相克3
ファティスはレーセンの手を持ったまま懇願するのであった。「どうか、彼らを罰しないでください。と。それに対しレーセンは冷たい言葉で突き放す。
「聞けぬ話だ。この下郎共は俺の庭で狼藉を働いた。自由と逸脱の境界が分からぬ者を生かしておけば、それは国家の憂慮となる。俺は寛大だが、規律を乱す人間は捨て置けん。さぁ。手を退けろ」
細枝のような指を振り解こうとするレーセン。しかし、ファティスはそれを必死で抑えた。
「どうか……どうかお願いでございます……この場は、私に免じて……」
もはや祈りに近かった。それは母親が、病に伏せる我が子を前にして、神の名を呼ぶ姿のようである。
ファティスは自らの無力を知っていた。レーセンがいなければ、自分が暴漢の手により辱められ、殺されていた事を理解していた。しかし、それでもファティスはかつてヘイレンで生まれ、ヘイレンで育ってきた人間達を見捨てる事ができなかった。彼女が愛した国民を、見殺しにする事ができなかった。だが、レーセンの意思も強い。
「ならん。もはや、これはローマニアの問題だ。貴様が口を出すことではない」
「お願い致しますレーセン様。彼らの言は尤もでございます。国が滅び、民が責められている中、私一人がこうして平安に生きているのは信に背く行い。この不心得。ヘイレン王家の人間として、恥ずかしい限りでございます」
「恥と思うのはかまわん。貴様の勝手だ。しかし、真に恥さらしなのは果たしてどちらか。国が侵され逃げるのはいい。守護は兵の役目故な。だが、逃げた先で、女一人を囲み制裁を加えんとするその性根はローマニアの民にあるまじき卑劣。ローマニアに根を下ろし、ローマニアで生きるのであれば、此奴らはもはやローマニアの民だ。此度の所業は許し難い。そもそも。貴様とて今は一人の人間に過ぎぬのだぞ。それが俺に指図をするか!」
レーセンは無理やりファティスを引き剥がし、己が持つ刃を彼女へ向けた。しかし、それでもファティスは言葉を続けるのであった。
「はい。ローマニアの一市民として、ヘイレンの王女としてレーセン様にお願い申し上げます。どうか、ここはご恩赦を……」
無言でファティスを見るレーセン。倒れた男の呻き声以外は聞こえぬ空間。張り詰めた空気が人々に冷たい汗を流させる。ファティスは突きつけられた短刀を一目も見ず、ただ、レーセンと向き合っている。二人の視線の間は、鉛のように重く、濃い。
風が四、五回。コーヌコピエの中に吹き渡った。暑く、乾いた風である。場は変わらず静寂。どうなるものかとその場に居合わせる全員が見守る中で、とうとう動きがあった。レーセンが短刀を下ろし、刀身を鞘に収めたのである。
「……いいだろう。国亡き姫君の嘆願だ。此度は聞き入れてやる」
レーセンの一言にファティスは安堵の表情を見せ、「誠、感謝致します」と礼を述べた。
「一度きりだ。次はない」
ファティスの言葉にそう返し、レーセンは「失せろ」と男達に吐き捨てた。レーセンが態度を軟化させるのは珍しい事である。一度下した決断を覆すのは、彼の魂が許さないからだ。それ故かレーセンは見るからに苛立っていた。彼を知る者であれば、いや、彼を知らぬ者とて、尋常ならざる怒気に当てられ避けようとするだろう。しかし、男達は微動だにせずファティスを見据えていた。
「聞こえぬか。失せろと言っているのだ」
レーセンの言葉には殺気が籠っていた。今にも再び抜刀し斬りかからんとするようである。だが、それでも男達は動かない。じっと黙りファティスを見ている。その眼に宿す感情が何であるのか。それは、決して他人に推し量れるまのではない。理不尽に奪われた人間達の心は、同じく理不尽に奪われた人間にしか分からないからである。だが、この場に一人だけ、彼らと同様に世の不条理に憂き目を見た者がいた。
しばし間を置き、とうとうレーセンが短刀の柄に手をかけた時、その人物が一歩前に出た。そう。それは、彼らと同じ国に生まれ、同じく奪われ、同じく傷付けられた人物。蹂躙され、略奪されたヘイレンの第一王女、ファティスである。
「貴方方の失意と怒り。私には分かります。国を追われ、愛した人を失い、受け継いできた土を略奪されたその想い。さぞかし無念であったでしょう。にも関わらず、こうして私が、何の責も果たさず生きているというのは承服できかねる事であると、私としても重々と理解しています。ですが、恥を偲び、勝手であると承知の上で申します」
ファティスは男達の前で跪き両手を頭の上で組んだ。それは動作は本来、平民が貴族や王族に対する服従。あるいは、懺悔を示すものである。
「どうか、私を見逃してください」
王家の人間として、やってはいけない事をファティスはした。平民に平伏し、助命を請うなどあってはならぬ事である。それを人前に晒したファティスに、男達は俄かにざわめいた。
「……もう、やめてくれ」
そう発したのはレーセンに殴られ倒れていた男であった。口と鼻から血を吹き出しながら、這いずるようにしてファティスの元へとにじり寄った彼の顔は、捨てられ、痛めつけられた小動物のようである。
「あんたに罪がないのは知ってるんだ……ヘイレンにいた頃はあんたや王様なんかには祭の時くらいしか会った事はなかったが、それでも、いい国だなって、心の底から思っていたんだ。それが……」
血を吐き出しながらも語る男に、目のファティスは黙って耳を傾ける。
「何もかも失って、どうしようもなかった。ローマニアに畑少ない。土仕事しかしてこなかった俺達に、ここでまともにできる仕事はなかった。雇われても、「使えない」の一言でお払い箱さ。異国の地で頼る人間もおらず、みんな不安に呑まれていた。どうして生きているのか。あそこで、ヘイレンで殺された方が良かったんじゃなかったのかとさえ思う事もあった」
「……」
「そんな時に、この店の話を知ったのさ。ローマニアの王子達と深い仲の娘がいるってな。その娘は、宝石みたいな眼と、透き通る金髪してると聞いた時。もしやと思った。それで、仲間達に確かめに行こうと言ったんだ。もしそうだったら、殺してやろうともな。そして今日だ。あんたは、本当にファティス様だったじゃないか」
「……」
「俺はどうしても許せない。俺達の国を守れなかった人間が、その一族が生きている事を」
「……」
男はよろよろと立ち上がり、今度はレーセンの方を向き、話を続けた。
「ローマニアの王子さま……レーセン様。でしたか。此度の恩赦。感謝の言葉もございません。しかし、間違っているのは承知でございますが、私はヘイレンの王女を許す事ができません。それが罪であるならば、どうぞ私を死刑にしてください」
「人を憎むのは人の性だ。それを咎める事などできん」
「そうですか……」
男はふらと歩き、仲間達に「行くぞ」と声を掛けコーヌコピエを去っていった。
こうして、突如やってきた騒動の幕が引いた。店にいた客達の飲んでいた茶はすっかりと冷めていたが、誰もがどうしたらいいのか分からないといった様子でその茶を飲み落ち着きを取り戻そうとしている。そんな中、レーセンと同席していたラムスは浮かない顔をしていた。
「なんだ弟よ。辛気臭い顔をしているな」
レーセンはすっかりと平素通りとなっていて、曇るラムスを嘲笑った。
「ファティス様……大丈夫でしょうか」
ラムスはそう言いながら片付けをしたり席を立つ客に挨拶をしているファティスを見た。彼は此度の騒動でなんの役にも立てなかった事を恥じているのだろう。
「知らんな」
レーセンはそう言ったきり黙ってしまった。とっくに飲み干された茶を見下しながら、冷たい表情を浮かべている。その様は、普段の軽薄さからはかけ離れた真面目な面持ちであった。
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