song of sakura ♪3

 そうして私は何度もその桜の木へ通うようになり、男の歌を聴き続けた。それと並行して私もギターケースをいつも持ち運ぶようになり、男の前で歌を披露して、駅前のストリートでもやったりした。

 なんだか毎日が楽しくなってきているような気がして、悩んでいたのが馬鹿みたいに思えてくる。そうして桜が散る頃になって、再びその場所を訪れると、もう男の姿はなかった。次の日にも足を運んだけれど、もうどこかへ行ってしまったらしかった。

 私は溜息を吐き、お礼ぐらい言っとけば良かったな、とそんなことを考えてしまう。仕方なくその日も帰ろうとした時、ふと坂道を上ってくる一人の女性に気付いた。すらりと細く、モデルかと見間違うような綺麗な肢体をした女性だった。

 彼女はゆっくりと桜並木を見つめながら歩いて、やがてこちらに近づいてきた。私は何だろうと思ってその桜の木の前で立っていたけれど、その女性の顔が暗がりから浮かんだ時、危うく声を上げそうになった。

 はっとするような整った目鼻立ちに、薄く微笑んだ唇、薄く化粧がされた肌……私はその乱れのないショートカットの髪を見て、間違いない、と思った。この人……アーティストの三上麻里子だ。

 何故彼女がこんなところにいるのか、自分の見間違いではないのか、と何度も彼女を凝視してしまったけれど、やはり本人だった。何というか、その姿から放たれるオーラが普通の人とは違うのだ。強烈に印象付ける何かを持っているような気がした。

 私は体が硬直していて動けなかったけれど、彼女はそっとこちらに近づいてきて、桜の木の前に立つと、懐かしいな、とつぶやいた。

 懐かしいな……その言葉に、私の心に予感が舞い込み、ピンときてしまう。もしかして……。

「昔、ここで歌ったのをよく覚えているんだけど、まだ何一つ変わらず残っているのね。少しほっとしたわ」

 彼女はそう言って私へと視線を向けると、「こんにちは」と笑ってみせた。

「こ、こんにち――」

 は、と言おうとして、語尾はうやむやになって消えてしまった。彼女は私の担いだギターケースを見て、「音楽やってるの?」と首を傾げた。

「え、は、はい。歌うのが好きで……」

「この桜の木の下で歌う……これも何かの縁ね。良かったら、私にその歌を聴かせてくれないかしら?」

 三上麻里子の前で歌を披露する? 俄かには信じられなくて、おまけに心臓が胸を突き破りそうで、私は喉を震わせたけれど、一歩前へと踏み出した。

 やろう。私もこの人と同じ道を行きたいんだ。だから――。

 ギターケースを開いてそっと地面に置くと、アコースティックギターを取り出した。そして、ギターストラップを肩にかけて構えた。三上麻里子はそこに佇んだまま微笑んで、じっと私を見つめている。

 最後に私は彼女を見据えて、小さくうなずいてみせた。今できる精一杯の情熱と魂の叫びに身を任せて、歌を響かせていこう。そして、私はギターを弾き始めた。

 跳ねるように途切れる音色の中に、一つの脈動が確かに音を刻み始める。それは徐々に加速していき、そして一気に弾けると、私の声がギターの音色と絡み合って走り始めた。

 草原を走る馬の蹄が聞こえてくるようなアップテンポな曲で、私の声が弾むようにして続くと、三上さんがわずかに目を見開いたのがわかった。私は狂おしいその旋律を途切れることなく続けながら、耳に残るような音楽を意識して歌声を囁き続ける。

 私の声が弾けて、空へと舞い上がると、少し暗くなってきた通学路に熱を含んだ暖かな風が駆け抜けていく。そこに含まれるのは、私の途方もない音楽への熱情と、全身全霊の想いだけだった。

 私は今できる限りの力を三上さんの心にぶつけようと、全力で歌を唄い続けた。やがて静かにアウトロへと移り、ゆっくりとギターから手を下ろすと、三上さんが少し間を置き、私をじっと見つめた。

 その眼差しの中に、わずかに驚きと余韻が揺らいでいるのがわかった。私には、それだけで十分だった。

「ありがとうございました、大した歌ではありませんでしたが……」

 私がそう言うと、三上さんは堰を切ったように大きな拍手をして、「そんなことないわ、素晴らしい本当に!」と興奮した声で語った。

 私は彼女の熱情が心に触れると、顔まで真っ赤になってしまう。本当に信じられなかった。三上さんに聴いてもらえて、それだけでなく褒めてもらえるなんて。

「その歳でここまで歌が唄えるなんて、私には信じられないわ。素晴らしい才能と情熱だと思う」

 三上さんはそう言って近づいてくると、何度も私の歌について繰り返し語った。それは本当に信じられないことで、私は夢うつつのまま、ぼうっとした頭で彼女の言葉を聞いた。

「自分で作曲したの? ここまでくるまで、本当に努力したんじゃないの? 大変な想いをして、それでも乗り越えて地平線の上に立っているのがわかるから。私はその途方もなく大きな情熱に感動したの」

 彼女はそう言って、いつまでも少女のような可憐な笑みを見せた。もう歳は三十を越しているはずなのに、同年代の子のように思えてしまう。

「この桜の木には、どうやら本当に不思議な縁が巡ってくるみたいね。私も昔この桜の木の下で、一人の男の子に会ったのよ。彼は本当に音楽が好きで、ちょっぴりエッチだったけれど、純粋で、私の音楽についてずっと話を聞いてくれたの。あの頃のことが今でも鮮明に思い出せるわ」

 そう言って三上さんは視線を坂の上、そこに瞬く街明かりに向けて、宝石箱を覗いたみたいに嬉しそうな顔をする。そこで私はわかってしまう。彼女が彼と一緒にいるその時間をどれだけ大切にしていたかを。

「私はその子に技術ではなく、本当に人として大切なことを教えようと思ったの。どこにも身寄りがない子だけど、音楽に対する気持ちだけは本物だったわ。だから、あの子の歌には目に見えない力が篭っているはずなのよ。それだけが私の楽しみだったから」

 彼女はそこまで息つく暇もなく胸を弾ませて語ると、少しはっとした顔をして、苦笑した。

「こんな話して、ごめんなさいね。訳分からないものね」

「……いいえ」

 私は大きく首を振った。三上さんはその気持ちをじっと確かめるように、深い眼差しを向けてくる。

「私、あなたの言っていることがわかります。私も同じことをずっと気にしていたから」

「うん、そうね。その子、この桜の木の下で、初めて自分で作った曲を披露してくれたの。その時のことを少し思い出したわ」

 彼女はそう言って、くすりと子供のように笑って私の手を握った。私も微かにその指を握り返す。

「ありがとう、ともう一度だけ言わせてね。それじゃあ」

 彼女は私に軽く手を振って、再び坂道を下っていく。私はギターをぎゅっと握りしめたままそのほっそりとした背中を見つめていたけれど、何か堪えていたものが支えを失い、一気に流れ出した。

「その彼、きっと今でもあなたのことを想っています。絶対、絶対想ってます。それだけは断言できますよ、三上さん」

 私がそうつぶやくと、三上さんはそっと振り返って微笑み、軽く頭を下げた。そして再び前を向いた時、その瞳にきらりと輝く星屑が見えた気がした。彼女がゆっくりと遠ざかっていき、私はその一つの星の道標が消えていくと、空を仰いだ。

 まだ星が瞬くには早すぎる。でも、彼女の瞳の中に、確かにその輝きがある。

 今では、それが私の瞳にも映っている。微かな流星の雫と化して。

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