song of sakura ♪4
そして、私は音楽の道を突き進むことを胸に刻み付けた。その決意だけが私の心を奮い立たせて、絶対に振り落とされてたまるかと歯を食い縛って突き進み、ようやくそのチャンスを手にした。
私の努力がようやく実り、私はアーティストデビューが決まった。それからは勉強どころではなくなってしまった。私は音楽にのめり込んで走り続けるようになり、色々な壁を叩き壊して疲れ果てても前に進まないといけなかった。
ライブを何度も重ね、ようやく知名度が高まってきた頃、私はふとあの男の歌が聞きたくなった。でも、もうそんな願いすらも叶わない。もうあいつがどこに行ったかなんてわかるはずもないし、きっとどこか遠くで女の子達に鼻の下を伸ばしているに違いないのだ。
それはそれで割と救いのある妄想だった。私はキャップを被ってサングラスをして、泊まっていたホテルに近い繁華街で車を停め、駅前をぶらぶら歩くことにした。
ようやくライブが終わって休みが取れたし、その駅周辺ではストリートライブが盛んだということだったので、聴きに来たのだ。未だに私は弾き語りを聴くのが好きで、たまに素性を隠して聴きに来ることがあったのだ。
そうしてゆっくりと繁華街を歩きながらパフォーマー達の姿を探したけれど、駅前広場や公園入口など、色々なところで生演奏をしている人達がいた。さすがに上手い人達が集まっていて、思わず足を止めて聴き入ってしまう。
長い事街中をぶらつきながら散策していたけれど、そこでふとあの男の顔がふっと浮かんだ。何でこんな突然脳裏にあの無精ひげの生えたみっともない顔が浮かんだのか、不思議だった。でも、その懐かしいイントロが聞こえてくると、私の鼓動が大きく跳ね上がった。
その旋律が漏れてくる方へとゆっくりと歩み出していく。その自由に跳ね回るギターの音色、癖のある熱のこもった歌声……まさか、本当に?
そして、私は歩道脇で演奏するその男の姿を見つけた。そのみすぼらしい姿や、ボサボサの髪、すり切れたジーンズなどは全くあの頃と変わっていなかった。変わっていたのは、彼の顎にあった無精ひげが立派な口髭になっていたことだ。
彼はギターをかき鳴らしながら哲学者のように悶々とした顔で気難しそうに歌っていた。皆その男を笑いながら見ているのに、不思議と人垣ができて、立ち去ろうとはしなかった。
男の歌にはまだその中毒になる特徴的な声が健在だったけれど、やはりまだまだ下手糞なままだった。なのに、彼の元には人が集まり、不思議と惹きつける。こうしてプロミュージシャンになった今でも、彼の音楽には小さな憧れのようなものを感じてしまう。
「よし、お前ら、十分楽しんで聴いただろう。ギターケースに遠慮なく札束を放り込んでくれ」
そう言って男が足の先でギターケースを叩いて促すと、途端に観衆は笑い声を上げながら三々五々散っていく。中にはチップを投げてくれる人がいたけれど、それも二人ぐらいのものだった。
すぐにその場には人の気配がすっと掻き消えて、物寂しい雰囲気が広がっていく。私はそこでしばらくじっと佇んでいたけれど、やがて「まだ歌っていたんだね」とつぶやいた。
「ああ? お前、誰だ? グラサンしてっからわかるはずねえだろうが」
男が硬貨をポケットに突っ込みながらギターをケースに仕舞っていると、私はすぐに「ちょっと待って」と言った。
「もう少し弾いてよ。久しぶりに聴きたいんだ」
「だから、お前誰だって聞いてるだろ。もしかして、俺がヤッた後に捨てた奴か? ガキには興味ねえんだよ」
「あんたがあの坂で女の子達のパンツの色を確認していたこと、知ってるんだからね。なんなら、今からこれまでのことを洗いざらい吐き出させても――」
「ああああ! お前、あいつか! あのプロデビューして調子乗ってるあのクソガキか。まだこんなところほっつき歩いていやがったのか。さっさとライブでもなんでもして消えろよ、売れっ子」
言葉は本当に乱暴だったけれど、それでも男の声には微かな暖かさが篭められていた。私はそれがわかって思わず口元を緩めながら、「一つ、聴きたい曲があるんだ」とつぶやいた。
「ああ? 何の曲だよ。俺のレパートリー知らないだろ、お前」
「あの桜の木の下で、女の人に初めて聞かせてあげた曲、ここでやってよ。どんな曲なのか、聞いてみたいんだ」
「ああ? お前、どうしてそんなこと知ってんだよ。というより、そんなの聞いて、どうするんだよ」
「きっと何か、前に進めそうな気がするから」
男はチッと軽く舌打ちをついて、一見嫌そうな顔をしながらもわずかに表情を緩めて「わかったよ、やればいいんだろ」とギターを再び取り出した。
「はい、これ」
私がそっとそれをギターケースに放り投げると、男がぎょっとした顔で振り向いた。
「はあ? お前、なんで俺が弾く前から金入れてんだよ」
「あんたの曲がすごいことはわかってるから。いつチップを投げ入れても別にいいでしょ」
男は視線を逸らして何かぶつぶつつぶやいていたけれど、やがてギターを構え、私をじっと見つめた。
「わかった。やってやるよ、お前の処女膜を突き破ってやらあ」
男はそうつぶやくと、ギターへと手を振り下ろした。
その瞬間、私は確かにあの桜の木の下にいた。そこに舞い散る桜吹雪が、和風の旋律と共に私の周囲を覆い尽くし、体が硬直して鳥肌が立った。
何これ、ギターでこんな旋律を奏でるなんて、どうやっているの?
男がそっと歌い出す。それはあの癖のある、心を絡め取ってしまう異色の声で、メロディと男の声が反発し合い、溶け込み合って、一つの物語を奏でていた。
前向きなのに、どこか妖しくもあり、そしてかつ哀愁を感じさせる懐かしい音色。それが男の指と喉から空気へと震えを伝わらせていた。
私の喉も、指も、心も、いつしか動き始めていた。男の歌声に合わせてわずかに口を動かし、体を軽く揺らせる。
男の魂が尋常じゃない衝撃を伴って私へと伝わってきて、私は思い切り吹き飛ばされそうになる。男はぎらぎらと輝く瞳を都会の濁った虚空へと突き刺して、時に荒く、時に甘えるような優しさを篭めて歌い続けた。
その曲は、確かに誰かに向けて歌われたものだった。それが都会の無機質な高層ビルのずっと向こうにある、いつか彼女と繋がるその地平線へと向けられていることを、私は全身に感じていた。スローテンポなのに、メロディの一つ一つがはっきりしていて、聴く者の心のすぐ横に寄り添う慈しみに満ちていた。
それは確かに私が今までずっと探し続けていたものだった。プロになった今も、追い求めているその憧憬は、男の紡ぎ出すその世界の中にあった。私の喉が熱くなり、私は咳をしたくても吐息を呑み干して、ひたすら聴き入った。
やがて男のギターだけが走り、ゆっくりと上下しながら消えていくと、私は往来に響き渡るほどの大きな拍手を送った。
「本当に、すごい! あんた、やっぱり歌巧いよ」
「お前もそれに拘るなあ、本当に。まあ確かにお前がそこまで言うんだから、俺の歌は巧いだろうさ」
男はそう言って苦笑し、ギターを今度こそケースへと仕舞った。
「今の曲、何て言う曲なの?」
「そんなのお前に言う義理はねえ。ほら、プロはこんなところで素人の歌聴いてないで、さっさと金稼げよ、コラ」
男が立ち上がろうとしたところで、私はその前へとすっと身を乗り出し、あのさ、と声を張り上げた。
「ああ? なんだ? この後、一発やろうってか?」
「その曲、私も弾くようにしていいかな? その歌を唄っていれば、あんたの心の奥深くに巣食う何かがわかるような気がする」
「勝手にしろよ。もう誰にも聞かれることのない歌だからな」
歩き出そうとする男の肩をつかみ、それは違うよ、とつぶやいた。
「あんたが想っているあの人は、まだ同じようにあんたのことを想っているんだよ。忘れてなんかいない。今も音楽を通してあんたと繋がってる」
そこで男が勢い良く振り向き、何かを言いかけたけれど、すぐに舌打ちをついてそっぽを向いた。
「あいつはもう、俺のことなんか忘れてるよ。お前みたいにいちいち俺を気にしてられる余裕がある奴なんていねえよ。こんなアマチュアをよ」
「あの人はあんたといた時間があったから、これまでやって来れたんだよ。あんたは自分で思ってる以上に、その人に大切に想われている。そのことを認めることも、あの人への恩返しだよ」
「お前――」
男は目を見開いて私を驚いたように見つめていたけれど、やがて何かに気付いたように再び前を向いた。そして、少しだけ優しい笑みを浮かべて、そうか、と小さくつぶやいた。
「お前、そういうことにしておくか。俺はふらふらとまだストリートほっつき歩いているけど、お前は違うだろ。何千何万人に歌を届けることができるんだから、お前は胸を張って、自分のそのままの声をぶつけてやれ。処女だってこんなに色気出せるんだぞって踏ん張れよ、ガキ」
私はその時だけは男の横っ面を引っ叩いたりしなかった。そうだね、と笑い、そこで男が歩いていくのを見守る。
男はよろよろと左右によろけながら、がに股でみっともなくストリートを進んでいく。その擦り切れたジーンズも、汗臭いTシャツも、男のその空気を纏って少しだけ――ほんの少しだけ、カッコよく見えた。私はふっと微笑み、サングラスを外した。
「あ、そうだ、一つ言い忘れたことがある」
男が足を止め、ゆっくりと振り向いた。その顔には、意地悪な下卑た笑いが浮かんでいた。
「お前の歌からすごく想いが伝わってきたよ。案外お前の探していたものは、お前の中にあったのかもな」
そんな言葉を吐き捨てると、男は軽く手を上げてその場所から去っていった。ゆっくりとそのぺたぺたという足音が遠ざかると、彼が見つめていた高層ビルのずっと先、宵闇に沈んだ地平線を見遣る。
私の探していたものは、探していなくても、もうすぐ目の前にあったものなんだ。
すぐそこにある。案外真実は、すぐ側にあるのかもしれない。
そう思って、なんてな、と私は男の口調を真似てつぶやいた。
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