第6話 夢の外

ムーン、とエアコンの音が響く。

窓から入る光が揺れて、外の木が風に揺れているのが分かる。

一瞬ここがどこなのか分からなかった裕貴は何回か瞬きを繰り返した。

「そーいえば、集中講義…」

裕貴が目を覚ましたとき、眠る前からつまらなかった講義はまだ延々と続いていた。

「んあっ…」

軽くあくびをして周りを見回す。

さっきより寝ている学生が増えていて、静かな教授の声だけが子守歌のように響いている。

「あ~、よく寝た」

最近バイト漬けだった裕貴は、当然のように集中講義を睡眠時間に充てていた。

「冷房完備、しかも子守歌つき。おまけに単位までもらえるなんて、至れり尽くせりだねぇ」

短くても深い睡眠のおかげで頭も視界もクリアだ。下敷きにしていた腕だけがかすかに痺れているけれど、まあそれもご愛敬というヤツだ。

やけにすっきりした気分で隣を見ると。

「ついにオチたか」

普段はまじめで、授業中には滅多に寝ることのない幸太が机に伏せて眠っていた。

「珍しいなあ。でも、仕方ないよね。つまんないし」

心の中で納得しながら、裕貴は友人の珍しく気の抜けた寝顔を見つめた。


幸太は童顔で、どちらかというとかわいい顔をしている、と裕貴は思っている。

「おまえ女顔だな」

と思わず言ってしまったとき、無言で肩を殴られた。しかもグーで。

おとなしそうな顔して、結構気は強いのだ。


入学式の日のあの儚さはどこへ行った?


本気で聞きたいときもあるが、まだその時の話ができていないので、この疑問は裕貴の中だけの秘密だ。

それでも今、すやすや眠っている顔を見ると、自分の感想が間違っていないことを改めて思う。

「この童顔野郎め」

心の中の発言は、本人に聞かれたら確実にパンチを喰らうレベルのものだ。まああくまで心の中だし、いくら謎の多い幸太とて、心の声を読むことはできまい。おまけに全体的に華奢な幸太がぶん殴ってこようが、結局はへなちょこパンチなのだ。負ける気はしない。


そんな童顔の幸太とチャラい裕貴が一緒にいるのがおかしいみたいで、クラスの連中は面白がっていろいろ言ってきた。

裕貴が幸太を子分にしているとか、幸太をいいように使ってるんじゃないか、とか。

「確かに、あんまり見ないコンビネーションかもね~」

それでも、なんとなく幸太の傍は心地いい。こっちが投げかけるモノに対して、いろんなリアクションが新鮮だ。もちろん儚げな様子やふとした拍子に垣間見える不安定さが気になっていることももちろんあるが、それより何より幸太はおもしろい。だから一緒にいるだけなのだが。

「なんかオレたち、親分と子分なんだってさ」

そんなことを本人にポロっと言ってみたら、意外な一言が返ってきた。

「おもしろいね、僕が子分なんだ」

「だとよ」

「じゃあ養ってよ、親分」

「パンチかましてくる子分がどこにいる?理不尽だ」

「人って本当に見た目で好き放題言うよね。自分がどっちかっていうとおとなしい顔してるのくらい自分でもわかってるけど、なんでそれがユーキの子分につながるんだろう」

「まあ、オレがチャラいからじゃねーの?」

「それも見た目だけでしょ。チャラい奴みんな親分でもないし、逆にジャイアンはチャラくない」

「チャラいジャイアンなんて見たくねー」

「でもピアスくらいなら似合うかも」

「やめて。F先生泣いちゃうから」

話が変な方向に進んでいる気がする。

「じゃあこんど僕が金髪にしてみようか。次はどんな噂になるんだろう」

実際、面白そうに言う。こういうとき、裕貴は幸太が見た目によらず案外いい性格をしていることを思い出すのだ。

「似合わねー」

「そうかな?」

「大学入ってはっちゃけちゃった女みてーじゃん」

「女は余計だ」

またグーパンチが飛んできた。弱いけど。

「いいよ、子分でもなんでも」

「オレがよくねーわ」

「なんで?ユーキがオレを友達と思ってくれてるんだからそれでいい」

なんかちょっと恥ずかしい。

「そんなもん?」

「そりゃそうでしょ。見た目とか思い込みとか、そんなんに振り回されて掻き回されるなんて時間がもったいない」

随分割り切ってるんだなー、とその時思った。

「案外サバサバしてるのな、お前って」

「そう?だって時間は無限じゃないんだよ。自分の感じるもの以外に心を持っていかれている暇はない。なんでみんな気づかないんだろう…」

最後の方は、なんだか独り言のようになっていた。


時間は無限じゃない。

その言葉を聞いたときは、ただそういう考えもあるんだなぁ、くらいに思っていた。

それでもそこから数か月一緒にいるうちに、裕貴にはなぜかこの言葉が重要なもののように思えてきた。

これは、幸太の実感なんじゃないか?

ただの勘みたいなもの。

それでも、この勘は絶対に外れていないと思う。

それは傷痕を見たときに確信した。

きっと、幸太は命の限りを知っている。

命がいつか必ず失われるということを、身をもって知っている、と。


それが裕貴の中で完全に確定したのは、一般教養の哲学の授業中だった。

ごく一般的なグループディスカッション。

テーマは自殺の是非、というありふれたもので。

「生きたくても生きられない人がいるのに」

「どうしてもつらいなら仕方ないのではないか」

そんなありふれた意見が大半を占める中、順番に意見を求められた彼は静かに言ったのだった。

「僕は、それでも生きることを選ぶ人間でありたい」

と。

目を伏せたまま、小さな、それでもしっかりと意志のある声で。


ーそれでも生きることを選ぶ


それでも。

この言葉に全てが込められている気がした。生きたくても生きられない人がいることも、どうしても生きにくくなってしまった人がいることも、すべて事実。

でも、それでも。

幸太の傷痕を知ってしまった今、その言葉は余りにも重く、せつなかった。

どうにかしてやりたい。

背負っているものの重さを、少しでも支えてやりたい。

そう思ってみても裕貴は、今の自分が無力であることもまた知っていて。

「いつか。いつか、ね。」


そんなことを思い出しつつ、隣を見てみる。

「はぁっ!?」

なんと、童顔で女顔で気が強くて結構重大な秘密を抱えていそうな友人が、集中講義の真っただ中で寝ながらにして号泣していた。

「寝ながら泣くって。いやあったとしてこんな号泣??」

次から次へと流れ落ちる涙は、さっきまでペンを走らせていただろうノートも教科書もぐしょぐしょに濡らしていた。

「うわ、もう湿りすぎで使えねーよ…」

でもその涙は余りにも透明で、止めてしまうのがもったいないような気がした。

「ま、いっか。なんか、洗い流したいときもあるかもね」

裕貴は手にポケットティッシュとハンカチをスタンバイし、幸太の目が覚めるのを待つ。

目が覚めたら、軽ーく泣いてるのとをイジッてやろう。こんなになるほど泣いてしまった夢の中身を聞いたところで、答えなんかろくすっぽ返っては来ないだろうから(核心をつくような質問はいつもきれいにはぐらかされる)、せめて涙を見せた恥ずかしさを笑い飛ばしてやりたい。

出会いからの数カ月、どこか浮き世離れしたような雰囲気だった幸太が、ようやく裕貴のいる「こちら側」に馴染んできてくれた。その事実だけを今は大切にしたいから。

「んっ…」

徐々に目が覚めてきたらしい幸太がゆるゆる目を開く。さっきの自分のように、咄嗟には自分がどこで何をしていたのか思い出せないようだ。

「授業中に泣きながら寝るなんて、器用だねぇ」

そう声をかけてやれば、バツの悪そうな顔をしてさっと視線をそらす。

恥ずかしいとか、夢の話を聞かれたらどうしようとか、いろんな感情が渦巻いているのがあからさまに見てとれる。

そんな幸太の様子に軽く笑いながら、裕貴は満を持してティッシュペーパーを差し出すのだった。


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