ドアを閉じる

 あの施設に満ちた薬品の匂い。あらゆる記号の中で、人間は匂いに関する無意識下の記憶を長く覚えているもの。

受動的な記号の内容は曖昧模糊として定まらない。正しい記憶にしてみれば記憶の迷乱かもしれない。

この部屋の匂いをそんな風に曖昧に覚えていたから、この部屋に戻る前にこの部屋にいるだろうと自覚した。

扉に人間の頭程の穴が開いている、以前は見なかった、その扉を囲むようにして額縁みたいに直線が100本も引かれていた。これも見たことがない。

菜子は気がついたらこの部屋に戻されていた。あのプリントもさっき落としたらしい。例の小瓶は部屋の壁際に行儀よく置いてある。

小さな貝殻を踏みつけるように小瓶を潰したら、パリッと小さな音を立てて潰れるだろう。

そうして目に見えない海が部屋に溢れて菜子は溺れ死ぬに違いない。徐に小瓶を手に取りラベルを剥がすとツヤのある透明な剥き身が出た。

小瓶に陽が差し込んで輝点を映している。そういえば太陽の位置はさっきより僅かに傾いている。

誰かが会話する声が壁の向こうから聞える。

「男の背中に癒着したこどもキマイラの切除成功……。やあ実に偉い立派だ凄い感心した」

「でもね、僕なんぞはダイスの目を数えて振らないよ……。これは僕が知的好奇心旺盛と言えるかな」

「実にバカバカしい」

「でもね、僕のは運命のダイスだよ。僕の恋人が待っているんだ。そして君は100年前の新聞を読んでいるんだよ」

「お前の石ころはたった6g。こどもキマイラは60kgもある。君見たことあるかい」

「それは興味ないかな。(互いに黙る)……つまりお互い様ってことです。

 第一キマイラは空想上の生き物であって現実に存在しないわけですし(おすし)」

「君の恋人なんておいらは知らないけどね。実は存在しなかったりして。だけどキマイラは……」

「あ時間(の無駄)だ……。だから。ええ。ではさよなら」

椅子の音から、靴の音、ドアの音が順番待ちしていた。いなくなった方は以前聞いた男の人の声と同じだ。

小さな、机をコツコツと叩く音と何かを擦る音がする。どうやらペンで書き物をしているらしい。

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