相克4
ヘイレンの姫君が店を開いておられる。と、そんな話がローマニア中に知れ渡った。
コーヌコピエは俄かに賑わい、先日までの落ち着きが霧散してしまっていた。話題性もさることながら、茶の味も接客も良く、なによりファティスの美貌に人が魅せられていたのである。それは彼女が、没落した王族の娘。という札を貼られているのもあってか邪な考えや悦を求める者も少なくなく、一概に純な理由ばかりで繁盛していたのではないが、ともかくコーヌコピエは万人御礼の日が続いたのであった。
噂はローマニアより離れたアルサッカ。サンサッカまで届いていた。それはもちろん、アルサッカの峠村、エタリペアにて、かつてファティスが春を売っていた娼館の人間達の耳にも入っており、そこで働く人は皆、伝え聞く翡翠の瞳と金糸の髪に、やはりファティスの姿を想像していたのであった。
娼館では。支配人であるムルフと下女仕事をしているカリスがこのようなやり取りをしていた。
「やっぱりあの子、王女様だったんだね」
「知らん! その話はするな!」
「何をそんなに怒ってるんだい? 王女様を働かせてたなんて、随分泊が付くじゃないか」
「黙れ馬鹿! 失せろ!」
さて。サンサッカとアルサッカにまて話が伝わっているという事は、もちろんある人間達にもそれが伝わっているという事になる。
ある日。ファティスが入りきらぬ店に無理やり押し入ってくる客達に応じていると、見覚えのある商人が一人やって来た。陽に焼けた逞しい肌。黒髪に黒眼。顔立ち良く、透き通った美声。それは、ファティスが最初に売春婦として相手をした男であった。
「やぁ」
男はファティスと初めて会った時と同じように声を掛ける。
「……!」
彼の男を見たファティスは声を失った。驚きと共に身体は震え、呼吸さえ忘れている。蘇る陵辱の記憶に、今にも蹲り、泣き出してしまいそうである。
「どうしたんだい。そんなんじゃ、客を悦ばせられないだろう? ほら、笑いなよ」
下卑た笑いが男の顔に張り付いている。その顔はファティスを買った時と同じであった。
過去は消えない。悲しみの記憶はいつまでも残り続ける。ファティスの心には、決して癒える事のない傷ができていた。その傷が今、傷を与えた本人によって抉られている。無常とは、まさにこの事である。
「覚えているかい? 覚えているだろう? あの日の夜を。楽しかったねぇ。君は凄く綺麗だったよ。泣き叫ぶ、君の姿は……」
「……お引き取りください」
震えながら、意を決したようにファティスは男を拒絶した。それは、追い詰められた獲物が捕食者に見せる最後の抵抗のように儚く、無益なものに見えた。しかしそれは、捕食者に悦を与える行為以外の何物でもない。
「今夜空いてるかい? 付き合いなよ」
男はファティスの腕をとって引き寄せ耳元に息を吹きかけた。周りにいる客達はそれを見世物のように見物している。再び訪れる、屈辱と恥辱。ファティスは身も心も強張り、流れ出そうな涙を、じっと耐えることしかできなかった。しかし。
「その辺りにしておくんだな」
もう一つの男の声。気高く響く、雄々しいその音は、冷静にして鋭く商人に向けられた。その男の正体は……
「レーセン……様」
「……!」
商人を咎めたのはレーセンであった。商人はその名も、その姿も知っているようで、先までの余裕はどこかへ消え失せてしまった。
「な、何かご用で……」
間抜けな問いを無視し、レーセンはつかつかと二人に詰め寄って、商人の髪をつかんで言った。
「どこの誰だか知らんが。この女は俺が預かっている。手を出すのであれば、それはローマニアに背くものと知れ!」
レーセンの言葉に気圧され商人は「あ……あ……」と腑抜けた声を出すばかりとなり血の気が引いた顔を晒している。それを放り投げたレーセンはため息まじりに「消えよ」と吐き捨て、商人は血相を変え逃げ出した。周りからは野次馬の喝采と冷やかしが飛び交い、それこそ見世物のような状態となってしまったが、「静まれ!」と、レーセンが一括した為、皆すぐに茶と向き合い、そわそわと、連れ合いや見知らぬ人間と小声で話しをするのであった。
一段落がつき、ファティスはレーセンに近寄り礼を述べた。
「あの……ありがとうございます」
助けられたファティスであったが未だ表情は暗い。が、レーセンはそれに気付かぬのか、はたまた気付かぬふりをしているのか、平素通りファティスに接するのであった。
「なに。ほんの暇つぶしよ。礼などいらん。ローマニアは俺の庭だからな」
十分に高笑いをした後、レーセンは言葉を続ける。
「それより、先の男とは知り合いか?」
レーセンの問いにファティスは言葉を詰まらせる。それはそうだ。「売春宿で私を買ったお方です」などと、普通の女であっても言えるはずもない。ファティスはただ、顔を伏せて黙る外なかった。それを見たレーセンは「ふむ」と、鼻を鳴らす。
「……ま、いいがな。その美貌だ。賊に狙われる事もあるだろう。最近、妙な噂も耳にする故、身には気をつける事だ」
「妙な噂……ですか?」
ファティスは恐る恐るその内容をレーセンに聞いてしまった。それがどのようなものか。想像するに難しくはないはずなのに……
「何でも。貴様がアルサッカの売春宿で客を取っていたというのだ。馬鹿な話だ。仮にも一国の王女が身体を売るなど、あろうはずがないのだからな。所詮は下賤な者共の与太話よ。相手にする必要はないぞ?」
いつもの不敵な笑みを見せレーセンはそう述べた。取るに足らぬ、くだらぬ噂話だと断定したのだろう。しかしそれが事実であり、今もなおファティスの精神を陰らせていると知れば、彼はどのような目をファティスに向けるであろうか。
ファティスはそれを恐れていた。レーセンだけではない。ファストゥルフやラムス。カルロを始めとした、サンジェロスの人間。そして、コーヌコピエの訪れる客達。それらに、自らの穢れた記憶を覗かれたとしたら、果たして自分は正気でいられるだろうかと、ファティスは日毎に思うのであった。
「汚れた身体を、心を。記憶を。過去を。私は見られたくありません」
これは出す宛のない手紙に綴られた、ファティスの心の内である。彼女は夜、親しい人間ができる毎にうなされ、必ずこう言って起きるのだった。
「見ないで!」
と。
「まぁ、貴様が娼館にいたら、買ってやるがな」
レーセンの下世話な冗談が
「……はい。そうですね」
陰鬱な返事をして、「仕事がありますので」と言った後、ファティスは改めてレーセンに礼を述べ客の応対に戻った。レーセンは首を傾げその様子を見ていたが、その内に見知った飲み仲間に声を掛けられ、ローマニアの街へと消えてしまった。
それからしばらく経った。サンジェロスからの遣いがファティスの元へやって来た。彼女はそれを不思議がった。いつもであれば、用があればレーセンかラムス。あるいはカルロが訪ねていたからである。また、その遣いも妙であった。城の使用人ではなく、ファストゥルフ王直属の精鋭である近衛兵が軍用馬車でやって来たからだ。
「ファティス様。どうか、サンジェロスまで御同行をお願い致します」
「それは構いませんが、いったいどの様な御用件で……」
「詳しくは城にて。ささ。どうぞ御搭乗ください」
言われるがままにファティスは馬車へ乗りサンジェロスへと向かった。運転は荒く、速度がある。険しい近衛兵の表情を見たファティスは不安そうに手を硬く組み、指元が薄紫に変色してしまっていた。しかしそんなファティスをよそに、馬車は更に速度を上げ車体の揺れを激しくした。
「あの……揺れが……」
耐え兼ねたファティスがそう漏らす。しかし近衛兵は「すぐに着きます故、御容赦ください」と聞く耳を持たなかった。いつかにロセンツォが「ローマニアの兵は礼儀を知らない」と言っていたのを思い出したのか、ファティスは「確かに」と、人知れず呟いた。
「ファティス様。お待ちしておりました。どうぞこちらへ。ファストゥルフ陛下からお話がございます」
サンジェロスに着くと、直ぐにカルロがファティスを出迎えた。いつもの鉄面皮が、少しだけ青くなっているように見える。
「いったい何があったのですか?」
ファティスの問いにカルロは答えなかった。しかしそれが返って事の重大さを物語っており、ファティスは表情はより硬くなっていった。
サンジェロスの廻廊は多く者達が駆け回っていたが、彼らの大半が軍務に携わる人間であると見て取れる。そして、その中で行われていた兵同士の会話を聞いたファティスは、事の次第を察したのであった。
「進軍中の隊の中に、クルセイセスもいるらしい……」
「戦争なんかにゃならなきゃいいがな」
ファティスは思わず足を止め、彼方を見つめ呟いた。
「クルセイセス……パルセイア王……」
両の翡翠が、朱に変わるようであった。
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