もう時期死ぬワガママ娘

 人は死を迎えれば、すべてが終わる。そう思う……。

 誰しもがそう思っているだろう。

 でも、実際は違っていた。


 俺は俺の生涯、一番大切だと思う人を2人も失っている。

 お袋、そして石見下まゆみ。


 二人は俺に最後の別れを言わずに、あっという間にこの世を去り。俺の前からその姿を消し去った。

 確かに、二人の人生はそこで終わってしまっただろう。だが二人の想いはしっかりと、俺の心の中に今も生き続けている。


 お袋は最後に本当に、自分が俺に捧げることができる。最高の笑顔を俺に残し旅立った。そして、あのお袋の笑顔は、石見下まゆみという俺にとってかけがえのない、女性にめぐり合わせてくれた。


 まゆみは、自分が持ち得るすべてを、あともうわずかしかないと悟った時間の中で、出来ることをまるで、旅立つ前の心残りを俺に告げるがごとく。あのノートを残していったのかもしれない。


 そのまゆみの残したノートは、今や俺の人生の糧となり。そしていつも俺の隣にはあの、くったくのない笑顔をしたまま、まるでまゆみが寄り添ってくれているように思わせてくれる。


 大切な人がこの世を去るということは、残された側にとっては我が身を切り刻むより心が、そして精神の痛みを感じずにいられない。しかし、その大切な人がこの世を去った時に、残された想いはずっと心の中に生き続けて行く。


 まゆみが搬送され、この俺の前でその息を引取った時、俺はその事だけにとらわれ、自分に課せられたまゆみの思いに、気が付くことさえできない状態だった。


 なぜ、まゆみは俺にあのノートを託したのか……。


 初めは、まだ駆け出しの外科医の俺のためを思い、作りあげ、残してくれたもだと思っていた。だが、それは俺の勝手な思い込みにしか過ぎなかった。


 まゆみが、あのノートを残してくれた本当の理由……。

 それに気が付かせてくれたのが、あの特別室のベッドで自分の迎えうつ死という現実を、秒単位で受け止めていた少女。


 そう秋島まどかだった。彼女から俺は、まゆみが残してくれたノートの、本当の意味を知ることができた。


 俺は秋島まどかに出会うために、城環越からあの市病院へ向かわされたのだろう。




「た・な・べ・先生」


 特別室のドアを開けるな否や、秋島まどかは意味ありげに俺の名を、しかもくりっとしたあの瞳で見つめながら呼ぶようになった。


「あのさぁ、まどかちゃん。お願いだから俺のこと呼ぶとき、一文字づつ区切って呼ぶのやめようよ」


「あらどうして、いいじゃない。私がどう呼ぼうと、勝手じゃないの?」

「いや、……な、何となくさぁ、恥ずかしいんだよね。一文字づつ区切られると」

「ふーぅん、そうなんだ。もしかして、前にもそうやって、呼ばれたことあるからそうなんじゃないの?」


「え――っと」

 俺はその問いを、はぐらかそうとしたが。


「わかった。事故でなくなった彼女さんが、そう呼んでいたんでしょ」

 彼女の胸に、聴診器を当てようとした手が一瞬止まった。


 まゆみもよく俺の事を呼ぶとき「た・な・べ・君」なんて、呼んでいたのを思い出した。


 俺の手が一瞬止まったのを、彼女は見逃さなかった。


「図星! 当たちゃったのね」

「まぁね」

「ふーん、そっかぁ。私と同じように、呼ぶ人前にいたんだぁ」


 俺には彼女が何を意味して、そんなことを言っているのか、その時は気にも……いや分からないと言うべきだろう。

 今思えばかなり鈍感だった。

 彼女にしてみれば、俺の存在は物凄く特別な存在になっていたんだということを………。


 かと思えば!!


「遅い! 田辺! 今、何時だと思ってんのよ! あんたはちゃんと、いつも決まった時間に、私の所に来なきゃダメなの!」


 かなり機嫌悪し。……の時もしばしば。


 だがそんなとき、彼女は物凄く自分の気持ちに向き合うのに、力を注いでいる時だということを俺は知る。

 もうじき自分は死ぬ。たとえドナー待ちの状態であっても、現順位は第3位。


 仮に移植ネットワークに心臓が移管されても、適応できる範囲もある。しかも毎日のように日常的に、ドナーが発生するわけでもない。


 まして、今の彼女の状態は、一刻の猶予もない状態であることは変わりはない。

 今、彼女の心臓がまだ動いていること自体、奇跡に近い状態でもあるのだから……。


 そして彼女が機嫌悪いあと、必ず容体は悪化する。

 そのたびに俺は、いち早く彼女の元に駆け付ける。


 胸が締め付けられるように痛みが走り、自呼吸も弱くなる。


 もうだめか! 三浦医師や父親である松村病院長も、深刻な表情を隠し切れないでいる。

 でも彼女はそんな時でも。


「何みんな、そんなに深刻な顔してんの?」


 と、酸素マスクをしながら、虚ろな目で俺たちをみつめ。自分はこんなの普通だよ。と言いかけるように、俺たちに向かい言い放つ。


 俺はそんな彼女に

「ご、ごめん……」とだけしか、言ってやることができなかった。


 彼女、秋島まどかを担当して、早くも3か月の月日がながれていた。

 その間移植ネットワークに、ドナー提供者より心臓が移管された連絡を受ける。

 だが彼女には該当せず、他の患者へその心臓は提供された。


 それにより秋島まどかの移植ネットワークでの移植順位は、第3位から第2位へと1ランク上がったが、状況的には、何の変りもしないことを意味している。


 死を見つめ、その死に向かい、時を刻み自分の姿と、その存在を確かめるように秋島まどかは毎日を過ごしている。


 そんな彼女が唯一心を開いてくれているのが、俺であることを秋島まどかが口にしたことがあった。


 その日は日常勤務が終わった後、彼女の特別室に顔をのぞかせた時だった。


「どうしたの田辺先生、もうあなたの勤務時間終わったんじゃないの?」

「まぁね、ここでの仕事もだいぶ慣れたから、少し余裕も出たんで、まどかちゃんの顔でも見てから帰ろかなって思ってね」


「あら、随分と私の事心配してるじゃない?」


「そりゃそうさ、何せこの病院のお姫さまなんだからな」

「お姫様ねぇ、本当はそんなことこれっぽっちも思っていないくせに。ただのもう時期死ぬ、ワガママ娘にしか思っていないくせに!」


「そんなことはないよ。まどかちゃんはすごいと思う。しっかりと自分の病気に向き合い、それに恐れを出さず、周りのみんなに物凄く気遣いをしてくれる、いい子だと俺は思っているよ」


「ほんとうに?」

「ああ、保証するよ」

「じゃ、私のこの心臓直してよ」


「……んっ」


 さらりとこんなこと言う彼女に、俺はすでに押され気味。


「あはは、田辺先生困った顔している」

「ご、ごめん」

「謝るの?」


「今の俺の技量じゃ、まどかちゃんの心臓を直すことは、悔しいけどできない」

「心臓移植の経験は?」

「あるわけないだろ……。まだ駆け出しの外科医なんだから、第一助手につく事すら難しいよ」


「でも勉強はしてるんでしょ」

「まぁね、経験としてはないけど、術式のいくつかはノートに書かれていたから、目は通しているけど」


「ノート?」

 俺は思わず、まゆみのノートの事を口に出してしまった。


「ねぇ、ノートって何? 田辺先生が自分でまとめたノート? でも変ねぇ。目は通したからなんて言わないわよね。自分で書いたノートだったら」


 鋭いところをつく子だ。俺は仕方なくまゆみのあのノートをカバンから取り出し、一冊を彼女に渡した。


「このノートは亡くなった俺の彼女……。大切な人が、俺のこれからのために残してくれたものなんだ」


 彼女はそのノートを見開き、中に書かれていることを食い入るように読み始めた。


「まどかちゃんには、難しいかのしれないな。医療用の専門用語がほとんどだし、主に外科的処置についての事がメインだけど。内科的な所見や、治療なんかにもまたがっているからね」


「ちょっと黙っててくれる!」


 秋島まどかは、まゆみが記載したノートの内容が手に取るかの様に、読みあさっている。

 彼女には医学の知識があるのかもしれない。それも彼女の年では得ることができないほどの、豊富な知識があの頭脳の中に刻み込まれているように思えた。


「すごいよ、このノートに書かれていること。物凄くわかりやっすくて、しかも幅広く応用が利くように工夫されている。多分物凄い量の論文や、専門の医学書を網羅していると思う」


「こりゃまいったな。医師免許を持つ医者より詳しそうだね」


「そりゃそうでしょ。ただベッドで寝ているだけの生活だもん。それに自分の病気について調べたかったから、いろんな医学書も読んだし、ネットでも検索してるし。論文や、臨床のデータも調べたわ。自分の事なんだから」


 そして、最後のページに書かれていた、名前を彼女が目にしたとき。

 秋島まどかは、俺の瞳をしっかりと見つめ。


「田辺先生……ううん、田辺光一さん。このノートを残した彼女さんの本当の意味」


『あなたは……知ってるの?』


 その言葉の後、秋島まどかは発作を発症させた。

 今までで一番重篤な発作を……。


 それからだった、俺は病院に泊まり込むようになったのは……。


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