芽吹かんと3

 ロセンツォがファティスを連れてきたのは古い茶屋だった。古い。とはいっても家具や茶器使の材質は良く、全体の掃除もいき届いている。店の主は歯の抜けた老婆であったが、身形みなりは清潔で美しく愛嬌があり、出された茶の香りと味も、ファティスを満足させるものだった。


「いいお茶ですね」


「そうでしょう。実は、ここの茶葉は私が卸しているんですよ」


「まぁ。そうなんですか」


  茶を飲みながら談笑していた二人であったが、茶を半分も飲むとファティスは辺りを見回したり指を動かしたりと落ち着きがない。その浮つきぶりはおよそらしからぬものであったが、彼女としては、一刻も早く部屋を貸してくれる人間を探したいのだろう。


「あの、ロセンツォさん。お話しとは、どういったもので……」


 しびれを切らしたファティスはそう口を開いた。不安と焦燥からか眉を下げている彼女の様子を受け、ロセンツォは改まって咳払いをしてからファティスを見据えた。


「……はっきりと申し上げます。お嬢さん。貴女では、部屋を借りる事ができません」


 ロセンツォの言葉を、最初ファティスは理解できていないようだったが、一間を置いて、「そうですか」と呟いた。項垂れているファティスの姿は、もはや珍しいものではなかった。


「商売仲間が言っていたんです。随分な美人が部屋を借りたがっているらしいと。瞳の色は翡翠。髪は黄金と聞いて、私はすぐに、それがお嬢さんだと確信しました。それで詳しく訊ねてみると、身元も名前も分からないというじゃないですか。それでは借りれるものも借りられません。ちゃんと話を作らないと」


 ロセンツォは丁寧にそう言ったが、落としていた顔を上げてファティスは背筋を伸ばした。


「私、嘘は苦手なのです」


「いや、嘘ではなく、方便というか……」


 ロセンツォはその後も必死にファティスを説得しようとしたが取りつく島もなくひたすらに平行線を辿っていた。「いえ」とか、「どうして」とかばかりが行き交い埒があかない。これにはさすがのロセンツォも険しくひきつり、どう対処したものかと思案しているようだったが、一つ閃き「そうだ」と、ファティスに言うのであった。


「お嬢さん。店を持ちたいなんて言うんですから、生活が苦しいんじゃないですか? 金を稼ぐというのは、それはもう大変な事なんです。その前段階で躓いているようでは、とてもじゃないですが生きていけませんよ。そもそも、貴方は今、どこにいらっしゃるんです? 根無し草で安宿の世話になるならば、そろそろ懐具合も厳しくなってくる頃でしょう」


 ロセンツォの語気はやや強く熱がこもっていた。さしずめ娘を叱る父親のようである。そんなロセンツォを前にファティスは少し吃ったが、隠す理由もなしと、今置かれている状況を話した。


「いえ、あの、お恥ずかしい話なのですが、私、只今サンジェロス城にお世話になっておりまして……」


 ロセンツォは事によってはファティスを家に置くつもりでいた。それについては妻にも了承を得ており、その妻も、身寄りのない子供の面倒を見るのは人として当然と彼に返していた。だがそれも、ファティスが王家の居城に身を寄せているとなればいらぬ心配であり、ロセンツォにしても、そんな身の上でなぜ独立稼業など営もうとしているのか不思議で仕方ないという様子であった。


「……やんごとなきお立場故、どこぞで女給をやるくらいならばお一人の方がよろしいとは私も考えておりましたが、サンジェロスに居られるのであれば話は別でございます。いったいなぜ、お嬢さんは店などを持ちたいなどと思われるのですか?」


 困惑した面持ちのロセンツォの目をまっすぐ目を見て、ファティスは語る。


「ロセンツォさんにも以前お話ししたように、私の命は、父と母に助けられました。その命を、誰かの力によって奪われるのも生かされるのも望むところではありません。未熟故、様々な人達に助力を請う事もあればご迷惑もおかけしましょう。しかし、私は、それでも、人生という大地に自らの両足をもって立ちたいのです。一国の姫として産まれた人間の言葉として相応しくないのは重々承知の上でございます。ですが、私はどうしても、一人で、しっかりと生きていきたいと思うのです」


 ファティスの言葉は力強かった。若さ故に意固地になっているところも多分にあるだろうが、それを差し引いても、彼女の眼に霧はかかっていなかった。澄んだ翡翠はロセンツォを捉え純粋たる決意を示し、偽りのないその両眼を前にして、ロセンツォはもはや正論を語る気が失せてしまっていた。子供の巣立ちを咎める事は容易であるが、巣立てぬ子供の生は苦難である。ロセンツォは自ら得た経験をもってしてそれを知っていた。幼少の頃、旅した各地で挑めぬ事に苦悩する者達を見てきた。困窮とは何も飢えや渇きだけではない。社会。慣習。家……そういったものに縛られた魂は次第にやせ細り、考えることを止める。それは、死人と同じである。

 ファティスの待遇は肉体的には全く問題はなかった。ローマニアは盟友の子を格別の客として遇し、一国の姫君として相応しい扱いをしていた。しかし、それに甘んじ、意味も意義もない生に縋るのは愚劣である。

 偶発的に生じた命に本質的な価値などあろうはずがない。生きる事とは本来不毛であり、是非を問えぬ義務的なものである。それはまさしく悲劇なのだが、しかし、だからこそ、いや、そうでなければ、人は生に対し何かを成そうとは考えず、無限の悲劇を繰り返すことができるのだ。人はそれを、希望と呼ぶ。



「……分かりました。そこまで仰るのならば、もはや止めても無駄でしょう。存分におやりなさい。ただ……」


「ただ?」


「この出会いも何かの縁です。私にも、貴女のお手伝いをさせていただけませんか? 幸い、貸し部屋ならば一つ心当たりが……」


 ロセンツォは生きようとするファティスに手を差し伸べた。彼も商人で、それも、どちらかといえば金のない方であり、一筋縄ではいかぬ商いの厳しさは身に染みているのだが、それでももうファティスの甘さを否定する事はなかった。


「本当でございますか!?」


「はい。ただ、紹介するに当たって、幾つか条件がございます」


 笑みを絶やさぬロセンツォの顔が引き締まる。


「一つ。どんなに辛くても泣き言を吐かない。二つ。面倒でも、売上の計算と店の管理は怠らない。そして三つめは、信念を持って仕事をする事です。どうですか。できそうですか?」


 ロセンツォの表示は少しも緩まず威厳を持っていた。しかし……


「はい……はい! もちろんです!」


 ファティスは大きく首を大きく縦に振り頷いた。暗かった顔は霧が晴れたように輝き、彼女が持つ元来の爛漫さを取り戻していた。大地を照らす太陽のような笑顔は、まさに天性の美といっても過言ではなかった。嘆き俯く姿は似合わない。笑顔こそが、彼女の魅力を、美しさ際立たせるのである。彼女が心から笑ったのは、ローマニアに来て、初めてレーセンと出会って街を案内されて以来であった。

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