相克10
ファティスの目は開かれ、現れた来訪者を凝視した。
「そう睨まなくてもいいだろう。王子様の娼婦になって、気位が高くなったのかい?」
それはエタリペアにてファティスを最初に買った男であり、ファティスの店でレーセンに追い払われた商人であった。
「下賤な……」
ファティスの呟きに男はいやらしく口角を上げる。 唾棄すべき無礼であったが、ファティスは声を荒げる事もできない。なぜなら。
「王子様は、まだ君が娼婦だったってのを知らないんだろ? いずれ露見するんだ。俺から、君の夜の様子を伝えてやろうか?」
男が言う通り、ファティスには明かせぬ過去があった。それは、やはり男が言うように、いずれ露見するであろう恥辱の過去である。だが、一時の間であっても、訪れた幸福を手放す事を彼女は恐れた。レーセンにそれを知られるのを、一時でも先に延ばそうとした。
「……ご用件は?」
「分かるだろ?」
銀に光る月が影を作る。影はファティスを纏うように深くなる。その影は、秘匿される彼女の過去と、今行われようとしている、悍ましい宴を隠すように……
「……」
「少し歩こうか。ここじゃ、王子様に知られるからね」
男は指で合図をして歩いた。ファティスはそれに従う。幾らか離れ、広場の端にある雑木林に入った。星の光も遮る葉が騒つき揺れている。男は雑木林の中ほどで足を止め、ファティスに向き直った。
「ほら、奉仕しなよ」
ニヤつきながら命令する男の口調は嫌悪感を抱く程に軽薄であった。行為そのものではなく、ファティスを服従させる事に愉悦を感じているのだろう。抗えぬ小動物に針を刺していくような悪辣さは、邪悪以外に表す言葉がない。
「早くしないと、王子様が探しに来て見つけてしまうかもしれないよ? まぁ、それでもいいんだけどね」
ファティスの小さな拳が握られた。爪に柔らかな肉が食い込み、今にも出血しそうである。
「……卑怯者!」
「その卑怯者を今から相手にするんだ。嬉しいだろ? ファティス王女」
嘲弄しながら男はファティスを眺めていた。薄い木にもたれ、じっと近付くファティスを待つ。ファティスは再び男に嬲られ為に、自らの足で男の元へ向かう。距離は縮まり、互いの呼吸が重なる位置に二人は向かい合って並んだ。一方は愉悦を、一方は憎悪を含んだ目を相手に向ける。互いに声は出さず、互いに、何をするか知っていた。ファティスはそっと跪き、男の局部を掴もうとした。その時であった。男がもたれている木に、衝撃と打音が聞こえた。驚いたファティスは上を見ると、男のすぐ横に、豪華な意匠が施された短刀が刺さっていた。その短刀が誰のものなのか、誰によって投げられたものなのか。ファティスは即座に、それが誰であるか理解したであろう。その男は、いつも彼女が危機の際、悠然として現れるのだから。
「人の女に二度も手を出すとは不粋極まる! 此度は、ただでは返さんぞ!」
そう叫びながら現れたのはやはりレーセンであった。草を踏み、土を蹴って、彼は二人がいる方へと足を進める。木々から僅かに漏れる月の光が照らすレーセンの顔は怒りに満ちていた。それを見た男は小さく悲鳴を漏らし慄いた。その隙みて、ファティスは男から離れたのだが、レーセンはそれを一瞥もせず男の目の前に立ち、その拳で面を撃ち抜いたのであった。肉の潰れる音が林の中で弾ける。男は血飛沫を上げ、土の上に転がった。
「この女は俺が預かっていると言ったはずだが、よもや忘れたわけではなかろうな!」
レーセンの声は怒りを超え殺意を帯びていた。もはや僅かな情さえ喪失しているようで、守られたファティスでさえ震えるような剛叫であった。
恐怖した男は弁明と命乞いを試みる。だが、その言は……
「レ、レーセン様! そこな女は娼館に身を寄せていた不浄の者! 私は斯様な女に誑かされたレーセン様を正気を取り戻したくやって参ったのです! どうかご容赦を!」
まくし立てる男と、沈黙するレーセン。
ファティスは柔な手で顔を隠し小さな嗚咽を漏らした。最も知られたくない秘密が、最も知られたくない人間に伝わってしまったのである。悲痛なる胸の内は測るべくもなく。恥辱に塗れた過去を否定する術もなし。ファティスは今日ほど淫売なる生業にその身を置いていた事を悔いた日はなかったであろう。彼女の肩は、恐怖に代わり悲哀によって震えていた。漏れる声から、自刃さえ厭わぬような深い悲しみが聞こえてくる。繰り返される、「ごめんなさい」という、悔恨と懺悔の言葉。地に尻を着けた男はそれを嘲りの表情で見ていた。恐らく、ファティスが罰され、自らは放免されると考えていたのだろう。だが、その思惑は外れた。
「知っておるわ。愚か者め」
レーセンはそう吐き捨て、男の顔を蹴り飛ばし、更に叫んだ。
「この俺が! 愛した女の事を知らぬと思ったか!」
その叫びは狼藉を働いた男にではなく、ファティスに向けられたもののように聞こえた。レーセンが、男を通したのである。
彼は確かにファティスの過去を知っていた。知っていた上で、彼はファティスにその胸を貸したのであった。
レーセンはファティスが娼館で働いていたという噂を聞いた後、直ぐにエタリペアに馬を走らせカルロに問い詰めていたのだった。
「いいか? 嘘は言うなよ? この俺を欺いたとあれば、その首の一つや二つでは済まんからな!」
詰め寄るレーセンに圧され、カルロは洗いざらいを白状した。無論、その時自分はファティスの正体を知らなかったという事も。
全てを聞き及んだレーセンは「そうか」とだけ言ってエタリペアを後にした。一部始終を見ていたカリスは大笑いをしたが、カルロは、それを怒る気力もなくしてしまっているようだった。
「う、嘘だ!」
狼狽しながら男は顔を青くしていた。受け入れがたい真実を前に、どうする事もできないでいる。
「貴様は俺が偽りを口にすると言うか!」
おかまいなしに、レーセンの激が飛び続ける。男は失禁寸前といったところだろうか。抜けた腰を間抜けに立てようとしている。それを見たレーセンは呆れたように鼻を鳴らし、大きく呼吸をしてから、ファティスの方を向いた。
「ファティス。貴様の不憫を想い、今日まで黙っていた。許せ」
ひどく簡素で、無骨な言葉であった。だが、その率直さ故、届く思いもある。ファティスは涙で腫れた眼を露わにし、レーセンを見た。
「こんな……こんな私を、貴方は……」
声は出なかった。しかし、想いは十分だった。レーセンはすっとファティスを抱き寄せ彼女の金糸を撫ぜ、涙を流すファティスを包んだ。その間は一瞬であり長くはなかった。しかし、そこには確かな幸福と、愛があった。
だが、その一瞬が、大きな隙を作ってしまった。
異音。
レーセンがファティスから手を離した瞬間。彼の口から鮮血が流れ落ちる。
「……!」
後ろを振り向くレーセン。ファティスは、レーセンの背中を見て悲鳴を上げた。
「お、王子を……ローマニアの王子を……」
先まで地面に転がっていた男がいつの間にか立ち上がり、蒼白なる顔を晒して小さく呟いていた。その後、狂ったような、叫びを、あるいは、笑いを響かせ、どこかへ走り去っていってしまった。林に残る人間は二人。ファティスとレーセン。しかし、レーセンの背には、突き刺さった短刀が血を飲んでいるのであった。
ファティスの絶叫が、こだました。
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