本日のお勤め
「ご領主様。金延様。ご政務にお戻りいただければ幸いかと存じ上げます」
嗄れた声が畦から聞こえる。子供のような姿をした髭を蓄えた老人が両手を揃え軽く礼をする。
カネノブという名前は彼等の口からは微妙に発音がしにくいらしく、カナニャブと聞こえるが、他はおよそ日本語と聞こえないこともない。
少し真面目に目を向ければ髭の老人ではなく、ムクイヌのような姿をしていた。
「そちらではどれくらい経った」
初めて見たとき聞いたときには驚いたが、流石にもう慣れた。
「およそ十日というところでしょうか」
直立したムクイヌは曖昧に答えた。
「時差がわかりにくいな。昨日はふたつきくらいだったろう」
「あいすみませぬが、誠に畏れ多いことながら神理に触れる身ではございませぬ故に」
見苦しくならないように気を配りながらもムクイヌは言い訳をした。
「まぁ、いいさ。うちの納屋が常若の国に繋がっていようと常春の国に繋がっていようと、ボクが出来ることがあるなら退屈しのぎにそれを為すのは吝かじゃない」
「誠に大御心。臣下一同敬服しております」
「ではゆこうか」
「参りましょう」
潰れかけ屋根の破れたそこだけ手を入れられた戸口。その奥には元の色が白塗りだか土壁だか見分けがつかなくなっている土蔵と云うには微妙な大きさの蔵がある。
奇妙に艶のある朱と艶のない黒い粗目の肌をした材質不明の金縁の大扉の圧倒的な質量感は全くため息をつくほかない。
似た作りと云えば母屋の仏間が似てはいる。
戸口に立てられた猟銃と日本刀を無造作に束ねて肩にかける。
「ああ。戸締まりを忘れた」
金延は勝手口から家に入り、雨戸を閉めあちこちの戸締まりをして電気を消して仏間の蝋燭と線香の火が消えていることを確かめ、仏壇の戸を閉める。
知らなければ黒い作りの立派な戸棚のようにも見える仏壇は黒く磨かれた黒檀の表面を螺鈿と丹が秋のぶどうの実りを示すように飾っていた。
都会に出て今になればこの仏間の価値はわかるが、金額に出来るほど相場は知らなかった。
まぁ、とてつもなく価値のあるお宝ではあったが、これだけの細工物を誰かに売れる伝手があるわけでもない。
もちろん中に収まっている観音像だか薬師像だか仏像だかと、三つ揃えている家なぞというものがどういう意味を持っているかと云えば、まぁ要するに何やら凄い、ということで一応考えを止めておかないといけない。
「ご領主様、畏れ多いことながらお急ぎいただけますようお願い致します」
「すまない。イゴール。急ぐよ」
仏間で見つけた鍵は朝晩お膳お水と線香を供える際に首から下げて身につけて戻している。
イゴールと呼んでいるが、別にせむしではない立ち歩くムクイヌは本当の名前はペルペルベルスモニュアッカという。
彼は弁務官という役職であるらしいのだが、つまりは領地にいない領主の代行者と大雑把にいえる立場にある。
ペルペルベルスが現れて小一時間すぎているということは向こうでは半日かもっとかともかく何か用があって呼びに来てから少々時間が過ぎているということになる。
今は門には鍵を掛けてはいない。
それはペルペルベルスが太陽門と呼ばれるあちらとこちらをつなぐ出入り口を通るためにはこちらの鍵が空いていることが必要だからだ。
金延が最初に鍵を開けて以来、金延が目を覚まし仏壇に膳と水を供えるときに鍵を開き、夜仏間を閉じるときに鍵を掛けていた。
太陽門と向こうでは呼ばれているがこちら側では奇妙に細工の良い黒い石か何かの扉は金延の肩までもないペルペルベルスが両の掌を突き出すようにすると緩やかに押し広げられていった。
それは観音開きの扉が開くというよりは分厚いカーテンが風に押し込まれるように金延とペルペルベルスを取り巻くように凹んでゆき、やがて後ろのほうがひどく遠くなるような錯覚を起こす。
それは古いSF映画のような特撮じみた感覚とか、水中トンネルを持つ今時の水族館や投影を使って奥行きを広く見せる遊園地のアトラクションのような感覚に似ていて、目眩というよりは肌寒さを感じさせる距離感の喪失を引き起こす。
山には古い洞窟と言うか防空壕だか何やらを掘った跡やらというものがないわけではない、黄金伝説じみた伝承もあった土地なのでご先祖様がこんな土ばかりの土地を騙されて金鉱を求めて穴をほった跡か、位に考えていた。
それがそんな生易しいわかりやすいものでなかったことはペルペルベルスと顔なじみになってしまった今ならば理解できる。
暗くどこから光が漏れて辺りが目に見えているのか理解できない洞窟を歩いているうちに家の土間とも土蔵の木の板床とも違う面を研ぎ出したような石畳になり、黒く大きな扉が見えてきた。
十トントラックが出入りできそうな扉の大きさは土蔵に隠された扉に比べて大きく見えるが、驚異的というわけではない。
それよりはペルペルベルスがいつの間にか金延の背よりも大きくなっていたことのほうが不思議なのだが、もちろんペルペルベルスも理由をわかっているわけではない。
世界の法理が異なるという事実のわかりやすい象徴という程度に金延は理解していた。
毛足の長い二本足で立つ犬という程度の存在だったペルペルベルスは犬というよりは人狼というべき存在に近い姿になっていた。
寸詰まりに押し詰められた鼻筋も大きく口を開きやすい形に伸びていたし、そもそもなで肩に四肢が伸び人とは違う立ち姿になっていた。
ペルペルベルスが門の前で今はたくましくなった腕を伸ばし触れるようにすると巨大な扉は、やはりこれもペルペルベルスの腕を避けるように歪むようにやがて割け、両開きに押し広げられ、これは明らかな外の光と風の香りをこぼし始めた。
継ぎ目さえ怪しげな扉をくぐり抜けるといつもながら綺麗に手入れされた中庭に出た。
ここが宮殿の第二層でここが空中庭園であることを忘れてしまいそうになる風景であるが、噴水もあった。
以前は魔法で汲み上げていたが、少々離れた山からの水道を敷くことで都市計画を推進したのは他ならぬ金延の知恵だった。
魔法の力は一見便利なのだが、地方領主にとっては貴重な戦力でもあって振り回しどころを誤らないためにある程度図る必要もある。
中水道としての灌漑用水の整備は領土の農地整備と都市整備に必要な事業で、この地が金田家に代々治められていた理由の一つでもある。
そう。
金田金延はこの地バルゴステルムを代々治める領主の末裔、第三十二代当主であった。
はぁ。なるほど。
等と、金延はこの地を訪れた当初よくわかっていない様子でいたが、道理であまりパッとしない田舎の土地の地主と云うにはやはりあまりパッとしない祖父が奇妙に衛星放送だのインターネットだのエコロジーだのという軽薄そうなものに世紀が変わる前から興味を示していたはずだとようやく思い至った。
祖父の金璽はこの地に魔法によらない文物を幾らか持ち込んでいたが、耐久消耗材である文明の製品はこの地では管理が難しく、結局ある程度以上に定着することはなかった。
時間の立ち方も扉のあちらとこちらでは波打つようでおよそバルゴステルムでは日本の五倍から百倍ほどの速さで時がうつろう。
だが、一方で辞典辞書や教科書参考書のたぐいは役に立つところが多く、ユークリッド幾何やニュートン力学の世界観はこの地でも大いに役に立つもので、バルゴステルムは辺境ながら学究と文明の砦として今に花開いている。
算盤と検定教科書が結局この地で一番成功した文物で、上古精霊語や帝国語に並んでバルゴステルムでは日本語が学術的に使われている。
部屋の場所潰しだった高校大学の教科書参考書やノートの類が中学以前の様々と合わせてこの地にあったことに金延は驚いていたが、ありきたりな様々はこちらとあちらで通じるところも多いということでもある。
それは全く魔法の理解や認識を難しく混乱させる元ではあったが、一方で魔法の利用や応用という点では全く功利的な役割を果たしていて、中等魔導というものについての一大派閥をこの地に築いていた。
いわゆる高等魔導師達という者達はある意味で他人の評価や見聞を必要としないままに自己の研鑽がおこなえる者達だったし、初等魔導というものは木登りや逆立ちのようなできない者には出来ないし興味のないものはやらない種類のものでもあった。
何故時間に余裕のあるバルゴステルムが日本の科学技術文明を追い抜けないかという疑問は祖父の代或いはそれ以前から抱かれていた様子だったが、バルゴステルムは非常に濃い樹海の只中に開けた交易地でしばしば要衝として戦争原因として扱われ、農地を拡大する程に周辺に平野が多くないことに由来する。
金延が日本刀と猟銃を持ってこの地を訪れた理由も先に訪れた折、開戦の判断を仰がれる局面があったからでもある。
金延は農地の整備を自力でおこなって初めて自覚したが、実のところ体を動かすことが苦にならない質であったらしい。
都会に出て会社勤めを始めた理由も色々あるが、最初は結局、高校大学と進学した後でいまさら田舎に帰るのが面倒くさくなったという以上に意味はなかったし、かなりいい加減な理由だったとも云える。
派遣会社の社員と云っても形は正規雇用の協力会社で技術出向の扱いだったから、離婚しなければマンションローンを維持するくらいのことは出来ていたし、まぁ要するに、運良くなんとなく乗り切っていたところで世間の大波が来た。という感じだ。
さて。仕事を始めるか。
中庭を抜け領主の宮城いわゆる母屋に入る。
中庭につながる普段使われることのない戸口が開いたことで領主入城のラッパが鳴り響く。
見えてはいないのだが、城の建付けはアルミサッシの実家よりはよほどいい加減で絨毯を敷いていない城の廊下はなんとなく場内の様子が騒がしくなったことを感じさせる。
領主入城のラッパがあちこちで遅れて響くのは電話や無線の相当する魔法のたぐいがあまり陳腐化していない事によるが、城塞というものの衛士がある程度人員的な余裕を持っていることもその理由でもある。
謁見の間の上の階にある執務室にたどり着く間に幾人かの官僚がすでに領主を先回りする形で執務室に到着していた。
見た目人間らしく見えるものもそうでないものもいる。
「財務官。財務司法官、収税尚書。財務司書官。軍務尚書、練兵総監。司法尚書。民事尚書。行政執務官。立法判官。外務尚書、警務総監。それぞれ報告をおこなえ」
バタバタと官僚が執務室に駆け込むのを無視するように執務席についた金延の脇に立ったペルペルベルスが吠えるように告げた。
少し前からバルゴステルムの公用語の格として日本語による記述が上がり、また学術用語として比較的定義が明確な専門言語として日本語の地位が明確になったことで資料一般や報告は硬い言葉遣いの日本語が城内では使われている。
美しい日本語、といえば聞こえはいいのだがその美しさは金延の知る日本語とは少々異なる響きや意味を含んでいて困惑することも多い。
報告書の文面を読んでわかるところとわからないところがあるのが当たり前で、何か高校生の補習を思わせる風景でもあるのだが、幸い執務室に出入りする者達は現場に張り付く用事のない者たちである程度時間に余裕はある。
この土地でも当然に日は昇りまた沈みという周期はあるのだが、金延の感覚では眠くもならないし空腹も感じない。
最初は残業をしているときによく感じる単純作業への集中と納期の逼迫感からの感覚麻痺かと思っていた。
ところがどうやら本当に食事をしてみると空腹でもないらしいし疲労も感じていない。
職務も無限に続くわけではないことで退屈をして居眠りすることはあるが、どうも金延の身体は向こう側の実家のペースで動いている様子であった。
その証拠にこちらであまり居眠りをしすぎると帰った後で夜眠れなくなる。
だいたいこちらでの滞在時間は向こうの日没に影響を受ける様子でその時間が来ると猛烈な勢いで太陽の門が鳴り響きだしてしまう。
その現象が起き始めるとわかりやすく天候が不穏になるので、だいたいの滞在日数の目安になるのだが、その日数は十日からひとつきふたつきもう少しというところで、正直なところ全くわからない。
ともかく、金延としては領主として領民の生活の便宜を守るという職務があった。
領主の仕事がどれほど重要か、という評価の問題は金延には全く怪しげなところではあったが、裁判や視察の席に金延が直参すると何やら物事の進展が早くなる様子もあったので金延がわかることはせいぜい帳簿の類の数字の合い具合と事件の報告の突き合わせぐらいしかなかった。
正直言えば金延の得意とするところではなかったがでは金延がなにが得意かと問われて、こういう異郷の地で特段得意なことと云えばあまりなかった。
せいぜいが中学高校でやっていた剣道と合気道というところで、領主様がそういうものを必要とするような状況は、色々と終わっているわけで、まずはそういうモノが必要にならないように民草の様子に気を配る。というところが仕事だった。
初期的な農業文明の基礎は代々の領主が大まかな線引をしていて大体のところはなんとなくそれらしい形が出来ているのだが、地域の作物と耕作技術と調理技術の組み合わせが微妙によろしくないらしく、収穫量と可食量の伸びがあまり思わしくない。
理由はある程度単純で冷凍冷蔵技術がないために、中長期的な保存に耐える形態に加工したいのだが、それに適した技術がなかった。
煎り麦や乾物燻製のような技術はあるのだが、塩が高価で自由に加工品に使えるほどに流通量がない。というのが一つの問題だった。塩の有無で脱水乾燥過程は大きく変わるし、乾燥過程の出来の良し悪しで保存性も大きく変わる。
領域内で完結できない産物がある土地では流通貿易という対処が必要なのだが、バルゴステルムの場合、領域の市場拡大と人口流入がアンバランスなまま現在に至っていて、人口が増えたものの商業的な流通が不十分なことで問題を引き起こしていたが、一方で特産として域外に引き渡せる物資が少ないという問題もあった。
本質的にバルゴステルムは余裕のない小国だったし大河や海洋に面していない船舶貿易とは縁のない土地だった。
ここしばらくで人口流入が安定してからも商業全体の活性はそこそこだったが、幾つかの貿易品目は市場で混乱を生んでいて一部は行政による統制を必要としていた。
開墾灌漑し食料を大量に生産しても保存技術が追従できなければ無駄になる。
生産しても腐らせてしまうという割とわかりやすいムダは人々の心に薄く影を落とす。
塩か砂糖が必要になる。
ここ何日かの結論だったが、あまり大した思いつきもない問題でもあった。
流通の問題は貿易の問題。カネと採算の釣り合いの引き合い問題でもあったから、こちらから出すものが必要だった。
結局この日も金延は大した結論には至らなかったが、ともかく領地の様々な決済をおこない日が落ちる前に実家に帰った。
金延はあちこち穴の開いた使い古しの甲冑を実家に持ち帰ることにした。
つまりがこれが金延の給料だった。
その気になればいくらでも持ち帰ることはできるわけだが、実際に門をくぐるためにはこちら側の戸口をくぐれる大きさである必要があったし、金貨や銀貨は扱いに困る。
そうして手に入れたあちらのガラクタをネットオークションに流すと何万円かになる。
美術品とか芸術品とか扱いは困るところだったが、オモチャ同然のガラクタであっても欲しい人がたまたま見つけてくれればちょっとした収入になるご時世だったので、出せば売れると云うほど気楽なものでもなかったが、信用次第でそこそこの値段がつくご時世でもあった。
金延はまさか自分がネットオークションに出品することになるとは思ってもいなかったが、収入がないでは実家の修理もおぼつかない状態だったので、とりあえず向こうの世界の持ち出せるガラクタをこちらで売ることにした。
収入はまぁそこそこというか、増えたはずだが家があまりにボロボロで手入れに追われて、額面では増えていない。
預金口座の額面が跳ね上がって増えるようなことになると、税金対策なぞという面倒が沸き起こるのでそういうことには巻き込まれないようにしたいものだった。
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