第3話 ある日の帰り道
夕方の駅へ向かう道。
山に囲まれたその道にはちらほら学生の姿が見える。
夕日に照らされオレンジに光る道を、僕はまっすぐ歩く。
ゆっくりゆっくり、一歩ずつ。
「おーい」
後ろから聞こえる足音に振り返ると、見知った顔が僕に呼びかけていた。
「電車もう来るぞー。これ逃したらまた30分だぞー」
4月にこの大学に入学し、およそ1か月が過ぎた。
最初こそ、新しい環境に慣れるためにあわあわと時間を送っていたが、5月に入った今、もうすっかりこの生活になじんでいる。
駅から20分ほど山を登ったところにある僕たちの大学は、一般の生活圏から離れているため電車がなかなか来ない。ピークを過ぎた今は一時間に2本。バイトにコンパにと忙しい大学生にとって、30分の電車待ちはかなり厳しい。
いつもは電車の時間に合わせてスムーズに動けているのだが、思った以上に講義が長引いてしまったのだ。
「ああ、予定ないし別にいいや」
声をかけてくれたことへの感謝をこめつつ、違和感がないような当たり障りない答えを選ぶ。
「優雅だねえ」
声をかけてくれた彼、角野裕貴は、同じクラスの席が前の少年だ。茶色の髪にピアス、どう考えても自分のような地味な存在と相性がいいわけないと思うのだが、なんだかんだで僕によく絡んでくる。
ニヤリとこちらを見る目は決して嫌味ではなく、ごく普通にカラッと話しかけてくるから、こちらも気を遣うことはない。
「まあね。角野くんは?」
「オレ?バイトだから先行くわ」
「うん。気をつけて」
「おお」
ザッザッと健康な足音をさせながら彼は行く。
そんな姿をのんびり見送りながら僕は行く。
予定がないのも本当、急いでいないのも本当。
それでも僕は、なんとなく嘘をついたような罪悪感に苛まれる。
僕は走らないのではなく、走れないのだ。
そんなほんの少しの苦さを心の中に閉じ込めて、薄らいできた夕日に目をやる。
オレンジはだんだん群青に責められている。
まるで僕の嘘を咎めるかのように。
自分の話をするのは苦手だ。
自分のこれまでの人生を語れば、大半の人は悲しい瞳になり、「よく頑張ったね」とか「つらかったね」なんて、見当違いの励ましを送ってくるに決まっているのだ。
僕はそんな言葉望んでいないし、取り立てて頑張ってきたわけでもない。
生き残るためには様々な経験をしなければならなかった、ただそれだけだ。
もちろん話をしたくない理由はそれだけではない。
あの経験の以前から、僕はおとなしくて話すのが苦手な子供だったから。
それでもあれ以来、従来の人見知りに輪をかけて人の輪に入るのが苦手になった。
人が表す様々な感情を、全身で受け止める自信がない。
笑顔も怒りも思わずこぼれてしまった涙も。
そんな純粋なモノ、僕が受け止めるにはもったいない、そんな気がしてしまうのだ。
それでも、人の話を聞くのは好きだ。
自分の中の限界を、人ははるかに超える。
自分の中にない選択肢を、他の人はたくさん持っている。
それにあこがれているわけではない。諦めているわけでもない。
ひたすら見ていたかった。
僕のいなかったであろう世界が静かに回るのを。
進学の際、心理学部を選んだのは必然だった。
父も母も、それを当然のように受け止めた。
「おまえの経験を生かせる分野だと思うよ」
父はやさしく微笑み、母は静かにうなずいた。
しかし、両親のそんな思いは見当違いだ。
僕は人のことなんてこれっぽっちも考えていなかったから。
ただ僕は、僕の中にある罪を静かに受け止めたかっただけだったから。
そんな思いを抱えて入学した大学の心理学部。
全体で120人ほどの学生が4クラス30人前後に分けられている。
初めてのオリエンテーションでは、クラスごとに一つの教室に集められた。
僕のクラスはB組。
男女の割合は半々といったところ。
派手な人も地味な人も、いろんな人がいて、たった30人のクラスだというのにとてもまぶしく感じる。
もちろん、小学校高学年からずっと灰色の空間に縛り付けられてきた僕が、世間を知らなさすぎるという面は否めない。
ああこれが「学生生活」というものか。
やけにおっさんじみた感想をひっそりと抱いていた時だった。
「なあ」
前の人影が突然振り返った。少し長めの茶色の髪、金色のピアス。そんな外見とは裏腹に、少し細めの目は垂れ気味で、人が好さそうな印象を受けた。
「ん?」
そっけなく返すと、その人影は僕の目をじっと見て話し始める。
「おまえ、変わってるよな」
それが初対面の相手に突然振り返ってかける言葉だろうか。
少し驚いて、僕は答える。
「そーかな」
一体僕のどんなところがおかしく見えたのだろう。
正直、世間の流れに疎い自覚は大ありで。
入学二日目にして、何かやらかしてしまったのだろうか。
「ん。絶対変わってる」
「それって、けっこう失礼な発言だと思うけど?」
「いや、これぐらいじゃお前は怒ったりしないだろう」
勝手に決めつけるな、と心の隅で思うけど、なんだかおかしくてあらためて言う気にもならない。
「じゃあどんなところが?」
「うーん、なんかこれっていう風には言えないんだけど、空気が」
空気ねぇ。
「たとえばこの教室で、若い奴らがわいわい飯食ってしゃべってしてる。今は春で窓の外は青い空と深くなってきた緑に包まれてる」
案外いろいろなものを冷静に見ているんだな、と自分のことを分析しようとしている彼に関して他人事のように思う。
「いろんな色彩があふれているっていうのに、お前だけがなんか透明だ。なんでだ?」
正直驚いた。ただ単に地味で目立たぬようにしていた僕。それを透明という表現であらわされるとは思っていなかった。
「なんでって言われても」
「透けて消えちまいそうなのに、でも確かにあるんだな、お前って」
ここにあることを確かめるように、彼は僕の手をぺちぺち触りながら言う。
確かに僕はここに在る。奇跡とか偶然とか、そんな確率で。
それを一番信じられていないのが僕自身だったとしても。
「ここにある…」
「うん。ここにこうしていてくれて、なんかよかったわ」
そんな風に言われたのが初めてで僕は少し動揺した。透明、消えてしまう。でも確かにある自分。それを「よかった」だなんて。
「…なんか、ありがと」
ふいに涙ぐみそうになったのを隠して、僕は一言つぶやいた。
そしてその日以来、なぜかその男、角野裕貴は、僕にいろいろ絡んでくるようになったのだった。
彼は見た目の派手さが目を引くというだけでなく、コミュニケーション能力も高いのかクラスの誰とでも仲良く話せる。それなのになぜか常に一緒にいる相手に選んだのが地味な僕。
そのことがあまりにも不思議で、一度
「こんな地味な奴相手にして、なんか楽しいの?」
と尋ねてしまったことがある。
そのとき彼は心底分からないような顔をして言った。
「おまえって地味だったのか?」
もう僕には、その続きを話す元気は残されていなかった。
そんなこんなで今日。
今も彼は僕の帰り道を心配してくれた。
バイトもしていないし自宅から通っているためご飯の用意の心配もない。それはとっくに彼にも伝えてある。
それでもなんだかんだと心配してくれる彼に、僕はいまだに秘密を抱えている。
おそらくはきっと、最後まで話すことのない秘密を。
ここに在る、と。
僕のことを、確かにここに在る、と言ってくれた彼に対してだけは、何があっても絶対に言えない。
僕は、僕がここに在ることに対して、誰かに罰してほしいと切実に思っていることを。
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