第2話 桜の下で
角野裕貴は走っていた。
苦行のように延々と続く階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。
息が上がるがそんなこと気にしていられない。
なんといっても今日は入学式。
遅刻して会場に入るなんて、大学生活初日から悪目立ちしすぎる。
「くそー、あのバカ時計め!」
荒ぶる気持ちがついうっかり声となり飛び出てしまう。
おかげで、ただでさえ底をつきそうな体内の酸素が一気に減り、頭の中でemptyランプがともり出す。
「くそっ」
今度は頭の中だけで悪態をつく。
ばっちりかけたはずの目覚まし時計がなぜか今日に限って電池切れで止まってしまっていたり、いつもは目覚ましが鳴る前に目が覚めるのが昨日のバイト先の飲み会のせいで起きられなかったり、そんなことはすべて自分のせいだということくらい分かっている。
それでも、頭の中で文句を言うくらいは許されていいはずだ。
「なんなんだよこの階段は!」
山の上にある大学は、長い長い階段を登り切ったところにある。
もちろん受験の日も、入学手続きの日も、登ってきたから知っていることだ。
ただひとつ違うのは、希望に満ち溢れた日々に登る階段と、希望に満ち溢れているはずなのに焦りに満ち溢れて登る階段とは、かなりいろいろ訳が違うということだ。
登っては曲がり、また登っては曲がるその白い階段は、山の斜面に造られているだけあって容赦なく体力を削っていく。もう一段飛ばしで上がる力もなく、それでも止まってしまう勇気もなくて、汗を流しながら一つずつ進む。
せっかく階段の端にはキレイに花が咲いているのに、それを手続きの日に見て「癒されるなぁ」なんて花好き男子の裕貴はいたくご満悦だったというのに、今となってはそのすべてがうらめしい。
「くそっ。帰りにはここの全部の花を愛でてやる」
完全に怒りの矛先が間違っているが、そんなこと今の裕貴には関係ないのだ。
そして、終わらないかもしれないとまで思えたこの階段地獄が、やっとのことでおわりを告げる。
最後の段を踏みしめたとき、裕貴は腕時計を見た。
8時53分。
入口から式のある講堂までは、徒歩で約5分。
9時からの入学式にはなんとかギリギリで間に合いそうだ。
「よっしゃ!」
小さくこぶしを握ってガッツポーズを決めながら、それでも速度はゆるめずに講堂へ向かう。ほんの少し生まれた気持ちの余裕から、カバンの中のハンカチを取り出し額の汗をぬぐった。
「スーツ汗まみれ…」
それはそうだろう。どう考えても入学式に参加するピカピカの一年生とは思えない走りを見せていたのだから、仕方ない。
「買ったばっかりなのに」
少しみみっちいことを考えながら、裕貴は講堂へ急いだ。
もうほとんどの学生が中に入ったのだろう。
閑散とした受付のテントが目に入り、やや歩みを早める。
「まだいたのか」と言わんばかりに目を見開く手伝いの在校生に、学部と学籍を尋ねられ、無事に入学式に向かうための手続きは終了する。
8時56分。
早歩きが効いたのか、予想より余裕をもって着くことができた。
安心感から、ほっと溜息をつく。
ここでやっと落ち着いて周りを見回すことができる。
新しくできたらしき講堂は、まだまだ白くてキレイだ。大きいが、そのモダンな造りが若々しい印象を与える。
中にはたくさんの学生がひしめき合っていて、ほんの少しだけうんざりする。
それでも自分もあと3~4分であそこの仲間入りだ。
かすかに緊張しながらも、人の波の中に突入すべくこぶしに力をこめる。
一歩踏み出し、中へ入ろうとしたその時。
ふわっと強い風が巻き起こり、白い講堂の壁の前に大量のピンク色が舞い上がった。
「桜?の花びら?」
たくさんのピンクは雪のように降ってくる。
「きれい……」
思わず裕貴はつぶやいた。さっきも述べたが、園芸好きの祖母譲りの花好き男子、おまけに散るころの桜が、裕貴はとても好きだった。
「でも一体どこに桜が?」
講堂の裏側だろうか。
ここから見えない桜の木。でもこれだけの花びらが舞っているのだから、きっと近いはずだ。
8時58分。
あと2分しかないが、気になるものは仕方ない。収まったばかりの息切れも気にせずに、裕貴は走って講堂の裏手に回った。
「!!」
そこには言葉も出ないほどの圧倒的な景色があった。
何十年、何百年だろうか、ずっとそこに在るのだろう太く大きな桜の木が、どっしりとそこに立っている。
その堂々とした佇まいとは正反対にも思えるような、淡く柔らかいピンクの花は満開で、風が吹くたびその繊細な花びらを踊らせていたのだった。
「こんな景色があるなんて…」
これを目にしただけでも、ここの大学を選んだ自分をめちゃくちゃに褒めてやりたい気分だ。毎年春にはこの花を堪能できる。そして、全身で花びらのシャワーを浴びられる。
「なんて極楽」
想像するだけでニヤケてしまう。そして現実の裕貴の頭や肩にも、花びらは降り注いでくる。
そのうちの一つを掌に載せて、ふっ、と吹き飛ばしてみた。ひらひらと舞いながら落ちていく花びらは、儚くも美しかった。
「見ていたいなー」
名残惜しい気持ちをなんとか抑えて、その場から踏み出す。ずっと桜のシャワーを浴びていたいのはやまやまなれど、入学式に行かねばならない。
最後に角を曲がるとき、未練がましくもう一度だけ振り返る。
そこには、先程までまったく気づかなかった人影があった。
「誰だ?」
その少年は、桜の下に立ち、空を見上げていた。いくつもの花びらが少年の周りを飛び交い、そこに差し込む太陽の淡い光が、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「キレイだ。本当に…」
少年の姿も含め、この世のものとは思えないような風景。裕貴はそこへ近づこうとして、それでも不意に足を止めた。
「なんで?」
桜にまみれた少年は、空を見たまま一筋の涙を流していた。それはあまりにも美しく、かつ残酷に見えて、裕貴はそこに一歩も近づくことができなかった。
一瞬にも、何十分にも思えるような時が経ち、不意にマイクのハウリング音に気持ちを現実に引き戻される。
桜の少年を気にしながらも、裕貴は静かに講堂へと入っていった。
きっとまた会える、そんな予感を感じながら。
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