面影
「命を粗末にする人って許せないんでしょ……未だに」
「そして姉さんを救えなかった自分にも……」
この声が何度もこだまする。
忘れかけていたあの光景。そしてあの時の最後の言葉……。
俺は今、高度救命救急センターに勤務をしている医師。
毎日搬送されてくる患者の命を見極めなければならない。
それがどんな状況下に置かれていても……。
先生、またそんな所で寝ているんですか。
早朝、夜勤勤務の看護師が長椅子に横たわる俺に向かって言う。
「ああ、おはよう」
「おはようございます。今日もずっと病院にいらっしゃたんですか?」
「まぁな」
「ちゃんとご自宅に帰られています?」
「ああ、たまにな」
何となくさえない頭の中を
家かぁ、もう5日は帰っていない。
当直でもないのに俺は、救命のカンファ室の長椅子で横たわることが多い。
忙しいからか?
暇な仕事ではない事は確かだ。だが、レジデント時代の時の様に寝る間がないほど忙しいわけでもない。
現に今、俺のチームにはフェローが3人在籍している。
といっても俺もフェローとして勤務していたのは、ほんの数年前のことだ。
いわば今は部長とフェロー達の、中間地点といったところだろうか。
いや部長よりも、その部下の専門医たちとの狭間にいると言った方がいいだろう。
まぁ、上には上がある。
ここは大学病院、教授と呼ばれる雲の上の存在もいる。でも、俺にとっては目にする事、気に留める事さえない人たちだ。
つまり俺は大学病院での出世レースから早々とリタイアしたのだ。
ならばなぜ、大学病院という一見お役所じみた、階級出世ありきの病院にいるのだろう。
出世レースという流れから外れている俺は、この環境に踏みとどまる必要性はないはずだ。
市営医療機関でも十分俺の居場所は保たれるはずだ。
そう保たれるはずだ……。
その答えは単純な事。
俺は俺というカラーでいられる、この環境がいいからいるだけの事。大学病院というのは、ある鉄則さえ守っていれば誰も何も言わない。意外と自由に動けるからだ。
俺はただ、目の前にある消えかかっている命を、吹き返らせる事に、己を投じたいだけだからだ。
だがそんな俺にメスを入れた始めたのは、あの「屋上の自殺少女」と共に来た彼女だった。
カンファ室の隣にあるICUで、昨日処置をした少女の様子を見る。
バイタルも昨日よりは幾分安定しているようだ。
だが、まだ意識は戻っていない。
「おはようございます、
振り向く声に目を向けると、そこにはER執務部長の
「また病院にお泊りでしたか」
「ええ、まぁ」
部長との朝の会話、いつもこんな感じだ。
でも今日はちょっと違う。
部長の横には理都子が一歩引いて立っていたからだ。
彼女の存在からわざと目線を逸らすと、それを感じ取ったかのように「ああ、今日からうちのチームに加わる医師ですよ。教授からはお聞きしています。お知り合いだったようで……」
「まぁ知り合いと言うほどでもありませんけど」
わざと牽制球を送る。
理都子はそれを聞いても顔色一つ変えなかった。
ふぅ、と部長はため息をつき。
「それではカンファ室で皆さんにご紹介いたしますか。ではこちらに
彼女は何も言わす部長の後で軽く会釈をして。
「本日よりこちらの救命センターで、勤務することになりました石見下理都子です。よろしくお願いいたします」
相変わらずだな。まるっきり変わってやしない。
あの頃と……
彼女は
成績は常にトップクラス。レジデント時代は同じ大学で研修を積んだ。その後彼女は脳外の道を歩み、俺は総合外科の道を歩んだ。
最後に彼女と出会ったのは、彼女がアメリカの大学に移籍する1年前の事だった。
そう、彼女の姉。まゆみの葬式の時が最後だった。
|石見下まゆみ。
俺の指導医でもある上級医。
そして……。
あの理都子の顔を見ると、まゆみの面影を否が応でもよみがえらせてしまう。
姉妹と言うのは、今の俺にとっては物ぐるしい存在だ。
……もう十分に時間と言う経過は過ぎたはずなのに、いまだに俺の心は閉ざされたままだ。
「さぁ今日も張り切って、いきましょう!!」
尾形部長の拍子抜けた掛け声に。
「暇な日でありますように!!」と中岡が祈るように言う。
確かに俺たちが忙しいのは、実際好ましくはないことだ。
しかし現実はそうはいかなかった。
今日朝一番目のエマージェンシーコールが鳴り響いた。
「はい
高速道にて車27台を巻き込んだ多重事故発生。
負傷者多数、30人を超えている模様。
現場現状詳細はまだ把握できていません。
そちらでの搬送受け入れも視野に入れています。受け入れは可能でしょうか。
コールを受け取ったフェローの中岡が俺の目線に訴える。
「受け入れろ」つかさず俺は中岡に返した。
「解りました。受け入れます」
了解しました。詳細は追ってご連絡いたします。
コールは切れた。
「何名来るかわからん。まずは受け入れ態勢だ」
スタッフに緊張が走る。
「すいませんねぇ石見下先生。赴任そうそうこんな状態で!」
「いえ、大丈夫です」
石見下が返した返事に、部長が付け加えるように。
「お手柔らかにお願いしますよ。田辺先生」
わざと意味ありげに言うところが、気に食わない。
再度、コールが鳴った。
こちら北部消防レスキュー
高速道において発生いたしました事故についての詳細です。
負傷者暫定50名。内高速バス2台の乗客を含みます。現在北部救命センターのドクターによりトリアージが行われています。
最重症者についてはドクターヘリで北部救命センターに搬送していますが、受け入れ限界の模様。
これからそちらにヘリでの搬送をいたしますので、お願いいたします。尚、軽傷者につきましては、隣接の市病院等に順次搬送中です。
「こちら城環越救命、現在受け入れ体制には問題ありません。最重症者を優先搬送願います」
了解しました。
このように重大な事故により、多数の負傷者が発生した場合、高度救命救急医療の施設を有するうちと、北部救命センター大学病院は常に連携を取り合う。
むこうはドクターヘリと言う医師の緊急デリバリーを行なっているが、ここ城環越救命センターでは行っていない。
我々は常にここでの受け入れ態勢に、全力をつぎ込むスタンスだ。
「部長、コード9の発令を」
この大学病院では業務コールのナンバーを設定している。
コード7からコード11までの5分割。
コードの数が増せばその重要性は高くなる。ただし特別コード4は患者の急変を意味し、時には「ブルー」と言う事もある。
コード9、最終コードの2つ手前。
これは全医療科医員の招集を意味し、オペ室の確保及び、造影検査科等の優先順位の変更を意味する。
ちなみに、最終コード11が発令されたのは、あの東日本大震災の時だった。
俺がまだ北部医科大学に在籍していたころ、許容キャパをはるかに超え、尚も負傷者が担ぎ込まれてきた状況だった。
もっとも、あの当時は北部もここも、みな同じ状況だった事は言うまでもない。
「これは忙しくなりそうですね。教授に連絡をいたしませんと……」
「やれやれ、ようやく休めると思ったのに」
当直明けの救命医、
「救命の宿命ですよ先生」
ぼやく笹西に救命ナースの
「仕方がないか」
仁科の声を耳にしたかどうかは判らないが、笹西は腹を括った様だ。
事故現場からここまでの距離を考えれば、そろそろヘリがヘリポートに到着する頃だろう。
まして北部がパンクしている状況を考慮すれば、陸路からも搬送は行われるはずだ。
コード9を発令したが、現状動ける医師の数は限られていた。
まずは最重症者が搬送されるヘリポートに、俺とナースの仁科が向かい、救急車の搬送口に、笹西とフェローの高坂を待機させようとした時。
またエマージェンシーコールが高らかと処置室に鳴り響いた。
こちら北部消防レスキュー
15歳男性、野球練習中にボールが左側頭部に直撃……。
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