第11話 たどり着いた先

レストランを飛び出していった幸太を追いかけて、裕貴は入学式の日のあの桜の下へ向かった。

走るにつれてどんどん学生たちの数は減っていく。何人かとすれ違ったりはしたけれど、半分以上階段を上った今となっては人影ひとつ見当たらない。

それも当然だ。普段大学で生活する中、講堂を使うことなんてまずないため、今こうして

走っている裕貴とて、 来るのは入学式の日以来だった。

同じ道を辿りながら、裕貴は四月のあの日、息を切らしながらここへたどり着いたときの衝撃を思い出す。

たくさんの舞い散る花びらに目を奪われた。立派な桜の木にうれしくなった。


そして、一人の少年に出逢った。


あのときは、こんな風に桜の下の少年を追いかけて走る日が来るなんて想像もしていなかったけれど。

あの儚くて消えてしまいそうで、それでも目を向けざるを得ない存在感。

共に日々を暮らすうちに、あの非日常のような幸太の佇まいはごく普通の学生の姿に塗り替えられつつあったけれど、こうなってみるとその感覚こそが間違いで、幸太はあの日のあの透き通るような存在のまま、何一つ変わってはいなかったのかもしれない。


二人分の荷物が重い。

相変わらずの階段に息が上がる。

それでも止まるわけにはいかない。

 ―ここでタイミングを間違えれば、もう二度と幸太に会えない。

なぜかそんな焦燥感が裕貴を走らせていた。

早く、早く捕まえなくては。

たとえ幸太にたどり着いたとしても、幸太は裕貴を拒むかもしれない。

さっき手を振り払ったように。

それでも、今現在不安定になっているだろう幸太を泣かせてやれるとしたら、裕貴しかないだろうということもなんとなく分かっている。

自分が祖母の事でツラいとき、何の偶然かたまたま幸太に会い、祖母の死への恐怖や寂しさを全てさらけ出させてくれた。

今度は自分があいつを支えてやらなければ。

裕貴はそう思うと、再び気合を入れなおし走り始めた。


なんとか階段を上りきり、講堂の裏手に回るとあの大きな桜の木が見えた。

想像通り幸太は桜の下にいて、そのことに裕貴はほんの少しだけ安心する。

しかし、その目はうつろで視線も定まっておらず、今幸太が非常に不安定な状態であることが一目で分かった。

ここで声をかけるべきか、しばらく様子を見るべきか。タイミングを計るべく、裕貴は少し離れた場所から静かに幸太を見ていた。


風が吹き、桜の葉が揺れる。緑色のそれは、4月の淡いピンクとは全く違う、力強い生命力の象徴のような印象を与える。

それでもその下にいる幸太は相変わらず儚い。くっきりと濃く深い緑色の中、感情の掴めない表情だけが浮かび上がる。

真っ白な顔で太い幹にもたれて、揺れる葉に視線をやっているけれど、きっとその目には何も映ってはいない。

泣いているのなら泣かせてやりたい。それでもこんなに虚ろな顔をしているなら、無理矢理にでも吐き出させたほうがいいのかもしれない。

そう決意した裕貴が幸太の方へ足を踏み出したときだった。


ぼんやりした幸太の目からひとしずくの涙がこぼれ落ちた。そして、それと同時に幸太はふらふら歩き出したのだった。

山の上にあるその桜の木の裏には、古びた柵が建てられている。その下が何も舗装されていない山の斜面となっているからだ。

近づくな、という警告文を張り巡らしたロープを越え、幸太はふらふらと柵の方へと歩く。

その意味に気づいた裕貴は、走る速度を上げた。間に合え、間に合え!心の中で叫びながら、幸太へと走る。頭に浮かぶのは、柵から身を投げ出す幸太の姿。たぶん、これまで必死に生きてきたであろう幸太が、ついに生きることを諦める姿だった。

「コータ!!行っちゃダメだー!!」

気づいたら、走りながら全力で叫んでいた。届け。自分の世界に入ってしまって虚ろな幸太に、この声よ届け。

その声に反応したのか、錆びた柵に手を掛けていた幸太がふとこちらを振り向いたのは、裕貴が幸太のもとへたどり着いたのと同時だった。


「…ユーキ?」

ぼんやりつぶやく幸太の体を力尽くで柵から引き離す。思っていたより抵抗はなく、勢い余った二人は地面に投げ出された。

「いって…」

したたかに打ち付けた腰をさすりながら、裕貴は腕の中に幸太がいるのを確かめる。

幸太は今もなおぼんやりと視線を彷徨わせている。それでも、とにかく間に合った。裕貴はまずそのことにほっとする。

「どこもケガないか?」

少し汚れた肩口を払ってやりながら問いかける。

「…なんで?」

幸太は裕貴に答えることなく小さな声でつぶやいた。幸太の声を取りこぼしたくない裕貴は慎重に幸太の声に向き合う。

「ん?」

「…なんで来た?」

「そりゃ急に青い顔で飛び出して行ったら誰でも心配するだろ」

「…ほっといて、って」

「うん」

「…ほっといて、って言った」

「言ったな」

「もう、僕に、構わないで」

「それは無理だわ」

「なんで…」

「だって、オレたちダチじゃん」

そう裕貴が言ったとたん、幸太の目から涙が勢いよく流れ始めた。

「ダチ…」

「だろ?少なくともオレは、ダチだって思ってる」

「…だめ」

「何が」

「だめだよ」

涙を流しながら、だめだと言い続ける幸太の様子があまりにも切なくて、裕貴はそっとその背を撫でた。

手を触れた初めは少し強ばった背中が、だんだん緊張から解かれていくのが分かる。

この背中みたいに、幸太自身の強ばった心も解ければいいのに。

裕貴はそんなことを思いつつ、ゆっくり背中を撫で続ける。


「ごめん、ごめんねユーキ」

しばらくして、幸太はやっと話し始めた。

「ん?どした?」

「…僕は、友達なんて、作っちゃいけなかったんだ」

「なんで?」

「きっとユーキを不幸にしてしまう」

「なんでそう思う?」

「僕は、友達を、たくさんたくさん、見殺しにしてきたから…」

見殺し。それはあまりにも重い言葉だった。その衝撃に耐えている裕貴に、幸太はなおも言い募る。

「なんで、なんで僕だけ…僕だけ生き残ってしまったんだろう…」

紡がれた言葉は、何年もの間ひた隠しにしてきた幸太の本音だった。

痛み、哀しみ、苦しみ。裕貴は、全ての感情を受け止められるよう密かに覚悟を決める。

「…みんな、みんな生きたかったんだ。心の底から、生きたいって思ってたんだ」

幸太は遠い目をしながら語り続けた。これまで誰にも言えなかった思いが迸り出る。ぐちゃぐちゃになった感情はもう抑えられなくて、ほんの少し残っている理性だけは裕貴に言っても仕方ないだろうと考えているのに、本能の部分でもう止められなかった。

「教えてユーキ。なんで僕だったんだろう」

幸太が問いかけてくる。それでも裕貴もその答えを何も持ち合わせていない。

「なんで僕だけ生き残ったんだ、なんで僕だけがまだ生きてるんだ」

裕貴の腕を掴む手に力が入っている。

「なあユーキ、教えて。教えてよ…」

肩をふるわせながら泣く幸太に、裕貴は何も言葉を掛けられなかった。

今までこいつは、どれだけの哀しみを抱えて生き延びて来たのだろう。

大きな病気を乗り越えて幸太という存在が今ここに在ること。

分かっているつもりだった。

詳細を知らないとしても、その事実だけは分かっているつもりだった。

でも本当にオレは何も知らなかったんだな…

裕貴は思う。

幸太の苦しみが、ツラかった闘病生活や治療に寄せられたものではなく、自分だけが生き残った、生き残ってしまった、という罪悪感から来ているなんて、裕貴はこれっぽっちも想像していなかったのだから。

今裕貴にできることは、幸太の背中を撫で続けることだけだった。

生きている自分のぬくもりが、なんとか幸太に伝わればいい。

裕貴は切実にそう思った。

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