰が。また疑問が私を支配した。

私をどうしたいのか。

煩悶しながら眠る日々が続いた。自分が狂気に蝕まれていく恐怖は耐えがたかった。

私は誘導を受けていたのかも知れない。狂気へ、狂気へと。

私は憑かれたようにTVを見続けた。昼間は手掛かりを求めて放浪し、夜はTVを録画した。その頃、私は自分なりに監視の手段を探っていた。幾ら技術が進歩していても、動力がなければ監視カメラも盗聴器も動かない。可能な限り電気機器のコンセントそのものを外し、さらに壁に付けられたコンセント自体を疑った。照明も取り外し、自分が見えないように暗闇で生活した。

行動としてはもう狂っている。

これは狂人の行動だ。

だが当時の私にはそれが正しかったのだ。ある会話を聞くまでは。

ある夕方、私は両親が「もう入院しかないわね」「次に何かしたら容赦しないからな」と会話しているのを聞いた。

とある放送が私を狂気に取り込んでいた。ごく簡単な手のサインで、1から50までを表すというものだ。私はそっとサインを送り、それは自然にTV番組に影響した。

当時、私はコンセントでは飽き足らずブレーカー自体を落とすようにしていた。

ブレーカーのスイッチは1から12までの番号を附番されている。私は生活に影響しようが構わずブレーカーを切って回った。どれかが監視に関係している。そう信じていた。

信じ込まされていた。

「彼ら」は私を入院させようとしているのか。両親の会話に、私はもう一つ疑問が解けたように思えた。狂っていようといまいと強制的に入院させようとしているのか。

理由は分からない。けれども目的の一つが見えた。

全体像のないこんな判断は狂っている。けれども何の理由もなく異常なことが起きる、それも間断なく。そんなことに耐えられる者もそうはいないだろう。

TV放送に決定的なダメージを受けるのはこの後になる。私はその放送を見て精神的に、死んだ。一時的とはいえ死んだに等しい。

私は狂気にだけは取り込まれまいとし、TVを見続けた。ブレーカーを切るのはやめていた。

自分の日常にまだ当時の狂気が残っているとすれば、私はまだ真っ暗な部屋で夜を過ごすと言う事だ。もう監視されようがされまいが気にしてはいない。

当時を振り返って思い出すことは、さらに恐ろしかったハッキングがその前にあったこと、友人だと思っていた誰もが私とは縁を切ったことだ。

私はある日、自分の大事なファイルのファイル名が変えられていることに気付いた。徹底的にだ。やがてアクセスは出来なくなり、趣味として書いていた小説は全て消えた。失った時間は途方もない。これは『青』がやってくる数年前の出来事だ。同時にファイルは流出したようだが真偽は不明だ。

まだ狂気に取り込まれていなかった私は徹底的に立ち向かおうとした。製品としてのファイアウォールを30万円で買おうとしたのもその頃だ。

友人は(主に高校の先輩だった)私の前でこれ見よがしに私に聞こえないボリュームで噂話をし、離れていった。

電話をかけても「忙しいから」と切られるだけだ。いまだに関係は修復していない。

最も親しいと信じていた友人に電話をしても迷惑そうに、未だに意味の分からない助言を受けただけだ。それから連絡はしていない。

私は完全に孤立していた。『青』がやって来たのはそれからだ。(最も親しい友人との会話は『青』の後だった。これは例外だ)

現在言えることは『青』は祭りのようにやって来たということだ。流行でもしたかのように。

そして「助けよう」「助言しよう」としているように見え、同時に私を入院させようとしていた。

近隣の住民の車が『青い』時点で絶望は深かった。

誰がどこまで何を知っているのか。

ある朝、歯を磨いていた私は「どうせ俺が全部悪いんだよ!」つい、そう叫んだ。

隣家から「そうだよ!」と応答があった。

「彼ら」だ。

翌日、「昨日は済まなかったな!」と謝罪された。何が起きている。狂っているのか。恐怖しか感じない。もはや現象学も無効だった。意味が私を侵食する。

私はただ壊されただけかも知れない。「彼ら」は目的を果たしたのだ。「彼ら」の目的は私を壊し永遠に続く恐怖に閉じ込めること、だけだったと思えば成功している。

影響は家族にも及んでいた。

私は当時、かなりの速度と精度で、ある数が素数であるかどうかを判断できていた。

また『青』の車に囲まれていた時の話だ。(常に囲まれていたのだが)

車のナンバーに素数が多いように思えた。そんなことを考えていれば当然運転に支障が出ることは分かっていながら、私は吸い込まれるように見えるナンバー全てを素数であるかどうか判断し始めていた。センターラインを越えて正面から来たトラックに衝突しそうになったのはその時だ。

私は混乱したまま家に帰った。

TVのある居間に入ると、父がビデオを再生していた。アクション映画の一シーンだろう。車が衝突し、爆発、炎上している場面だった。父は無言のまま、ただそのシーンを見せた。私も無言のまま、「彼ら」が遂に家に侵入したのだと凍るような思いを押し殺して、自室で布団を被った。

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