第5話 窓辺で見る夢
昼下がり。
ギラギラ太陽の輝く窓の外を見ながら、シャーペンを回す。
クーラーの効いた教室は非常に快適だ。
うるさい蝉の声も、まぶしすぎる光も、ここには全く関係ない。
ひたすら眠気を誘うだけの教授の声。時折聞こえる板書する音。それらの全てが、ぼーっと窓の外を見つめる僕の中で子守歌に変わる。
夏休み直前の集中講義は、2日間みっちり講義を受けるだけで一単位もらえるということで、結構な人気であるらしい。僕はユーキに誘われるがまま受講しているが、たいして興味もない一般教養の授業。どうにも眠気に勝てる自信がない。
ちなみに誘ってきたはずのユーキは、僕の隣でとっくに夢の中だ。自由なヤツめ。心の中で悪態をつきながら、僕はまた外を眺める。
紆余曲折ありながら、やっとのことでこぎ着けた学生生活。
新しい環境、しかもまともな学生生活なんてほぼ送って来なかった自分としてはとにかくいっぱいいっぱいで、体力的にもギリギリの状態ながら、それでもなんとかしがみついてやっとのことでたどり着いた夏休みだ。ほっとして気が抜けてしまった僕は、決して悪くないはずだ。
溜まっていた疲れを気持ちだけでなんとかしようともがいていた先月、体育の授業中にぶっ倒れた僕にキレたのはユーキだった。
「ぶっ倒れる前に休めよ!」
たしかにユーキの言うとおりで、怒りながらも色々面倒を見てくれた彼に、しばらくは頭が上がらなかった。
どうやら彼は病人の介護の経験があるらしく、目覚めてすぐ、動くだけでめまいでグルグルしていた僕に、テキパキと世話を焼いてくれた。ありがたい。でもどうにも恥ずかしい。
あの時の僕は、どうしても走りきりたかったんだ。みんなと同じ距離を同じように。軽い運動の許可がやっと出たのが6月の頭だったから、ちょうどいいと思ったりして。
だって、やっと抜け出せると思ったんだ。
あの灰色の日を抜け出してもなお自分の中に渦巻くドロドロから。
みんなにとってはただのジョギングだったのかもしれないけれど、僕にはそれが、やっと得た自由の象徴のように思えたから。
これを走りきれたら、ここに居ることを許されるんじゃないか、なんて。
現実はそう甘くはない。
たった5分ほど走っただけで、血の気が引いていくのが分かった。
スピードなんて全くなくて、フォームなんて見よう見まねで。それでも必死にしがみついていたけれど、だんだん息が上がり、目の前の景色から色が消えていった。
ユーキが心配そうに並びかけてきたのが分かった。休もう、そう言ってくれたのもなんとか分かった。それでもそのとき、無性にイライラが込み上げてきて、僕は全てのものに当たり散らしたい気分だったんだ。
どうしてこの体は思い通りにならない。
どうしてこの心は自由の中に浸れない。
それなのに、どうして僕だけがこの光の下にいる?
思考も何もかもぐちゃぐちゃになってきた頃、僕の体はついに限界を迎えた。くらりと視界が回って、支えきれなくなった体は傾いていく。ああ、倒れる。そう思ったときにユーキの腕に抱き止められ、そのまま何もかも分からなくなった。
結果的にはただの疲労と貧血で、全然大したこともなかったのだけれど、検診の時に先生にも叱られた。
「軽い運動から始めてもいいよ、とは言ったけど、倒れるまで走れ、なんて言った覚えはないんだけどね」
笑顔の裏で目だけは決して笑っていない先生の言葉に、凍える心地がしたのは自分の中だけの秘密だ。怖くなんてない。決してない。
あれからまた徐々に体調を戻して、運動も慎重に、少しずつ取り組むようになった。おかげでもう、少しのランニングくらいなら平気だ。それでもユーキはとても不安そうに僕を見る。目の前で倒れられたのがよっぽどトラウマになっているらしい。悪いことしたなぁ、と思う。普通に生きてきたなら、突然意識を失ったり血を吐いたり、そんな現場にはなかなか居合わせることもないだろうから無理もない。それらには、耐性が必要なのだ。
それでも、そうこうしているうちにまた日々は流れた。そして今日、休み前最後の授業。
これでなんとか夏休みを迎えられる。ほぼ生まれて初めての、自由で眩しい日々。
それにしても、授業が長い。
なんとかあくびを噛み殺し、潤んだ瞳で辺りを見回してみたら、半数以上の学生が撃沈していた。これで本当に単位をもらえるのか!?というか単位を与えてしまっていいのか?
そんなことを思いながらも、またまたあくびを噛み殺す。どうやら人の寝姿は、見るものの眠気を誘うらしい。
ちょっとだけなら、いいよね。
胸の中で言い訳をしながら、落ちてくる眠気に身を委ね、そっとまぶたを閉じてみた。
夢を見ていた。
あの懐かしくも忌々しい灰色の中。いるのは4人の少年少女。
窓から差し込むのは柔らかい月の光で、それ以外は真っ暗だ。
消灯時間をすぎているのだろう、部屋を照らすのは最小限の灯りだけ。
その中で少年と少女は話している。
外に聞こえないようひそやかな声で。
「あした私はステージで踊るの」
少女は言う。
「まぶしいスポットライト、観客の熱い視線、静かなメロディー、その中にいるのがキレイな衣装を着た私」
少女は虚空を見つめ、うっとりと語る。
「音楽と一体になって、私は踊るわ。蝶々みたいにひらひらと。舞台の上を自由に跳んだり回転したり。すべての感情をバレエに乗せるのよ」
少女の視線の先に、華やかなステージが浮かんでいる。
そうと分かるほど、少女の瞳は輝いている。
「あした僕はおいしいステーキの店に行くんだ」
少年は言う。
「肉がじゅうじゅう焼ける音、パパとママがグラスを合わせるカランという音。いろんな幸せの音がそこにはあるんだ」
少年はいまにもおなかが鳴りそうなのを我慢するため、そっと腹筋に力を込める。
「焼きたてのステーキを切っては食べ、切っては食べ、おなかいっぱいになるまで食べて、最後にデザートのゆずシャーベットを食べるんだ」
もともと食いしん坊の少年は、久しぶりに思い出したシャーベットの感覚を心に留めるかのようにそのまま黙り込んだ。
ダメだ。
僕は頭の中で警鐘を鳴らす。
これ以上、何かを期待してはいけない。
だって、そんなあしたは決して来ないんだ。
伝えてあげたいけれど、声が出ない。体も動かない。
別に希望を取り上げたいのではない。
夢や希望、それは麻薬のようだ。
動けない自分を奮い立たせ、何でもできるように感じさせる、特別な力を持つ。
しかしそれは、時に毒にしかならない。
僕は知っている。
あしたバレエのステージに立つ彼女の右足は蝕まれ、切断していることを。
あしたステーキの店に行く彼は食べることもままならず、24時間外れることのない無数の点滴のチューブにつながれていることを。
小声で語り合うあしたは、絶対に来ない。
そしてまた僕は、もう一つのことも知っていた。それは、彼女も彼も分かっているということだ。
想い描くあしたに自分たちがいないこと。
自分がどれほど荒唐無稽な夢物語を話しているのかという現実。
全てを理解しているというのは、哀しいことだ。絶対にあり得ないということを何もかも分かっているのに、描くあした。
それでも、ただこうやって、あしたを話し合うことしかなかったんだ。
彼らを、そして僕らを閉じ込めている灰色に飲み込まれないために。ツラかった今日を乗り越え、目覚めた明日の痛みに耐えるためには、それしか方法がなかった。
「あしたオレは」
別の少年が語りだす。懐かしい声。
「きっとここから出て、お前に手紙を書くよ」
もうそこは灰色の中ではない。
灰色から外に出た、よく晴れた春の日差しの中。
「あしたごっこはもう終わりだ。二十歳になったら、この桜の下でまた会おう」
しゅうちゃん。
懐かしい名前。力強い声に、いつも引っ張られてきた。
満開の桜の下、笑顔のしゅうちゃんがいた。
それはほんの少し前の出来事。ほんの少し前にあった事実。
視界が歪む。
会いたいよ。そして聞きたい。
しゅうちゃんも、ドロドロを抱えているの?
あの灰色の中で最後まで生き残った僕たちは、本当に生き残って良かったの?
声にならない声で問いかけるけど、しゅうちゃんは笑ったままで。
この笑顔をもっと見ていたい。見ていたいのに。
だんだん明るくなっていく気配に、僕は自分が目覚めたことを知る。
明るく涼しい、だだっ広い教室の片隅で。
教科書がボロボロになっているのを見て、初めて現実の世界でも泣いていたことに気づく。
「授業中に泣きながら寝るなんて、器用だねぇ」
いつの間に起きたのか、半笑いでこっちを見ているのはいつものあいつ。
ここは現実だ。
灰色の空間も、あしたごっこもここにはない。そしてしゅうちゃんも。
差し出されたティッシュをありがたく受け取って、僕はそのつまらなくも奇跡的な時間へと戻っていく。
しゅうちゃん。
約束の日までまだ会えないけど、僕はここにいるよ。
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