相克12

 議会の内容は即座にラムスへと伝わった。これは議官達の仕業であり、ラムスに重圧を与え、王位を継ぐ事への恐怖を増大させるのが目的である。

 立場的に次のローマニア王はラムスしかおらぬだろう。そのラムスが、王になりたくないと申せば、議官達はこう言うのだ。「大丈夫でございます。委細、我々におまかせください」と。そうなればラムスは彼らに従い、彼らに縋るしかない。立派な繰り人形の完成である。


 そのラムスが、ファティスの部屋を訪ねたのは因る不安に耐え兼ねての事だろう。扉をノックする彼の姿は、普段から遠慮がちな体躯を更に縮めており、いつも以上に小さく見えた。


「ラムス様……」


 扉を開けたファティスはラムスを見て言葉を失った。焦燥しきり、眼に浮かんだ隈が彼の心労具合をうかがわせる。それはファティスも同じであったが、ラムスはそれに気付きく事ができなかった。


「突然のご訪問、申し訳ありません」


「いえ……」


 二人は部屋の入り口の前で立ち尽くしている。互いに言葉が見つからず、互いにどうしていいのか分からない風で、そして、互いがどうしてほしいのか探る事もできないようであった。


「……」


「……」


 黙することしばらく。ようやく、ファティスはラムスが話をしたいとのだという事を察し、「どうぞ」と部屋へ招いた。彼女もまた苦悩してる。しかし、ラムスには微笑を送った。それは悲壮であった。レーセンの死から、必死に立ち直ろうとする健気さであった。彼女とて泣きたいであろう。叫びたいであろう。愛した男が死んだと誰かに打ち明けたかっただろう。だがそれをしなかった。ファティスがラムスに対し、その、己が心中にある悲しみを秘めたるは、彼が……






「いたら騒がしいお人でしたが、いなくなってしまうと、寂しいものですね」


 ファティスは目を伏せレーセンをそう評した。


「そうですね……兄がいないと、胸に穴が空いたようです……」


「……いけませんね。私より、陛下やラムス様の方が悲しい思いをしているというのに……」


 無益な悲嘆の応酬であった。しかし両者の悲しみには違いがある。それは質の違いというより、含まれているものの違いである。


「私はこれから、どうしたらよいのでしょう……」


 ラムスの口から出た言葉は恐怖であった。王族としてあるましぎ恥知らずな弱音である。だが、彼が恐れるのも無理はなかった。城に身を置き王子として生きた時間は、彼がパラティノの丘で過ごした日々よりも少ない。元々ラムスは老夫妻の世話をしながら野良仕事を担い、ゆるりと流れる太陽と月を見送っていたのである。それが城住まいとなり、王子と呼ばれ、更には、レーセンの死により王位まで見えてきた。瞬く間に変わる人生。ラムスの心は、まるで堅牢な檻に投獄されたかのように縛られてしまっていた。


「私は王子といっても出自に曰くがあります。流れる血が、違うかもしれません。周りは、私に兄の代わりとなるよう期待しています。しかし、斯様な人間に、いったい何ができるというのでしょうか」


 この時ラムスは思い違いをしていた。ファストゥルフも臣下も、彼にレーセンの代わりなど求めていなかった。しかし、あえてそう伝えた者がいたのだ。虫は、既にラムスを宿主にしようとしていた。


「兄は私に言いました。お前には器がある。と。しかし、私はそうは思いません。私は、兄のような勇がない。兄のような覇気がない。兄のような、徳がない。私には、兄の代わりは務まらないのです……」


 ラムスの吐露は恥じも外聞もない、形振りを構わないものであった。ここまでくると、もはや弱音などどといったものではない。請いである。助けを求める、弱者の嘆きである。


「……お話は分かります。ラムス様も、大変な身の上でございますね」


 ファティスの甘言にラムスは首をもたげた。彼はその言葉が自らを慰めるものだと信じていただろう。なぜなら涙を浮かべていた表情には、薄らとした微笑が浮かんでいたのだから。しかしそうではなかった。彼が見たファティスの顔は……


「ファティス様……」


 ラムスは一瞬身を強張らせ息を飲んだ。彼が見たファティスの顔に慈悲や慈愛などなかったからである。ファティスは、死にゆく者。いや、死んでいった者を見るような、無常を前にした人間の顔でラムスを眺めていたのであった。


「それで、ラムス様は、どうなされたいのでございますか?」


 背筋の凍るような冷徹な声。平素のファティスからは想像のつかない、恐ろしい音色である。


「それが、私には分からぬと……」


「……」


 まるで弁明のようにそう言うラムスをファティスは無言で否定する。彼女の持つ翡翠が、射殺すような視線を向けている。


「……逃げたい……丘の上で、静かに暮らしたい……」


 ラムスをの口から出たその言葉は、誰が聞いても本音と分かるものだった。絞り出すような声には彼の魂がこもっていた。そして、悲痛から生まれた涙が溢れていた。

 ラムスは城に来て以来、どれほどパラティノの丘を夢に見たであろうか。その中で何度老夫妻の声を聞いたであろうか。彼が懐郷病を患ったのは、サンジェロスに足を踏み入れた瞬間であった。彼は城を石や鉄でできた巨大な監獄に見立てていた。そして自分がこの監獄から出る事は叶わず、もう二度と育ての親を見る事もできないと理解したのであった。彼は今日まで、夢の中でしか故郷を訪れる事ができなかった。


「ならば、いいではないですか。逃げてしまえば」


 ファティスは優しくそう言って、咽び泣くラムスを抱きしめた。


「逃げて……逃げて、いいんですか……」


「大丈夫ですよ。何も気にせず、お逃げなさい」


 声にならない声を上げラムスは泣き、ファティスは背中を撫ぜていた。それは傷付いた子供と、それを慰める母親のようであった。


 ラムスがファティスに話をしたのは、彼女が自分を理解してくれる人間であると見定めたからかもしれない。なぜなら、ファティスもまた、彼と同じように母を殺され、故郷を奪われ、時代の奔流に呑まれてきたのである。ラムスは、自らの生とファティスの生を知らず知らずの内に重ねていたのだろう。同じ悩みを、同じ苦しみを味わう人間として彼女を見ていたのだろう。それは概ね間違ってはいない。だが一つだけ、ラムスとファティスには決定的な違いがあった。


 ファティスは逃げてなどいない。


 ローマニアに来るまで、必死に堪え、戦っていた。城から落ち延びたのは生きる為。生きて、戦う為。

 その相手はパルセイアでもクルセイセスでもない。人生という理不尽と、彼女は今も戦っている。純潔を踏みにじられ、尊き血を汚し、愛しき君を殺されて尚、彼女は逃げず、戦い続けているのだ!


「大丈夫です……大丈夫……」


 その彼女が闘争を肯定したのは、生きる事への苦悩を、ほんの一旦でも垣間見て知っているからであろう。ファティスもまた、磨耗していた。そして、自分のようになる必要はないと、ラムスに伝えていたのである。


 慟哭するラムス。彼は、かつて自らの弱さを恥じていた。その弱さを受け入れた先にあるものは、果たして……

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