第13話 ふたりのあした
離してくれ、飛ばせてくれ、と懇願してくる幸太は、あまりにも痛々しかった。
辛かった過去を過ごしてきた。
それを支えてきたのは、「しゅうちゃん」の存在で。
なんとか掴んだ普通の生活も、いわれのない罪悪感に苛まれ続け、それでも必死に生きてきた。
それもこれも、しゅうちゃんとの約束という支えがあったからこそのものだった。
桜の下、あんなに儚く見えた理由が今ならわかる。
きっと、幸太自身も分からなくなるくらい、生きることが苦しかったのだろう。
それでも、幸太は生きていた。
その一生懸命さが、裕貴には哀しい。
もっと、気づいてあげられたらよかった。
ギリギリのラインで保っていた精神を察してあげられればよかった。
そんなギリギリを保ってきた原動力であるしゅうちゃんという支えを失ってしまった、今の幸太の精神面が非常に危ういものであることは想像に難くない。
今掴んでいる手を離せば、きっと幸太は笑ってくれるだろう。
ボロボロに泣いている目をふっと柔らかく緩ませ、微笑むのだろう。
でも、だからといって、幸太の手を離すことなんて、出来るわけないのだ。
微笑んだあと、きっと幸太は崖から命を投げ出しにいってしまうだろうから。
裕貴は必死に頭を巡らせる。
疲れきっている幸太を、なんとか生きさせる方法を。
今の幸太はしゅうちゃんの死というショックや寂しさと共に、退院後の生活の疲れが一気に溢れているのだろう。
これまでいろいろ考えてきたこと、感じてきたこと、すべてに蓋をして。
何もかも、なかったことにしてしまいたいんだろう。
この山から自分の命を投げ出して、これまでの人生も長かった闘病生活も、あしたごっこもしゅうちゃんも、すべてなかったことにしようとしている。
もしそれができるなら、実は幸太にとっては幸せなことなのかもしれない。
これまでの生きづらさも辛さも哀しさも全部なかったことにしてしまえば、幸太が苦しむことはないのかもしれない。
それでも…
「ダメだ…」
絶対に。
この手は離してやれない。
「だって、おまえがいなくなったら、オレが寂しいじゃないか…」
頭を巡らせ考えていたどんな言葉よりも、情けない言葉が飛び出していた。
「おまえの過去は分かった。苦しかったことも頑張ったこともちゃんと知れて嬉しかった。でも、今隣にいるのはオレだろ。せっかくいろんなこと潜り抜けてきたお前と、今こうやって横にいられるのに、いなくなるなんて言うなよ…」
言いながら、涙が出てきた。
正直、情けないことしか言ってない気がする。
自分本意なことばかりぶつけてることも分かっている。
でも、どうしても知ってほしかった。今の幸太をこんなに必要としている人間がいるということ。
幼いときに両親を失った裕貴にとって、死は幸太とは違う意味で身近だった。
どれだけ望もうと命は限られている。
どれだけ望もうと、死はいつかやって来る。
だから、生きている限りはその命を味わい尽くさなければならない。
それがここまで生を見、死を見てきた裕貴の得た結論だ。
正直、生きる意味なんてものは後付けでなんとでもなるんじゃないかと思っている。
ただ、今、全力でここに在ればいい。
そしてそれを実行するには、傍に誰かがいなければならない、というのも裕貴の持論だ。
たった一人で全力を出し続けるなんて、無謀だ。
「疲れた」だの「おなかがすいた」だの、全力で走りながら漏れでてくる言葉を受け止めてくれる誰かがいることで、パワーは果てしなく生まれるのだから。
壁に向かってつぶやいてもむなしいだけ。
「そっか」なんて素っ気ない返事だけで、無意識に漏れでたつぶやきは死なずに成仏するから。
今の裕貴のそばにいるのは、幸太だった。
儚かったり強かったり、情緒が安定していそうでぐちゃぐちゃな、今この上ない泣き顔を晒している幸太しかいなかった。
「ここに居てくれ。お前はただ生きただけだ。悪いことなんてしてない。罪なんてない。生き残ってしまった、なんて言うな」
心に染み付いてしまっている幸太の罪悪感は、なかなか消してあげられるものではないだろう。それでも。
「消えようとするな。いなくなろうとするな。オレを言い訳に、生きろよ」
頼りない幸太の存在を、体ごと抱き締める。
まだまだ暑いこの時期に、抱き込まれているはずなのに、幸太は震えている。
感情の波が幸太に激しく押し寄せているのが伝わる。
それでいいんだ。思う存分泣け。
小さく震える声が腕の中から聞こえる。
「さ、びし、い…?」
「ん。」
「ユーキが…」
「そ。オレが」
徐々に泣き声が大きくなる。
さっきまで力の入っていなかった手が、裕貴の体を強く掴んでくる。
「…も、どーして、いいか、わか、んな、い…」
「ん。」
「…生きて、ても、しゅうちゃん、いない…」
「ん。」
「でも…生きてて、いい、の、かな?」
「ん。」
幸太はものすごく戸惑っているようだ。
でもそれでいいんだ。
これまで、しゅうちゃん以外誰にもすがり付けなかったんだろう幸太が、初めて他の人間の存在に気づいた。それだけで大きな進歩だ。
これがほんの少しでも幸太の生きる理由になるのなら、いくらでも戸惑えばいい。そして、気がすむまで泣けばいいと思う。
「ユーキ…」
「ん?」
「…できる、かな?」
「何が?」
「僕…生きてて、いいの?」
「とーぜん」
さも簡単なことのように答えてみる。
「コータは自分の人生を生きたらいいんだよ」
「自分の…」
「なあコータ。オレにもあしたごっこさせてほしい」
「あした、ごっこ?」
「そ。あしたオレは、コータと大学に来て、くだらない話してケタケタ笑って、おいしいもの食べて、コータの横で生きる」
「ユーキ…」
「だからおまえも、あした、オレと一緒に、生きろ」
「…うー…」
幸太が声にならない声をあげる。
ぎゅっと掴まれたままの裕貴のTシャツはもうしわしわになっている。
それだけ力をいれて握っているんだろう。
もう、二人してぐちゃぐちゃだ。
ここが誰も来ない山の上で本当によかった。
こんな顔、こんな姿、誰にも晒せない。
ぐっちゃぐちゃのまま幸太を抱え込んで、長い時間が過ぎたような気がした。
さらさらと桜の葉が揺れる音がして、涼しい風が駆け抜けていく。
そのやさしさにつられるように、ゆっくり顔をあげた幸太は、泣き腫らした真っ赤な目で裕貴を見上げた。
「ありがと、ユーキ」
小さいけれどしっかりした声で呟かれた言葉には、先程までの絶望とは違う、暖かな温度がこもっていた。
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