相克17
時が流れた。
決闘の朝。ラムスは一人、自室でレーセンの形見を眺めていた。
「兄上……」
輝く短刀が写す瞳は驚くほどに澄み切っており穏やかに見えた。腹を据えた人間の表情はある種の美を感じさせる。それは、生も死も受け入れる大器が整った証である。人は死を恐れるくせに生に苦しむものだが、その矛盾から解き放たれた時、初めて命が研磨され、輝く。ラムスはそこに至った。彼の魂は、煌々とした光を放ち、生き死により遥かに位置する無極を得たのであった。
ラムスは立ち上がり部屋を出た。すると、「おはようございます」と、待ち構えていたようにカルロが声を掛けた。
「いつからそこにいた」
「昨夜からにございます」
「……目を離せば逃げかねないからな。私は」
「お逃げになるのであれば、とうの昔にそうしておりますでしょう」
ラムスの皮肉を真面目に返すカルロであったが、彼の顔は心なしか綻んでいた。それは、ほんの些細な緩みであったが、平素の鉄面皮からは想像も付かぬ柔和な表情であった。
「朝の準備ができております」
自分の顔が崩れていたのが分かったのか、カルロは話題を変えいつもの無表情に戻りラムスに朝食を促す。ラムスはそれに「分かった」と応え、二人は回廊を歩き食堂へと向かった。
途中、回廊にある柱の隙間から陽光が射していた。暖かい陽だまりが注がれた城内は静かで、鳥の囀りと草木がそよぐ音しか聞こえない。穏やかな空気が流れているのは、嵐の前の静けさであろうか。
「よく眠れたかラムス」
食堂にはファストゥルフが座っていた。既に食事は終わっており目の前には茶が出されているが、湯気は立っていない。ファストゥルフは長くラムスを待っていたのである。
「はい。万全です」
「ならば良い」
死地に向かう人間に言葉は不要。ファストゥルフは多くを語らず、茶を飲み干して、最後に一言だけ漏らし席を立った。
「ラムス。貴様は死ぬなよ」
食堂を後にするファストゥルフの背は少し小さく見えた。それは不安か、はたまた、子の成長を見た寂しさか。いずれにせよ、ファストゥルフの姿からは王としての威厳が薄れているように見えた。それを目にし、唇を引き締めるラムス。彼が父の願いを耳にしたのは、今日が初めてであった。
「カルロ」
「なんでございましょうか」
「今日私が勝ったら、兄上の代わりになれるだろうか」
気弱なファストゥルフを見て一抹の不安が過ぎったのか、ラムスはそんな事を聞いた。
「……レーセン様は唯一無二。代わりなど務まるはずがありません。しかし、ラムス様もまた、二人といないお方なれば、両殿下共に、ローマニアを統べるに相応しい大器をお持ちになられていると存じます」
「……お前が言うならば、間違いはなさそうだ」
ラムスは微笑み、運ばれてきた朝食を口に運んだ。萎縮して喉に通らぬといった様子はなく、平素よりもよく食し、よく味わい、「これは美味い」とか「また食べたい」などとしきりに言葉を発し、そして最後には「いい食事だった」と満足気に茶を啜るのであった。
「また明日、同じ物を食べたい」
斬首刑に処される前の罪人が、ラムスと同じ事をよく言う。これは死の予兆であろうか。
否。これは、覚悟の表れ。戦う。戦って勝つという覚悟……それはラムスの顔を見れば明瞭である。死に向かう者のそれではない、胸に秘めた、灼熱の炎が彼に宿っていた。
「明日、同じ物を用意致します」
「あぁ、頼む」
食事を終わらせたラムスはカルロとそれだけ交わし、支度を済ませ城門へ向かった。彼が外へ出ると、サンジェロス城中の臣下達が列をなしているのが見えた。悲痛な面持ちの者。ほくそ笑む者。顔を変えぬもの。咽び泣くもの。それぞれの想いがラムスに向けられている。彼は歩きながら、手にした短刀に力を込めた。傷が増えた手に血潮が脈打つ。それは、以前とは違う、戦う男の手であった。
「ラムス様!」
用意された馬車に乗る前。彼を引き留める声がした。それは、今日の決闘が開かれる原因となった一人の女。ファティスであった。
彼女は今日まで冷ややかな目で見られ、影で、時には当人がいる前で悪く言われていた。
「厄災を持ち込んだ」
「殿下の死はあいつのせいだ」
「不幸が服を着て歩いている」
数多の非難を浴びていた。数多の視線を向けられていた。しかし、彼女はそれに耐えた。ファティスがパルセイアとの因縁をローマニアに持ち込んだのは事実である。ファティス自身も、それが負い目となっているのは確かだろう。しかし、それだけではない。彼女はこれを宿命と捉えた。
自身を責め、悲劇を嘆くのは容易である。だが、彼女の為に戦った。あるいは、戦っている男達がそれを善とするだろうか。
ファティスを守ると決めたのは王であるファストゥルフであり、その息子であるレーセンとラムスである。それに涙を流し拒絶するのは、彼らへの冒涜でしかない。
非難は当然。だが、自身の為に流れた血を否定する事はできない。
ファティスはそう想っていただろう。そう想っていたからこそ、彼女はサンジェロスに残ったのである。ファティスもまた、戦っていた。自らに課せられた使命、あるいは、運命と。
「どうか、ご無事で」
短い言葉であったが、どのような激励よりも力がこもっていた。
「ありがとうございます」
ラムスは一言を返し、馬車へ乗り込んだ。鞭が打たれ、馬が走り出す。陽が高く昇っていた。風が強く吹いていた。人々の想いは熱くなっていた。馬車は向かう。決闘の地へ。
ローマニアから程なく離れた平地に舞台が敷かれていた。クルセイセスが奴隷に造らせたものである。豪華たる装飾。眩き意匠。即席とは思えぬ造形……これだけの建造物を造るのに、果たしてどれほどの資材と人間が投入されたであろうか。一見して無益であると思われるが、この闘技場はクルセイセスの威を示すのに充分であり、その場にいた人間は誰もがパルセイアを讃え、畏れた。それはローマニアの人間も変わらない。強大な力を間近にして、人々は一様にパルセイアとクルセイセスに畏怖の念を抱くのだ。いってしまえば見栄であるが、その効果は絶大であった。
パルセイアの方は既に列を成し、怪しげな音楽が弾けさせていた。低くうねるよう奏でられる笛。軽快に響く太鼓。それに合わせて発せられる、奇怪な声……全てが異様であり異質であった。
異常なのは音だけではない。闘技場に放たれた炎が、乾いた風に吹かれ蛇の様に舞い、その傍では半裸の男達が狂乱している。恍惚に染まる顔は、彼らが既に正気を失っている事を意味していた。時に男達は互いに髪付き合って血を流し、それを身体に塗っては更に激しく狂気に堕ちた。それを満足そうに眺めている人間がいる。クルセイセスである。クルセイセスは専用に造らせた遊覧の席で微笑を浮かべていた。
「随分なもてなしではないか」
狂気を見物していたクルセイセスの元を訪れたのはファストゥルフであった。彼がラムスより一足先に闘技場へと到着したのは、クルセイセスに「先ずは王と王とで語らおう」と呼び出されたからである。
「我が国の伝統だ。戦う者の為に捧げる儀式は、勝者には祝福を、敗者には癒しを与える」
「結構な事だ」
クルセイセスとは違い、ファストゥルフの顔は苦々しかった。それは勿論嫌悪の表れであったが、そんなものは御構いなしとクルセイセスは口を開いた。
「それで、死んだレーセンの代わりに、本当にラムスを出すのかな?」
不躾な問いであったが、ファストゥルフは間髪入れずに「そうだ」と答えた。すると、クルセイセスは大きく顔を歪ませ、剛笑を轟かせたのであった。
「血迷ったかファストゥルフ! 己が息子を二人も殺されたいか!」
「死なぬさ。勝つのはラムスよ」
ファストゥルフの言にクルセイセスの笑いは消えた。
「面白い。では、誉れ高きローマニアの勇姿。とくと観させてもらうぞ」
会話は終わった。闘技場では狂気が繰り広げられていた。それが終わると、静寂が訪れた。舞台に現れたるはパルセイアの精鋭。そして、ローマニアが第二王子。次期王位筆頭。ラムス。互いが互いを見つめ剣を抜く。距離は未だ遠い。だが、二人の意思は明確に分かった。「死合いの合図と共に前に出る」声に出さぬとも、誰の耳にもそう聞こえた。静寂が続く。そして……
「始め!」
両者が前に出た。剣劇が打ち鳴らされた。男の戦いが、今始まった!
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