第7話 日記の1ページ

真っ白な壁、飾られた花、優しい色合いのソファ。目に入るどれもこれもが、僕にとっては懐かしいものだ。

そして、それを懐かしいと思うたびに、僕はおなかの底から冷えていく。

使い込みすぎて少し歪んでしまったブラインドとか、オフホワイトのカーテンとか。そんな当然ココにあるモノたちが、あまりにもこれまでの自分の日常すぎて、今いる自分の場所を見失ってしまいそうになるから。

本当の自分はまだこの場所から出られずにいて、大学に通い学生生活を普通に送っている自分の方が実は幻なのではないか、と疑ってしまうから。


そう、あの頃のあしたごっこのように。


そんな自分の思いにそっとフタをするように、僕は少し荒っぽく歩いてみる。自分の足音が静かな検査室に響き、ほんの少しだけ思考の沼から浮上できた気がする。そうすることで、ともすると色々なことを考えすぎてしまいそうなこのアタマを食い止めてみるのだ。


今日は月1回の検診の日。

普段は大学があるから、と無理を言って土曜日にしてもらっているけれど、今は夏休み真っ只中。こんな平日の朝から予約を入れたのは、本当に久しぶりだ。

平日の午前中の病院というのは、妙な活気がある。病人も怪我人も、各診療科ごとに入り乱れ、一つの目的のために熱のこもった渦を作っている。

朝一から様々な検査を受けていた僕は少し疲れて、本を読もうとソファに腰掛けた。あとは診察室で結果を聞くだけだった。

今日も相変わらずこの病院は混み合っていて、すでに正午を回ろうという時間だった。

診察が終わったら、久しぶりに食堂でご飯でも食べようか。

そんなことをぼーっと考えていたとき、

「神崎さーん」

間延びした声で呼ばれた。

指定されたのは2診。少しガタガタいう引き戸を引くと、あまりにもおなじみになりすぎた白衣のお兄さんが座っていた。

「幸太くん、久しぶり。元気だった?」

大げさには変わることのない表情が、少しだけ緩んでいる。やさしく細められた目に安心感を覚え、僕は微笑んだ。

「はい、元気です」

「前みたいに無理してない?あれから倒れてない?」

「それは、もう、反省してます」

やはり優しいだけではなく、しっかり釘は差してくるあたり、いつもの先生だ。

「検査の結果だけど、全て順調だよ。はい、これ結果ね」

紙を渡されながら、僕はほぅっと息をついた。

「よかったです」

「とはいっても、無理は禁物だよー。基準内とはいえ、相変わらずヘモグロビンは底辺だし」

「重々承知してます」

神妙に頷いておく。事実、ぶっ倒れて叱られた身としてはエラそうなことは言えない。

「幸太くん」

改まった調子で話しかけてくる先生に、少し背筋を伸ばす。

「はい」

「キミが何を思って一生懸命なのか、意地になって倒れるまで走ってしまうのか、僕は他の人よりは分かっていると思ってる」

「はい」

「普通を知ってしまうと、制限のかかる自分の暮らしはやっぱり窮屈だよね」

「…はい」

やはり僕の苛立ちなんてものは、この先生にはお見通しだったようだ。

「キミは、本当に大変な思いをしてきて今ここにいるね。それを人は奇跡と言うかもしれない。でもね、僕はそれは無責任な発言だと思うんだ」

軽いけれど、しっかりした口調。

「僕は最初からキミの闘いを見てきた。どんなに頑張ってきたのか、どんなに苦しかったのか、1番近くで見てきた。だからこそ言うよ」

先生は、僕の目を見つめている。僕も、きっと目をそらしてはいけない場面なのだろうと、しっかり見つめ返す。

「今があるのは、課程だ。キミの人生の課程の一つにすぎない」

そんなことを言われたのは初めてだった。

「努力や我慢が報われた結果だ、て言ってあげられたら良かったんだけど。でもキミは、報われない努力や我慢があることを、イヤと言うほど知っているでしょ?」

無言で頷く。

知っている。僕はそれを、本当にイヤと言うほど見せつけられてきたのだ。

「だからね、キミの人生は、キミが生きてきた課程のみを示しているものなんだよ。苦しい治療に耐え、いろんな我慢を重ねてきた、という課程。奇跡なんかじゃなく、ドラマなんかでもなく、必然。日記の1ページとでも思っていればいいんだ」

目からウロコとはこのことか。

先生の言う一言一言が、隙間だらけの心を埋めていく。

「キミはキミの人生を歩けばいい。自分のペースで、日記を増やしていけばいいんだよ」

「…はいっ。」

僕が返事をすると、先生は明らかに顔を綻ばせた。

「僕も年をとったもんだ。こんな分別臭いことを幸太くんに話すなんて」

「もう出会って10年近くですよ。先生もそれだけおじさんになったんですよ」

からかった口調でそう言ってやれば、途端に剣呑な雰囲気を出す。

「誰がおじさんだよ。まだまだ若手で通ってんの」

「拗ねてもかわいくないです」

「こら、幸太くん。キミはあんなに可愛かったのに、もう世間の波に揉まれてスレてしまったんだね」

「あはは、こんなもんですよ、学生なんて」

僕を世間に放り込んでくれて、世間の波にスレさせてくれて、本当にありがとうございました。

そんな言葉を飲み込んで、僕はカラッと笑ってみせた。


一ヶ月分の薬でパンパンになったカバンを抱えた僕は、ピークを過ぎた食堂へ向かう。

この病院の食堂はなかなかメニューが豊富で安いため、面会に来た人や付き添いの家族、外来診察を終えた人など、様々な人たちが利用している。

「ん~、エビフライか…うん、これにしよう」

独り言をつぶやきながら、B定食の食券を買って窓辺の席へと向かう。

やたらと白さを強調したような院内にあって、この食堂だけはピンクや水色のパステルカラーを使っていて、どことなく落ち着く。普段の生活との境目のような気がして、検査の帰りには時折、自分自身の今を確かめるためにここに寄る。

「あー、疲れた…」

なんだかんだで、検査は疲れるのだ。

肉体的にも、精神的にも。結果を待つ間は特に、思い出したくもないあの頃の日々が頭に浮かび、非常に消耗する。

「栄養取ろう」

全く何の問題も数値に表れなかった健康優良児である僕は、とてもお腹が透いているのだった。

持たされていたベルが鳴る。お待ちかねのエビフライを取りに、僕は席を立った。

「あれ、コータ??」

聞き慣れた声に驚いて振り返る。そこにはハンバーグメインのA定食を持ったユーキが立っていた。

「ユーキ?」

「おまえ何でこんなとこいるんだ?」

「いや、ちょっとお見舞いの帰り」

咄嗟にごまかしてしまった。ユーキは非常にしっかりしていて優しく、大好きな友達だけれど、僕には全てを話す勇気がまだない。

「それよりユーキはどうして?」

「ああ、オレね。…ていうか、一緒に食べようか。ベル鳴ったんだろ、とって来いよ」

普段絶対に会わないだろう場所で、よく知った人に会うというのは、なかなか不思議な気分だ。

僕はユーキに言われた通りB定食を受け取り、席へと戻る。取っていた窓際の席の隣にユーキは座っていた。

「お待たせー」

「おう。てかエビフライかぁ。B定食も良かったな」

「ハンバーグもおいしそうだね」

「ん。ここのメシ、なんでもうまいから」

よく知った口振りに、ユーキが何らかの事情を抱えていることを知る。

「とりあえず、食べよ」

「そーだな。では」

二人で小声でいただきますをして、遅めのお昼ご飯を食べ始めた。

「ここさ、」

ある程度食べてから、ユーキが口を開いた。

「ばーちゃんが入院してるんだ」

「え、おばあちゃん入院してたの?」

ユーキが小学校に入る前に両親を事故で亡くし、以後おばあちゃんと二人で暮らしてきたことはすでに知っていた。

そんな唯一の家族が入院していたなんて、どんなに寂しいだろう。

「うん。それで、もう、長くないらしくて」

一瞬、聞き間違いかと思った。

まさか、ユーキのおばあちゃんが?

「ほんとに?」

「ほんと。もう意識もないんだ」

軽く微笑みながら話すユーキに、なんて声を掛ければいいのか分からなかった。

ただ、その微笑みが本心からの笑顔でないことだけは分かった。

ユーキはやたらと気が回る男だ。暗い話を聞かされた僕が気を遣わないように、軽いジョークみたいにカラッと話してしまいたいのだろう。

でも、それではダメだ。

僕のために、ユーキが自分の1番ツラい心を押し殺すなんて、あってはいけないことなんだ。

「…笑うなよ」

「え?」

「笑うなよ、ユーキ。ツラいときに無理して笑わなくていいんだよ」

「コータ…」

驚いたようにこちらを見る。

「僕は、全然人間できてないし、他人の感情を慮るとかもいまいち分からない。でも、今ユーキがツラいことだけは分かるよ」

ユーキの目がウルウルと揺れてくる。

「大事な人が居なくなるかもしれないなんて、ツラいし寂しいし怖い。そんなの当然だよ」

こくりと頷く。

「ユーキは頑張り屋さんだから、そんな気持ちも隠して頑張っちゃうんだろうけど、ただでさえ傷だらけの心が余計痛くなってしまう。せめて僕とか、僕じゃなくても友達の前では、何も隠さないでいてよ。痛みを止めてはあげられないけど、一緒に痛みを感じることは出来るから」

一気に言いたいことを言ったら、ちょっと酸欠になってしまった。ゆっくり息を吸い込んで、頭に酸素を送る。

「…オレさ」

ユーキが話し始めた。

「ずっとばーちゃんと暮らしてきて、毎日楽しくて、これからもずっとそれが続いていくんだと思ってたんだ」

「うん…」

「でも、違ったんだな。ばーちゃん、先に、オレなんかより、もっと先に逝くって…」

堪えきれず涙が溢れてくる。

「…ツラいね」

「うん、ツラい…」

「…哀しいね」

「うん、哀しい…」

「…一人で、よく頑張ったね」

「…」

ユーキはもう声も出せないようだった。

小刻みに震える背中を摩る。

「ある人に言われたんだけど、」

きゅっと握られた手に自分の手を重ねる。

「人生、ツラいこと哀しいこと、全部ただの日記の1ページなんだって」

ついさっき聞いた話。

「いろんなことは全て人生の課程。だから、どんなにツラくても哀しくても、過ぎてみればきっと日記の1ページになってるんだよ」

努力も我慢も、痛みも哀しみも、みんな、みーんな。

「ユーキにはおばあちゃんとの暖かい思い出があるでしょ。それさえあれば越えていけるよ。あとは日記の1ページ。大丈夫だから」

「そう、なら、いいね…」

やっとのことで出したユーキの声は掠れていて、それでもほんの少し気持ちが晴れたのが伺いしれた。

「ねえユーキ」

「何?」

「食べ終わったら、おばあちゃんに会いに行っていいかな?」

「え、でもばーちゃんもう何も分からない…」

「それでもいい。ユーキの友達のコータですって、挨拶できればそれでいいから」

「分かった…ありがとな、コータ」

「どういたしまして。そうと決まれば、早く食べちゃお」

「うん」

二人して、冷めたごはんに手を伸ばす。

そのごはんは切なくて、ほんの少ししょっぱかった。





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