相克2

 レーセンが去った後、カルロはファティスに一礼し、ラムスの隣に立った。客席の傍で直立不動となっている彼の姿は茶屋において実に異質である。ファティスはどうしていいものかと迷っているようだったが、ともかくとしてカルロに声をかけるのだった。


「カルロさん……あの、お座りになられては……」


 蚊が消え入るような声でファティスはカルロにそう言った。まるで懇願するかの如く訴えるファティスであったが、カルロは慎み深く、はっきりと拒否の姿勢を示した。


「お気遣い、大変恐縮でございます。しかしながら、私はラムス様にお付き添えする身なれば、ご同席など恐れ多く存じます故、私の事は、どうぞお気になさらず」


 カルロの弁にすっかりと困惑してしまったファティスはちくはぐと身を動かしては言葉を詰まらしていた。それを見たラムスはやや肩を落とし、仕方のない。といったような顔を見せ、カルロに顔を向けた。


「カルロ。貴方も座りなさい」


「しかしながらラムス様。私は……」


「いいですから、座りなさい。貴方には私と同席する命を与えます。従いなさい」


「……かしこまりました」


 カルロは渋々とラムスの名に従った。彼は元より融通が利かぬ人間であったが、命令となれば従順であり、臣下として振る舞うのである。ラムスがあえて高圧的な口調となったのは、カルロのそういった性格を理解していたからである。


「失礼しました。では、ファティス様。お茶を二つ……」


「ラムス様。私は……」


「私の茶が飲めぬというのですか?」


「……いえ。いただきます」


「よろしい。それでは改めてファティス様。お茶を二つお願い致します」


 ラムスの注文に精一杯の笑顔を作り、「すぐにお作り致します」と、ファティスは茶の準備を始めた。他の客はその様子を不思議な目で見ていた。普段外に出ないラムスが、こうまで入れ込む相手とは果たして何者であろうかと、いよいよもって疑問を抱いたのである。当初はレーセンの遊び相手の一人であり、女っ気のないラムスがそれを見初めたのだろうくらいに考えていたのだろうが、どうやらそうでもないというのをここまでのやりとりで勘付いたようで、店にいる者達のファティスに向ける視線は、どこか野次馬のような下衆なものへと変貌していた。


「あのお嬢さん。放蕩王子の相手ってわけじゃないらしい」


「どこぞの貴族が道楽に店でもやりはじめたのかもな」


 お互いに顔も知らなかった客同士が下世話な話を始める。そのにやけた面構えはアルサッカの娼館に来る客と似ていた。ラムスとカルロの茶ができ配膳する際にそれを見たファティスは、話の内容までは聞き取れなかったが、重いもやのかかったような顔を見せるのであった。


「どうかいたしましたか?」


 ラムスの問いに「いいえ」とかぶりを振るファティスであったが、その美顔は朽ちかけた小木のように卑屈で控えめである。男達になぶられた傷は、未だ彼女の心に残っているようで、如何に前向きに、明るく勤めようと隠せるようなものではなかった。


「ファティス様……」


「申し訳ありません……申し訳……」

 

 落涙は堪えた。しかし、ファティスの両眼は濡れていた。透き通る翡翠が歪んでいた。ラムスもカルロも彼女の悲痛を知らない。彼女の秘めた胸の内を知る者は、ここにはいなかった。その後、ファティスから悲涙の気配は消えたのだが、カルロは元より、他の客もラムスも、これといって話をする事なく帰路に着いたのであった。







 それから数日が経った。相変わらず、コーヌコピエにはレーセンが居座っており、言う必要のない文句を吐き散らかしていた。そしてこの日はラムスも来ていた。彼はたまにレーセンを窘めたりしていたがあまり口は聞かず、ファティスにたいしても相槌を打つ程度の会話しかしなかった。ファティスが昨日に見せた、あの悲痛なる面持ちを忘れられないようである。


 そんな中において四、五人の男達が乱暴にコーヌコピエに押し入って来たのであった。彼らの目は等しく血走り息は荒い。彼らは毛髪。瞳。肌の色が、ローマニア人のものではなかった。


「……本当に……いるじゃないか」


 男の一人がファティスを見てそう言った。静まり返る茶屋内。二人の王子を含めた客達は、皆が皆、突然の乱入者の方へ視線を向ける。それに呼応するかの如く、先に声を発した男が再び口を開いた。


「ファティス王女……あんた、国がどうなっているのか知っているか!」


 王女。その言葉が重く響く。 ファティスは驚愕し、男に向かって口を開く。


「貴方達は……ヘイレンの……」


「そうだ。ヘイレンの生き残りだ……」


 そう。彼らはヘイレンからの逃亡者であった。アンセイスが出した文により、落ち延びた国民の何人かはローマニアへ身を移したのであったが生活の基盤は悪く、その大半が困窮に喘いでいるのであった。


「なんで、あんたが生きているんだ! 俺達がどんな目に遭っているのか知っているのか! 妻と娘が辱められて殺された人間が! 目の前で両親が拷問された人間が! 手足の腱を斬られ野晒しにされた人間が! 身体中の皮膚を剥がされた人間が! ヘイレンにはいた! そしてそれは今も続いているんだぞ! それなのに……どうして、何故あんたがのうのうと生きているんだ!」


「……!」


 男の怒号にファティスの顔は蒼白となった。彼らに対し「父と母に。王と王妃に助けられたから」とは言えるわけがない。なぜならば、王家とは国と共に産まれ、国と共に滅びる運命にあるのだから。

 

「答えろ! さぁ! なぜあんたが生きている!」


 男達は一歩ずつファティスに近づいていく。怒りが彼らを獣にしていた。怒りが彼らを動かしていた。怨讐に曇った瞳に捕らわれたファティスのおみ足は動かす、彼女は小さな肩を震わせる事しかできなかった。男とファティスの距離は、もはや人一人分である。振り上げられた拳がファティスに向けられようとしたその刹那。激しく鈍い音がコーヌコピエに響き渡った。


「くだらぬ!」


 レーセンがファティスに詰め寄った男を殴打したのだった。血飛沫が舞い、奥歯が転がる。男は倒れ悶絶し蹲った。それを見た男の仲間達は激昂し、レーセンに飛びかかろうとした。しかし。


「控えよ下郎! 我をなんと心得るか!」


 尊大不遜なるレーセンの咆哮が響き、男達は狼狽えた。若いといっても国を背負う気概を持つ人間の一喝である。相応の胆力がなければ反に応ずることもできぬだろう。すっかりと気迫に呑まれてしまった男達であったが、レーセンはさらに続ける。


「貴様らの薄幸には哀れんでやる。家も家族も失った身だ。同情もしよう。だが、自らが愛し、育った国を統べていた君主の忘れ形見に手をかけようとする惰弱なる性根ばかりは看過できん そこへ直れ! 裁判は不要だ! この場で素っ首跳ね上げてくれる!! 言い残す事は何かあるか!? いやいい! 今際の際の言葉も聞苦しいだろうからな! 潔く死ね!」


 レーセンは腰から美しい装飾がなされた短刀を取り出した。如何に短刀といえども刃は厚く鋭い。さすがに斬首はできぬだろうが、上手く斬れば致死せしめるであろう。また、鞘にはローマニア王家の紋章が入っており、それを見た男達は今更ながらにレーセンが王家の人間であると確信したようである。誰もが圧され、弁明も逃避もできぬ状況であった。しかし、そんな中で一人、レーセンに歩み寄る者がいた。


「……どうか、やいばをお納めください」


 ファティスであった。

 短刀を握るレーセンの手を、彼女の手が優しく包む。翡翠は曇り、金糸は乱れ、顔の血の気は著しく引いてはいたが、その声は、美しく、優しく、慈愛に満ちたものであった。

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